インプレ

映画

インプレ

映画

最近の記事

今村夏子とラース・フォン・トリアー ー「黄金の心」ー

「変人もの」明らかに「正常さ」を欠いた人物を描く物語のジャンルがある。普通の人とは異なる価値観や世界観、行動原理を持った人間の言動を追う物語は、多くの小説や映画の題材となり、ささやかに一つのジャンルを形成してきた。いわゆる「変人」を主人公にし、その視点から物語を語っていく、「変人もの」である。物語が「ドラマになるのは、主人公の欲望が、彼/彼女の世界の外にある他者やコミュニティの原理と対立することによって主人公に困難と葛藤をもたらし、主人公に実存的な変化を要請するときであるの

    • 『CURE』 ー「存在の震え」について

      存在の震え映画の定義を「フィルムの震え」という概念に見出した日本の批評家がいる。その批評家とは紛れもなく蓮實重彦のことだが、この人物の存在などこの際どうでもよろしい。我々の興味を惹くのはあくまで「フィルムの震え」という概念そのものであるからである。それにしても「フィルムの震え」という言葉は、我々が映画の最も映画らしい瞬間を見たときに抱くある種の感覚を、極めて的確に表した概念様式であるように思える。我々は確かに、フィルムが震える瞬間を知っている。しかし一方で、「フィルムの震え」

      • 「心」の物語について

        人は、努めて人生を理性的に生きようとするものである。目の前に何か魅力的なものがあったとしても、それを今手に入れてしまえばこの後の将来にどんなことがあるだろうかと、つい理性的に思考してそれを懐に入れることを躊躇ってしまう。しかし同時に人は、理性を介さずに人生を生きることに極めて強大な憧れを持っている。ルネ・クレールの『悪魔の美しさ』(1949)の脚本家でもある劇作家のアルマン・サラクルーは、「判断力欠如で結婚、忍耐力欠如で離婚、記憶力欠如で再婚」という言葉を残したとされるが、こ

        • 「映画的なもの」と現代

          綿矢りさの小説『蹴りたい背中』は「さびしさは鳴る」という詩的な一文によって始まる。この表現は解説の斎藤美奈子までもが「文学的にすぎるという意見もありましょう」と書くなど、多くの批評の言葉を呼び起こしたが、本当に「文学的な表現」というものがあるとして、では一方で「映画的にすぎる」表現とはどこにあるのだろうか。それは明らかに、フリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』のヘンリー・フォンダが自らの手首を切るシーンや、ブレッソンの『やさしい女』のドミニク・サンダが自殺するシーン、侯孝賢の『戀

        今村夏子とラース・フォン・トリアー ー「黄金の心」ー

          【時評】「映画の呼吸」によって作られた映画 ー『ジオラマボーイ・パノラマガール』

          人間この映画における山田杏奈=渋谷ハルコが、近年で最も映画的な人間であることは間違いない。それは彼女が世界を自分の眼でしか見ていないこと、客観的に自らを見つめる視点というものを、すっかり欠いてしまっていることに由来している。渋谷ハルコにあるのは全く主観のみであり、妹と母親に頼まれたお使いの品をほとんど一目惚れをした相手=神奈川ケンイチに渡してしまって、そのことをお使いの依頼主に咎められても一切意に介さなかったように、どんな状況においてもその固有のパーソナリティーを変化させるこ

          【時評】「映画の呼吸」によって作られた映画 ー『ジオラマボーイ・パノラマガール』

          『恐怖分子』 ー残酷な聖域の開拓

          あらゆる人間がそれぞれの事情をもって交錯し、それらによって混沌と化したある一つの都市を、エドワード・ヤンはいとも簡単に、”聖域”としてみせる。パトカーのサイレンが鳴り響く大通りの光景が、異様なまでの不穏さをもって捉えられているのもそのためだ。この映画の舞台となっている台北は、色彩と照明と時間においてエドワード・ヤンの手中にあるのである。 しかしながら彼が対峙しようとする主題は、秩序から程遠い、混沌を絵に描いたような時空間である。侯孝賢なら山間の田舎町を舞台に、密接な関係にあ

          『恐怖分子』 ー残酷な聖域の開拓

          井口奈己の欠点について

          私たちが井口奈己という1人の映画作家について語るとき、私たちが語ることとは一体どういうものであるべきか。誰もがその映画的才能を称賛し、その人間的演出能力を敬慕し、しまいには「井口こそが現代日本の最高の映画作家」とまで言いだす者(紛れも無い私である)もある中で、今井口奈己について語ることが、果たして実直な称賛だけであるべきか。井口奈己の作った3本(あるいは4本)の長編映画を、ただその素晴らしさだけを指摘して褒め称え、まだ井口の名を知らぬ者へ伝えるだけでいいのか。あるいは井口奈己

          井口奈己の欠点について

          劇的なるもの ー『牯嶺街少年殺人事件』論

          序世界から人々にとっての一つの共通の目的が失われていったのは、多くの社会学者や哲学者が指摘した通りである。彼らが無数の引用と学問的な知識を用いて説明したその「物語の喪失」は、しかし同時に芸術を愛好する人々の間では言わば言わずもがなの常識であった。ルノワールが描いたようなパリは、もはや現代にはないからである。『舟遊びの昼食』の”幸福”は、あらゆる主題間の共通目的性に多くを負っている。溝口健二の撮る世界が、ある登場人物の ー蓮實重彦の言うところのー 「空間の占有能力」によって支配

          劇的なるもの ー『牯嶺街少年殺人事件』論

          『メフィストの誘い』  ー悪魔のような映画

          ある一人の俳優の存在が、一本の映画を傑作たらしめてしまう場合がある。溝口の『祇園の姉妹』の山田五十鈴、『曳き船』のミシェル・モルガン、『若者のすべて』のアラン・ドロン、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントなどがその最たる例である。そして『メフィストの誘い』のレオノール・シルヴェイラも『メフィストの誘い』という一本の映画を傑作に仕立て上げてしまったという点で、記憶されるべき存在だ。誤解のないように予め書いておくなら、一人の俳優の存在が作品を傑作たらしめるということは、決してそ

          『メフィストの誘い』  ー悪魔のような映画

          【日記】 『思い、思われ、ふり、ふられ』の予告編を見て

          ここ最近のメジャー映画やテレビドラマはそのほとんどがヒットした漫画の映画化であって、TSUTAYAの漫画コーナーに行くと「これも漫画が原作なのか」と驚くことが少なくない。『かぐや様は告らせたい』や『ヲタクに恋は難しい』、『アンサングシンデレラ』に『殺さない彼と死なない彼女』、さらには『アルキメデスの大戦』や『空母いぶき』までも漫画原作なのである。そしてご多分に漏れず、東宝の新作『思い、思われ、ふり、ふられ』も咲坂伊緒原作の女性向け漫画(TSUTAYAではそう分類されている)の

          【日記】 『思い、思われ、ふり、ふられ』の予告編を見て

          ホークスの遺言

          良い場面はロングショットで撮られたに決まっている ジョセフ・マクブライドがハワード・ホークスに行ったインタビューをまとめた書籍『監督ハワード・ホークス「映画」を語る』の中で、『リオ・ロボ』の作家は何やら怪しげな確信とともにそう言った。原著は1972年にアメリカで出版されたわけだから、ホークスはこの時すでに遺作を撮り終えていたことになる。そして5年後にはチャップリンが死去した翌日に、まるで生前の映画作家としての境遇を再演するかのようにひっそりとこの世を後にするのだが、ここでの

          ホークスの遺言

          時間は滅多に進まない

          優れた映画作家はいとも簡単に優れたシーンを撮る。同じように優れた作家は、「なんてことのない場面」さえ、それが人の人生の忘れられない一瞬であるかの如く劇的に撮ってしまう。 例えば侯孝賢、『百年恋歌』の冒頭。青年(張震)が春子という女性に会うためにビリヤード屋へ行くが、彼女はすでに店を去っている。春子の代わりに秀美(スー・チー)という女性が新しく店の娘として入ってくる。そこで青年は秀美と夜までビリヤードをする。青年が帰った後、店じまいをしている秀美のところに、店のシャッター(のよ

          時間は滅多に進まない

          この世にある「映画」をすべて集めよ ー『フルスタリョフ、車を!』

          夜、一面が雪に覆われたロシアのある町ではクリスマスなのだろうか、町中に電飾が施されておりその大通りには一台の車が止まっている。誰かが口笛を吹くと向こうから一匹の犬がやってくる。カメラが90度パンをすると大きな屋敷の柵の向こうから1人の男がこちらへ向かってくる。その男はこの屋敷のボイラーマンらしい。彼が門の近くにあるブレーカーらしきものをいじるとすぐさまそれは爆発し、男を転倒させ同時に屋敷全体に施された電飾を点滅させる。ボイラーマンは起き上がり、屋敷の前に止めてある車を認めると

          この世にある「映画」をすべて集めよ ー『フルスタリョフ、車を!』

          『神曲』、精神を病む人々と劇的存在者 2/2

          (極度の神経衰弱に抗いながら執筆したため、読者に対して大変不親切な文章になってしまっていることをお許しください。) 罪と罰 ー性と死の寓話『神曲』は間違いなく、映画史上最も感動的に『罪と罰』を映像化した映画の一つである。『罪と罰』という小説の倫理的・宗教的な厳格さの中にある美しさを、原作がそうであるように禁欲的な主題を欲望に忠実な形で表現し、同時に小説とは違う仕方で、つまり映画だけができ得る仕方で提示してみせたからである。また旧約及び新約聖書、ニーチェ、ジョゼ・レジオ、そし

          『神曲』、精神を病む人々と劇的存在者 2/2

          『神曲』、精神を病む人々と劇的存在者 1/2

          現実と劇 ー演劇を「撮影」する映画作家が現実を、世界を、他者をどう視覚的に表現しようとするかについて考えるとき、マノエル・ド・オリヴェイラの映画は非常に興味深い示唆を我々に与えてくれる。『アブラハム渓谷』や『フランシスカ』と並んでオリヴェイラの最高傑作とも称される1991年公開の『神曲』は、そのどれもがお世辞にも現実的とは言いようのない細部の集まりによって形成された映画であるにも関わらず、そこに圧倒的な現実が、幻惑的な世界が、魅力的な他者が存在しているからである。アダムとイヴ

          『神曲』、精神を病む人々と劇的存在者 1/2

          カメラに向けてカメラを向ける ー視線についてのあれこれ

           映画史上、おそらくほぼ全ての映画作家が撮ることを避けてきた対象というものが存在する。ここでニーチェなどを引用するのはいささか気が引けるが、それを覗くとき同時にそれに覗かれているという体験や感覚が、人を無意識のうちに恐れの中へと誘うかもしれないという不安から人はそれをカメラに収めることを拒否してきた。それとはカメラそのものである。カメラが画面に登場してくる映画は山ほどあるが、それがカメラのレンズそのものを覗き込むように捉えた試しはほとんどない。あるいはカメラのレンズが画面に収

          カメラに向けてカメラを向ける ー視線についてのあれこれ