欲しいものは選択肢
いつものスーパーで豆腐を買おうとして気付いた。
ない。
この数か月、私が毎週のように買っていた豆腐がない。
この冬、私は「生湯葉が作れる豆乳湯豆腐」という豆腐がだいのお気に入りだった。ドーム型の大きな丸い豆腐が入ったパックをあけ、パックに満たされている豆乳ごと電子レンジにかけるだけでとろりと美味しい温かな湯豆腐と湯葉ができあがる。どんなに疲れている時も、料理をする気力のわかない時も、やわらかい豆腐をほんのり温まった豆乳とともにレンゲですくい、ふうふうと息をふきかけながら食べると、心地よく満たされた気分になった。
こうして冬の間私を甘やかしてくれた湯豆腐は売り場から忽然と姿を消し、そこには「冷ややっこ専用」と銘打たれた豆腐が並んでいた。
私は冬が終わったことを知った。
*
冬が終わると自動販売機からは温かい飲み物が一斉に姿を消す。冬の間でも冷たい飲み物はずっと売られているのに、温かい飲み物がそこにあるのはほんの数か月の間だけなのだ。
会社員になりたてのころ、一日の長い時間を上司や同僚と同じ空間で過ごしていると、一年を通してずっとアイスコーヒーを飲み続ける男性が少なくないことに気付いた。休憩室の自動販売機の前でも、軽い打ち合わせのために入った喫茶店でも、昼食後のテーブルでも、彼らは一年中必ずアイスコーヒーを手にしている。
夏でも冬でも身体が冷えがちな私には驚くべき習慣だった。
彼らが言う理由は様々だった。時間がないから早く飲めるものがいいんだ。冷たい方がコーヒーや砂糖の味がはっきりする気がして、それが好きなんだ。室内はいつも暑く感じるから冷たいものが欲しいんだ。
理由は異なっていても、彼らは真冬の底冷えする日でも当たり前のようにアイスコーヒーを飲み続ける。
コンビニでも自動販売機でも、並んでいる飲み物の大部分は一年中冷たい状態で売られている。どんな時も冷たいものが欲しい人がきっと大勢いるのだろう。
私は夏でも時には温かい飲み物が欲しいのだけれど、8月には「あたたかーい」のボタンはどこにも見当たらない。
*
いつだって選択肢が欲しい。冬が終わっても湯豆腐、夏でもホットコーヒーを選ぶ自由が欲しい。
「もう三月も半ばなんだから、普通は湯豆腐なんて食べないよ」
「みんなアイスコーヒーを飲んでいるのに、よくホットコーヒーなんて飲むね」
ええい、うるさい、と思う。選択肢があってそれを自由に選べることが、すなわち豊かであるということだと思うのだ。
豆腐やコーヒーのことでずいぶん大上段に構えているように見えるかもしれない。でも私は真剣だ。
何故なら同じように選択肢を奪われるような状況はいろいろな場面で発生するものだからだ。
上の文章を少し変えてみよう。
「もう30代も半ばなんだから、普通は独身なわけないよ」
「みんな子どもを産んでいる年代なのに、よく離婚なんてできるね」
ええい、うるさいうるさい、と思う。
独身でいるかパートナーを持つかということを選択するのは、湯豆腐と冷ややっこのどちらかを選択するというのと同じように、フラットで等価値な選択肢を選ぶことなはずのに、あたかもそこには正解があるかのように語られるとたまらなく息苦しい。
選択肢があってそれを自由に自分の気持ちに従ってのびのびと選べること、それが豊かであるということだと私は思う。
*
みなに自由な選択肢と豊かさを。
何を言いたいかというと、もう一度私の大好きな豆腐を入荷してほしいということだ。
手に入らないとなると、とろりとした温かい豆腐が一層恋しい。
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