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刹那的。20代で観てよかった(『きみの鳥はうたえる』)

大学生のとき、親友が近所に住んでいて、なんでもないときも、何かある時も、暇があればお互い誘い合ってバイト後の夜遅くに近くの居酒屋に飲みに行くことが多かった。ある時、好きな子に告白したいと言っている友達と飲みに行った。自分も恋愛経験が豊富な方ではないので、愛王・小沢さんのごとく特にうまいセリフで勇気づけることもできないが、「まあ当たってくだけろ」みたいなことで奮い立たせていた。お会計の時に、財布から金を出そうとする親友を制し、「頑張れ」とだけ添えて奢ったんです。

親友は「まじでありがとう」と。

そのお会計時に、朴訥と「頑張れ」と述べる以上に、何か言葉をダラダラ言ってしまうと、臭い空気感になってしまうの、なんとなくわかります?

良いことも悪いことも口にしなくても分かる、そんな友情で結ばれている間柄では、表情や声の調子、言葉と同時に添える仕草の方が、言葉よりももっと饒舌で、感情が伝えやすいなあと思う。まあ、言葉で伝えるのが照れ臭いというのも一因だし、そもそも「言葉にしない代わりに」という考えが単なる過信で、ちゃんと気持ちが伝わっていないとしたら反省しかないんですが。

以下はWOWOWオンラインの作品あらすじから引用。

函館郊外の書店で働く“僕”は、失業中の静雄とアパートで共同生活をしていた。そんな“僕”は同じ書店で働く佐知子と、男女の関係になる。彼女は店長の島田とも関係があるようだったが、そんなことを気にもせず、“僕”と静雄が住むアパートにやって来ては一緒に過ごす。夏の間、3人はともに酒を飲み、クラブへ行き、ビリヤードに興じる。そんなひと夏が終わるころ、静雄が佐知子とキャンプに出掛け、3人の関係は微妙に変わる。

石橋静河演じる佐知子こそ、言葉による感情のコミュニケーションを野暮とする僕と静雄の二人の関係性に一石を投じ、映画のスパイスになる存在。


セックスをする仲である佐知子に「私たちは友達?」と問われても、“僕”は曖昧に濁す。

母が倒れたという連絡を受けながら飄々としている静雄に“僕”は詰め寄ろうとするも、激しく詰問したりはしない。

ダーツ中に少し険悪なムードになるも、そのまま無言でプレーを続け、和やかな雰囲気に戻る。

佐知子から「静雄と付き合うことにした」と言われた“僕”は、「二人がうまくいけば良いなと思ってた」「佐知子が静雄と出会えてよかった」と告げるも、、、。


お互いの楽しみに干渉したりしない、それゆえに語らったり、議論を白熱させたりはしないのが、僕と静雄の関係性なのだなと感じた。冒頭で述べた親友と俺の関係は、「最近どうよ」というフランクさだけでなく、お互いの色恋事情から仕事観、人生観といったかなり深いところまで語り合う関係性にある(と俺は思っている)。ただ、オチはほんとに「みなまで言うな」な感じ。

はっきりと言葉で伝えず、察してもらえるようにすることは、日本人の悪いところという考えもある。けれども一方で、感情を汲み取ろうとする心遣いや想像力って、一種の立派な愛だと思う。日本人でよかったなと思う瞬間。


もうひとつこの映画で好きなのが、朝日が昇る前、朝4時くらいの情況。“僕”と同じバイト先の後輩二人が、夜明け、イチャイチャしたり。冴えないおじさんアルバイターと、離婚した独り身の店長が飲み明かし、商店街の端でゲロを吐いた後に「店長、大好きっす!」と絡むおじさんアルバイター。しょうがねえなあといった表情をしつつも嫌いにならない店長。

経験したことある人ならきっと共感できると思うんですけど、あの朝4時とか5時あたり、陽が昇る前の青みがかった空とリンクする心の憂いとか、エモさが、この映画からストレートに伝わってくるんですよね。クラブで徹夜した後の体に沁みる牛丼豚汁セット。同期みんなで徹夜でレポートを片付けた後の安心感。徹夜でホラー映画観たり、人狼ゲームをしたあとの謎テンションで海に散歩しに行ったり。刹那的で「しょうがねえなあ。バカやってんなあ」と思っちゃうようなことを経験してきたことって、実はとても幸せなことだなあと思った。

この情況は、洋画で描かれていたらきっと共感できないのかも。街並みとか、登場人物の心情とか、どうしようもなさ、あらゆることがビンビン伝わるのは、やっぱり邦画ならではなのかなあ。

派手な喧嘩シーンも起伏もないけど、20代で出会えてよかった、そんな映画でした。


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