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「映画的なもの」と現代

綿矢りさの小説『蹴りたい背中』は「さびしさは鳴る」という詩的な一文によって始まる。この表現は解説の斎藤美奈子までもが「文学的にすぎるという意見もありましょう」と書くなど、多くの批評の言葉を呼び起こしたが、本当に「文学的な表現」というものがあるとして、では一方で「映画的にすぎる」表現とはどこにあるのだろうか。それは明らかに、フリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』のヘンリー・フォンダが自らの手首を切るシーンや、ブレッソンの『やさしい女』のドミニク・サンダが自殺するシーン、侯孝賢の『戀戀風塵』のアフンが徴兵に行くアワンを駅で見送るシーンの中にある。しかし綿矢の『蹴りたい背中』のはじめの一文が、「文学的すぎる」ゆえに批判されるとき、現代の映画が「映画的にすぎる」こともまた批判さるべきことなのだろうか。
『蹴りたい背中』と「文学的な表現」が相容れない2者であったことは疑いようのない事実だ。

「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。」

審美的な言葉の羅列が、作品のライトな立ち居振る舞いを阻害してしまうことになるだろうから、『蹴りたい背中』において「文学的な表現」は最低限の領土しか与えられることはなかった。むしろ作家が、作品の潜在的に持つその印象に抗って、自らの文学的な欲望のために書いてしまった文章であるといった印象さえ冒頭の文章からは感じられる。作品の中に描かれる世界が、「文学的な表現」を予め拒絶しているのである。ではそれはどういった世界か。

『蹴りたい背中』は古典的な物語にまとわりつくあらゆる要素から解放された小説の一つだ。これは少しの格調の高さを持たず、趣味のいい叙情も、感動的なほど魅力的な登場人物も出てこない。極端な比較が許されるなら、ソフォクレスの『オイディプス王』と対極に位置する小説なのである。古典的な物語なら削除していたような「カッコ悪い日常」に焦点を当てた作品が、『蹴りたい背中』に他ならない。この綿矢りさの2作目長編が世間で言われるほどの傑作であるかは甚だ疑問だ。面白く読めることに疑いはないが、しかしある陰気な女子高生の抱く同じく陰気な男子高生への軽い暴力的な衝動や、彼女の疑わしい繊細さの導入する滑稽な暗い世界観が、作品を突出して挑発的なものとしているかは、普遍的な批評的視点から見て微妙だからである。しかしここで重要なのは、この小説が傑作であるか否かではない。そこで描かれる世界が、あくまで醜いがゆえに「文学的な表現」を拒絶しているという事実についてである。

では一体、文学的であるとはどういうことか。それは「文学的な表現」に他ならなかった古典的な物語が、今日の世界とは異なる圧倒的に美しい世界を描き出していたという事実とは反対に、「世界」よりも「言葉」において美しさを見出していたことと関係している。「さびしさは鳴る」という表現が「文学的」なのは、それが「世界」ではなく「言葉」において存在している点においてである。つまり文学的でない小説とは、他のどんな言葉でも代替可能な言葉の羅列でできた小説であって、従って文学的な小説とは他の一切の言葉でも代替不可能な、「その言葉」でなければ作品そのものの存在が変容してしまうような小説に他ならないのである。
そして我々が「古典的なもの」から解放されて、「今日的な」小説を書くためには『蹴りたい背中』のように(また『コンビニ人間』、『何者』のように)「文学的な表現」を排除し、どんな言葉でも代替可能な言葉によって小説を書き進めなければならない。

このとき、「映画的な表現」と現代の映画のあるべき関係が自ずと明らかになってくる。ある映画が「映画的」になるためには、その映画の存在理由が「ショット」の中になければならない。「文学的な表現」が「これしかない」という代替不可能な言葉によって形成されていくように、「映画的な表現」は「これしかない」という代替不可能なショットによって形成されていかなければならないのである。そして現代において、「映画的」であることはほとんど無意味な性質にまで成り下がってしまっている。古典的な物語が「古臭く」、「自然ではなく」、「信用ならない」と断じられるようになった現代においては、『蹴りたい背中』で描かれたような「カッコ悪い日常」こそが信用に値する世界であり、物語において描かれるべき世界なのである。従ってそこで選択されるべき表現方法は、その世界と相容れることのない「文学的=映画的な表現」ではなく、他のどんな言葉=ショットでも代替可能な言葉=ショットでなされる表現なのだ。言い換えればそこで描かれる物語は、小説だろうが映画だろうが、はたまた演劇だろうが、どんな芸術の分野で表象されてもさして変わらない物語となる。
今日においてほとんど無意味なものとなった「文学的=映画的な表現」を、それでも試みようとする原理主義者は、だから「信用できない」とか「不自然だ」といった批判を浴び続けなければならない運命にあるのである。


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