引用と感想:『霊障』2021(発行:心霊ビデオ研究会、編集:ハスノミライ、ふぢのやまい、田川勉)

心霊ビデオ評論誌を取り上げ、内容のいくらかを引用し、感想を付します。

書影

奥付

書名 霊障
発刊日 2021年5月16日
発行 心霊ビデオ研究会
編集 ハスノミライ、ふぢのやまい、田川勉
編集部Twitter @gv_reserchers
代表連絡先 nononokakuri★gmail.com
[★は@。スパム対策のため置き換えた]
表紙デザイン 代々木NT研究所
印刷・製本 株式会社栄光

目次

序文 2
児玉和土監督インタビュー 10
 
聞き手・構成=田川勉 / ハスノミライ / ふぢのやまい
心霊ビデオガイド 52
 レビュワー=okadada、オタゴン、ケイシ、田川勉、田村将章、ハスノミライ、ふぢのやまい、まこー、ゆっき~
論考 霊は細部に宿り給う、とでもいうのだろうか――『ほんとにあった!呪いのビデオ』のクリティカル・ポイント 132
 木澤佐登志
論考 フィクションとドキュメンタリーのあいだを巡る冒険――心霊ビデオについて 144
 ハスノミライ
論考 「投稿動画」に現れる邪眼―「ようすけくん」(『闇動画10』)に見る、一九八〇年代ホラービデオからの継承と断絶― 170
 鈴木潤
小説 ZINEに寄せて 190
 上村太
執筆者一覧 200
編集後記 204

引用と感想

心霊ビデオはレンタルビデオ店のなかでも端っこの暗闇(パッケージが黒いから暗闇に見えるのですが)に置かれていることが多く、ホラーファン以外の人は手を出すこともほとんどない。そんななか『ほん呪』[『ほんとにあった!呪いのビデオ』]は二〇二一年で二一周年を迎えるのに、あまりにも言葉が足りないのではないかと思っていた。心霊ファンだけのものであるのはどうだろうか? 心霊ビデオも動画配信される時代だし、心霊YouTuberもいるのだから、もう少し裾野が広がってもいいのではないか。

ハスノミライ「編集後記」p.204

怖い映像作品に、個人的に関心がある。といっても、自分は心霊ビデオには触れてこなかった。思い出すのはTVドラマ版の『学校の怪談』や『ほんとにあった怖い話』だったり、邦画の『リング』や『感染』、洋画の『CUBE』や『REC』だったりする。ゆるく断片的だが、折々に触れてきた。最近だと、英語圏のショートホラーボイスロイド動画など。そんなわけで心霊ビデオのことも知りたくはあって、こういう同人誌があるのが、ありがたかった。

 心霊ビデオは技術進歩とともに成長を続けていたジャンルではあるが、現在ひとつの転換期を迎えている。[……]今やレンタルビデオ店にいって映画やCDを借りる人が少数派になっている。[……]
 「ホラーだってインターネットがあれば大丈夫でしょ?」と思うかもしれないが、心霊ビデオのビジネスモデルには逆風が吹いている。心霊ビデオはホラー映画のジャンル枠で語られる機会が多いが、映画とは流通経路が大きく異なる。映画であれば劇で公開して、少し経つとビデオが流通――といった流れになるが、心霊ビデオはレンタル産業とともに成長したジャンルである。[……]

 果たして心霊ビデオはこのままレンタルビデオ店とともに消えていくのだろうか? 『心霊パンデミック』、『呪われた心霊動画XXX』、『Not Found ―ネットから削除された禁断動画―』といった数々の人気心霊ビデオを手がける制作会社のアムモ98では、ニコニコ動画に専用のチャンネルを設けている。そう映画がすでに動画配信の時代に移り変わりつつあるように、心霊ビデオもまたインターネットを中心に動き始めている。[……]全てがインターネットに移り変わり、プラットフォームの垣根を飛び越え「Netflixやyoutubeを見る」という選択のフラットさが現代の感覚なのだろう。

「序文」pp.4-6

心霊ビデオ作品の映像体験を振り返るとき、レンタルビデオ産業のこれまでもまた振り返ることになるようだ。いまではメディア考古学のような分野も盛り上がっていて、2022年には論集『ビデオのメディア論』(青弓社)や翻訳本『ビデオランド』(作品社)が刊行されてもいる。『霊障』はそうした流れとも呼応するところのある一冊になっていると思う。そして何より具体的な作品紹介が盛りだくさんだった。例えば「心霊ビデオガイド」では、1999年のシリーズ第一作『ほんとにあった!呪いのビデオ』をはじめ、それから2020年までのあいだに登場した、128タイトルもの作品のレビューが掲載されている。それぞれの論考で取り上げている作品内容の記述も、充実している。

 演出補が一人のキャラクターとして独特の存在感を醸し出してくる、その端緒となる出来事をあえて同定しようとするなら、それは第一一巻所収「廃線トンネル」において巨漢の演出補・植田直幸が、柵を乗り越えることがえきず置き去りにされるシーンにこそ求められるべきであろう。横田はこの他にも、一五巻所収「責任」において廃虚の床を豪快に踏み抜いてハマりかけるなど、オンリーワンのポジションを占める演出補として視聴者の記憶に刻み込まれた。
 一四巻にはこれも癖のある、ヘビースモーカーの演出補・藤屋敷が登場してくるが、こうした演出補のキャラクター化とフェイクドキュメンタリー要素の導入は軌を一にしている。[……]このあたりから、投稿映像編と並行して、異変に見舞われるスタッフルーム(とその所属スタッフ)の様子をリアルタイムで追いかけるドキュメンタリー編の二本立てがひとつの基本的な構成スタイルとなる。[……]この、坂本[一雪]期に打ち立てられた演出補のキャラクター化とフェイクドキュメンタリー要素の導入は、のちの児玉和土期と岩澤宏樹期において形象発展させられ、さらには近年の岩澤監督作である『心霊玉手箱』シリーズのような青春群像劇スタイルにまで遠く【木霊:こだま】しているのである。

木澤佐登志「霊は細部に宿り給う、とでもいうのだろうか――『ほんとにあった!呪いのビデオ』のクリティカル・ポイント」p.136

先ほどの「序文」ではレンタルビデオ産業の動きと密接に結びつく形で心霊ビデオジャンルの流通経路の変遷が語られていた。この論考では、監督ごとの作劇法と密接に結びつく形で心霊ビデオのシリーズ(『ほん呪』)の内容の変遷が語られている。歴史が記されており、個別の監督や作品のガイドにもなっている。こうした、読み手の脳内にうまくマップを与えるような書き方は、ありがたい。それに、自分が何か書こうとするときの参考にもなる。

 『闇動画』と『邪眼霊』はどちらも、主にレンタルビデオとして流通する作品である。両作品とも、表現自体は違えども、「レンタルビデオ」という自らがよってたつメディアの特性を生かし、視聴者が得体の知れぬ者から「見られる」恐怖を創出しているという点で共通している。[……]

鈴木潤「「投稿動画」に現れる邪眼―「ようすけくん」(『闇動画10』)に見る、一九八〇年代ホラービデオからの継承と断絶―」p.173

大まかに言って形式と内容がうまく噛み合っているポイントの記述はとても印象に残る。例えばここでは、レンタルビデオならではのお約束が、映像中に得体の知れないまなざしを創り出しているのだと議論されている。ふと、『小説家になろう』に掲載されている、大萩おはぎのラブコメホラー小説の一挿話を連想した。というのも、それが記録媒体の規格をテーマとする話であったからだ。
さて、先ほどの木澤論考が、『ほん呪』シリーズの作風の変遷を辿りつつ、そのシリーズならではの要素を描きだそうとしていた、とまとめうるなら、この鈴木論考は、心霊ビデオのうちにレンタルビデオならではの要素や投稿動画ならではの要素を見出して素描するものだった。その流れで続けると、次に挙げるハスノミライ論考は、心霊ビデオのドキュメンタリー/モキュメンタリー/ヤラセならではの要素に着目したものだ、とまとめうる。ハスノ論考では、心霊ドキュメンタリーの今後のありかたをめぐって、出演者=制作人が喧嘩をする場面が取り上げられる。一連のやりとりが台本形式で記され、コメントがこう続く。

 この喧嘩をきっかけに岩澤と古賀はこの調査から離れてしまう。心霊ビデオの現状を知っている者からすればするほど、これがフィクションだったとしてもこの言葉は身に沁みる言葉ではないだろうか。しかしこのような自己言及も『いま、霊に会いにゆきます』で確認したように、これらは視聴者を物語に引き込む演出の一環だ。ただ、これは本作や先に確認した作品だけではなく、もとより心霊ビデオは自らを批評的に扱う作品が多かった。

ハスノミライ「フィクションとドキュメンタリーのあいだを巡る冒険――心霊ビデオについて」p.160

取り上げられるのは心霊ビデオらしさについて自問自答するかのような心霊ビデオであり、映像作品を制作する過程を提示する映像である。演技か否かという意味での虚実のあわいが際立ち、しかし同時に、目の前に映っている内容が演技であろうとそうでなかろうと目の前に映されているものだという身も蓋も無さが際立つ。思えば、取り上げた三つの論考はどれも映像の虚実をめぐる、そのようないかがわしさ、そしてまた身も蓋も無さを、それぞれの角度から捉え、描きだしていたようにも思われる。それは、実作者である児玉和土監督の、次のような発言とも通じ合うものだろう。

ふぢの それでもゾッとさせてくれる、本当であろうと嘘であろうと単なる映像がゾッとさせてくれるみたいなことへの驚きの感覚はあります。
児玉 僕もよく言っているんですけど、あれはほんとプロレスだと思っていて。[……]本当か本当じゃないかは、そっちで判断してくださいってスタンスなんですよね。ただ、本当のものもありますよってのはちゃんと言っといた方がいいと思います。僕は本当もやっているから言っておくのですが、わかんないですね。本物は。フェイクとの違いはわからないです。取材もしていますが、取材でも投稿者が本当のことを言っているのか、嘘を言っているのかわからないですね。心霊映像を作ってる人もいると思うんです。投稿自体もすごいくるんですよ。最近はあんまりないですけど。昔はほんとすごい来て。

「児玉和土監督インタビュー」p.28

そんな風に考えていくと、小説「ZINEに寄せて」が、このZINEに小説を書くように依頼されたところから始まり、気心の知れた仲で心霊スポットへと肝試しに行ったときの記憶や記録の話になっていくのも、そして終盤にこんな一節が現れることにも、納得がいくような気がしてくる。

批評が読者を挑発し、創作へ走らせることがあるが、ひょっとすると…。

上村太「ZINEに寄せて」p.199

自分の書いたこの感想もまた、虚実入り乱れる心霊ビデオ的なホラーの渦に巻き込まれていく、一切れの文字列だった、と言えるのかもしれない。

[了]

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