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ホークスの遺言

良い場面はロングショットで撮られたに決まっている


ジョセフ・マクブライドがハワード・ホークスに行ったインタビューをまとめた書籍『監督ハワード・ホークス「映画」を語る』の中で、『リオ・ロボ』の作家は何やら怪しげな確信とともにそう言った。原著は1972年にアメリカで出版されたわけだから、ホークスはこの時すでに遺作を撮り終えていたことになる。そして5年後にはチャップリンが死去した翌日に、まるで生前の映画作家としての境遇を再演するかのようにひっそりとこの世を後にするのだが、ここでのホークスのこの至言めいた、訝しい、きな臭い発言と我々はどう対峙するべきなのだろうか。聞き手のマクブライドはこの発言を簡単に聞き流してしまっているし、読者たる我々もこの断言に快く首肯することはできない。実際彼が同著の中で敬意を隠そうとしないジョン・フォードは、素晴らしいクロースアップを撮ることでいくつもの名シーンを作ってきた映画作家である。誰が『駅馬車』のジョン・ウェインや『我が谷は緑なりき』のモーリーン・オハラ、そして『周遊する蒸気船』のアン・シャーリーのクロースアップを忘れることができよう。

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(ジョン・フォード『我が谷は緑なりき』)

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(ジョン・フォード『周遊する蒸気船』)

ならばホークスは間違ったことを言っているのだろうか。あるいはD・W・グリフィスの系譜に連なるクロースアップの一族からはホークスは外れた映画作家だということか。あるいはこの言葉は、現役を退いた「往年の名監督」の無責任な戯言に過ぎないのか。人は長らくこの言葉を知らずにいたか、あるいは取るに足らない映画の定義だと無視してきた。しかし私はそれらのどの立場も取りたくない。この発言がホークスの最も重要な遺言であると信じて疑わないからである。『暗黒街の顔役』でアン・ヴォーザークの感動的なクロースアップを撮ってみせた作家には、映画についての一つの確信がきっとあるに違いないと曖昧ながらも信じているからである。「良い場面はロングショットで撮られたに決まっている」。「良い場面」とは何か、「ロングショット」とは何か。ハワード・ホークスが生前にたどり着いた一つの直感的な映画についての定義を、確信へと変貌させる義務が後世の我々にはある。


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(ハワード・ホークス『暗黒街の顔役』)

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(ハワード・ホークス『赤い河』)

良い場面

ここでは捻くれずに「良い場面」を、あらゆる映画が目指してきた絶対的な成功のことであると定義しよう。そしてさらに話を広げて、全ての芸術と全ての人間存在が目指してきた全ての成功のことを「美しさ」と呼ぶことにしたい。つまりここでは例えばホラー映画の恐怖であったり、ラブロマンス映画のロマンチシズムであったりを同列に、全て「美しさ」と呼称する。
 私たちは「美しさ」と呼ばれるものが、「合理性」や「秩序」と同じものであるということをプラトンの時代から知っている。プラトンは我々の生きる現実(現象界)とは別に、あらゆる事象が合理的に形成されたイデア界を設定し、不可思議なまでの世界における秩序と混沌の同居を説明しようとする。簡単に言えば、なぜ我々の世界は美しくもなんともないのに、我々は「美しさ」を知っている(=想像できる)のか、それはイデア界があるからだ。ということになる。プラトンの失敗は、 ー後世の哲学者によって気の毒なまでに袋叩きにされているー 芸術への過小評価であるのだが、しかしここではプラトンへの批判は置いておいて、彼とその後世の弟子たちが一切の疑いも持たずに論を進めている「合理性」の問題について考えてみたい。合理的であることはなぜ美しいのか。
 「合理性」を辞書で調べると、「道理にかなった性質。論理の法則にかなった性質。」と出る。「論理の法則にかなった性質」とは、あらゆる事象が因果関係を持って連続的に存在しているときの性質のことである。「a が存在し持続しているのはb がかつてあったからであり、a がいま存在しているということはじきに c が発生するだろう。」このような命題が成り立つとき、そこには「合理性」があると言える。だからここで「合理性」という用語の持つ意味を再定義してみよう。「合理性」とは、「あらゆるものの存在理由と持続理由を完璧に説明することのできる性質である」と。(ここで言う「存在」とは「空間的に在る」ことであり、「持続」とは「時間的に在る」ことを指す。以下では、空間的および時間的に在ることを「存続」と呼称する。)
 「あらゆるものの存続理由を完璧に説明できる」ならば、そこにはそれを存続するに至らしめた「何者か」がいるはずだ。私たちが ーたとえ無神論者でもー 神のような超越的な存在者の存在を信じざるを得ないのは、この世界が「何者か」によって製作され操作されているようにしか思えない瞬間があるからに他ならない。例えば宇宙における惑星運動が、恒星の周りをまるで人間がコンパスで描いたかのように完璧な円を描く。意思を持たない植物がまるで動物のように知恵を働かせて栄養をとり子孫を残してゆく。この自然の不可思議を前に、古代の人々が無限的な存在者の存在を信じずにいられたはずがない。「合理性」は、「何者か」がそのように作り出した性質である(としか、私たちには考えられない)。それゆえに、ここでは「合理的」なものとそうでないものを区別するとき、合理的な何かを作り出すきっかけのことを「作為」と呼ぼう。「合理性」は、「何者か」が、「作為」を持って作り出した性質だ。
 しかし一つ言い添えておかなければならないのは、私たちは「作為性」に美しさを感じると同時に、「無作為」なもの、「不条理」なものにも惹かれてしまうということだ。計算されていないもの、偶然的に現れたものにも価値を見出してしまう感性を我々は持っている。確かにそれは「美しさ」とは相反するかもしれないが、私たちが「悪」に惹かれるように、そういった「美しさ」から遠く離れたものに惹かれてしまうのだ。

  ex) 模型について

  「模型」とはプラトンが最も嫌ったものである。彼が言うには、「芸術とは、イデアの模倣である現実の、さらなる模倣である」。つまり「現実」の「模型」である芸術は合理性から離れたものであるとプラトンは言う。しかしながら「模型」は、確かに現実の模倣でありながら同時に、「何者か」によって作られたという意味で「作為性」を持っている。そしてさらに言えば、「模型」はそれが現実をそのまま模倣しているために「無作為的」でありながら、「何者か」が作ったものとして「作為的」でもある。「模型」は「作為性」と「無作為性」とを矛盾することなく併せ持った事物である。

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(ハワード・ホークス『リオ・ブラボー』)

世界

「作為性」という概念を持ち出すことで、「美しさ」について曖昧ながら明らかになった。「何者か」の「作為」をもって作られたものが「美しさ」を孕んでいる。こう定義する事でプラトンの芸術観の誤りも同時に指摘することができる。芸術とは現実の模倣にすぎないのではなく、「作為性」によって形作られた一つの「美しさ」であるというように。
 しかしそのように、我々の愛好するものを貶めようとする巨大な言説を退けたところで、再び厄介な問題が現前してくる。プラトンの芸術観を批判した後世の理論家たちは、確かに理路整然と知の巨人の極端な説を退けることに成功したが、しかしその仕方は決まってイデア論を継承しており、それを乗り越えようとはしないのである。つまりここでの言い方を使えば、世界には「作為的な世界」と「無作為的な世界」との二つがあり、我々の生きる世界は後者であるという考えを捨て切れていないのである。彼らの考えはこうだ。

「『無作為的な世界』に生きる『無作為的な存在』に他ならない我々は、『作為的な存在』を見たり作ったりするために芸術を利用する。」

この考えには重大な問題がある。「無作為的な存在」である我々はどうして「作為的な世界」を想像できるのか。前項で述べたように、我々に世界が時々「作為性」をもって存在しているように見えるのはなぜか。念のために同じことを違う言葉を用いて言い直そう。「『美しくない世界』に生きる『美しくない存在』である人間は、『美しいもの』を経験するために芸術を創造するのだ」という言説は、「どうして人間は『美しいもの』とそうでないものとを見分けることができるのか」という疑問に、明確な答えを提出することができない。また私たちが時に、「美しくない世界」(=現実)を「美しく」見える時があるのはなぜか。これらの矛盾を前にしてポストプラトン的な芸術論は退けられてしまう。
 この矛盾を乗り越えるためには、まずはじめに「作為的な世界」と「無作為的な世界」があるという二元論を放棄する必要がある。イデア論的な世界観を一旦エポケーしなければならないのである。前項で筆者が「美しき世界」の例として挙げた惑星運動や植物の生態をもとに考えてみたい。なぜ惑星運動はあのように「作為的」なのだろうか。一体どうして惑星は完全な球体をして、太陽の周りを完全な円を描いて回るのだろうか。それは端的に言えば、そのようにしか運動しようがないからである。惑星が恒星の周囲を公転するとき、完全な円を描くことが最短距離であり、それが最も自然だからである。もし惑星が円でない軌道を描いていたとしたら、その時の方がむしろ我々はその運動に疑問を持つだろう。世界が合理的であるのは、合理的にしか存続しようがないからなのである。植物が意思を持った動物のように生存しているのも、同じように合理的にしか生存することができないからである。つまり人間の意思を超えた「何者か」が存在するように見えるのは、世界がその「何者か」によって作られたかのように存在する以外に仕方がないからなのである。
 我々は、とても信じられないような現象を説明するために「神」という概念を導入する。しかしそういった「とても信じられない現象」は、むしろ「起こらなければならない現象」に他ならないのである。「奇跡」のような事態は、それが合理的であるゆえに、決まって必然的に引き起こされるのだ。世界は「作為的」であらざるを得ない。私たちの世界の外にイデア界があるのではなく、私たちの世界が元来イデア的なのである。
 世界が元々「美しさ」を持っているのならば、どうして我々の目から世界は美しく見えないのだろうか。なぜ一部の優れた芸術家だけが、世界の「作為的」な側面を知っているのだろうか。この疑問が私たちの挑む最後の問題となるだろう。

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(ハワード・ホークス『コンドル』)

ロングショット

 世界の「作為性」が明らかになったいま、問うべきことは「我々はどのようにして世界に作為性を見出すか」ということだ。『良い場面』の頁で私たちは、「美しさ」とは合理性のことであると定義づけた。ならば我々が「美しいもの」を「美しい」と認識するためには、その合理性を認識できなければならないのである。世界が「作為的」にそこに在るのにも関わらず、我々がそこに「作為性」を見出せずにいるのなら、それは我々が「作為性」を見出すことのできる地平にいないと考えるのが妥当である。ではものの「作為性」を認識するためには、我々はどのようにしてものを見るべきなのか。
 惑星運動の美しさを私たちが認識できたのは、私たちがそれが完全な円であると認識できたからである。しかし惑星運動が完全な円であるということを、人間は夜空を見上げるだけでは知ることができない。それを知ることができるのは、太陽系を俯瞰する「図」を見たときだけである。「図」がない限り、人間は太陽系の内側で惑星運動の仕方を認識することができないのである。ここまで来れば明らかだが、ものの「作為性」はそれを認識する者がその「もの」の内側ではなく、それを俯瞰することのできる地点に立っていなければならないのである。さらに正確に言えば、惑星運動を隈なく完全に見ることのできる地点、その「全貌」が見える地点に立っている必要がある。
 こうしてようやく私たちは、本稿の主題である「ロングショット」という単語にたどり着く。世界を撮影するとき、それを美しく見るためにはロングショットで撮らなければならないのである。しかもそれは、「もの」が歪んで見える広角レンズではなく、「もの」の形が正確に記録される望遠レンズで撮られたものであるべきだということを付け加えておく必要があるだろう。

クロースアップ

 ここまで来れば明白ではあるが、最後にクロースアップについて言い添えておきたい。クロースアップには「美しいもの」とそうでないものとが存在している。美しいクロースアップは美しいロングショットと同様に、その主題の「全貌」が見える地点にカメラが置かれている。例えば女優のクロースアップが美しいとき、それがクロースアップといえども女優の顔はカメラから「全貌」が見えるために、そのショットは美しさを孕んでいるのである。言わば美しいクロースアップは、対象の「全貌」が認識者から見えているという点で、本質的にロングショットに等しいのである。
 世界を美しく見るということは、文字通りの意味で世界をロングショットで見ることではない。そうではなくて、世界をロングショット的に見ることなのである。ロングショットとは、認識者が対象のものの「全貌」を見ることができたときの、ものの光景のことに他ならない。

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 (ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』)


「良い場面はロングショットで撮られたに決まっている」
  ハワード・ホークスの遺言は、以上より解明された。

  


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