『Rhetorica #04』Ver.1.0感想(江永)

 江永泉です。team:Rhetorica(松本友也+遠山啓一+瀬下翔太+太田知也)企画+編集の『Rhetorica #04 』Ver.1.0の感想を書きます。なお『Rhetorica #04 』が、意を凝らして制作・編集されており、諸コンテンツの配置にも各々の意が含まれていることは、現物を一瞥すれば瞭然のことではありますが、この感想では、すべてをそのまま拾い上げることはできませんでした。どのコンテンツにも触発されたのですが、ここでは松本友也[論考]、田村俊明[エッセイ]、遠山啓一[エッセイ]の感想に絞ります。その旨ご了承ください。

《松本友也「コズミック・ハビタット――都市の呼吸困難」(pp.2-21)を読んで》
 はじめに、改めて御礼を。私はteam:Rhetorica(垣貫城二+瀬下翔太+太田知也)企画+編集の『Rhetorica #04 』Ver.0.0に論考を掲載させて頂きましたが、その論考の編集を担当してくださったのが松本さんでした。本当にありがとうございました。実は、自分の論考が書きあがってから、私の論考は、松本友也「機運と被劇」(team:Rhetorica(太田知也+影山ちひろ+瀬下翔太+遠山啓一+松本友也)企画+編集の『Rhetorica #03 』特集「FICTION AS NON-FICTION」所収)の一変奏なのではないか、という感じさえ抱いていたのですが、松本さんも私の論に「共通の問題意識」を見出してくださったとのことでした。そのような事情もあり、「コズミック・ハビタット」は縁深い心持で拝読しました。
 第一章「住処リアリズム」というものの指摘は刺激的でした。いうなれば、環境を変えようとするという欲望を、ライフスタイルを変えようとする欲望へと読み換えるような、ある種のものの見方を指すのでしょうか。つまり、適応せざるをえないという物言いが、自己を他に応じて変えるほかない、という諦念としてのみ聴き取られる状況を指すのでしょうか。そうであるならば、「住処リアリズム」とは反転した「セカイ系」なのかもしれないと感じます(念頭に浮かぶのは三浦玲一の一連の議論です。例えば三浦『村上春樹とポストモダン・ジャパン――グローバル化の文化と文学』など参照)。自己とセカイの短絡から、自己変革即セカイ変革という理念を打ち出すのがセカイ系であるとすれば、このセカイしかないがゆえにセカイへの適応のみが変革である、あるいはどんな変革もセカイへの適応に過ぎない、といった発想、いわばセカイ系のネガとして、「住処リアリズム」を捉えることができるかもしれません。
 ライフスタイルという語で想像されるものの中に欠けているのは、まさしく「社会」なのではないか。
 もちろんこれは、セカイは一つ(あるいは、ゼロ)で、「社会」は複数だ、という含みがあってこそ有効な問いであり、肝心なことは、「セカイ系」を是とするか否かではなく、どんな観点に立とうと、セカイであれ、「社会」であれ、自己であれ、それらのどこ(あるいは何)に、変えても無駄(だったり変えようがなかったり、そもそもそれを変えるということの意味がわからなかったりする)と見切りをつける(逆に言えば、保存処理して棚上げにする)のかということだとも思います。そして、それゆえ「コズミック・ハビタット」は第二章へと話を続けていくのでしょう。
 「セカイ系」というものを、ある種の世界観ないし価値観を表現するための、一連の比喩ないし寓意のセットと考えてみましょう。第二章「振る舞いと親密圏」では主に山崎正和が参照されますが、ここでは、いわばリアリティ・ショー論として読み替えられた芸能論を通して、ライフスタイルを演出するしかない「きみ」や「ぼく」と、それを囲い込むスタジオめいたセカイしかなかったヴァーチャルな空間に、社交する集団が召喚され、そして仕舞には社交場としての食堂まで建設されることになります。
 このような喩に喩を重ねる仕方で私が言わんとするのは、第二章が「社会」を想像しなおす試みだということです。もちろんここでセカイは複数あるという立場をとり、ひとつのセカイなど存在しない、あるのはただ複数のセカイとその絡み合いである、と考える向きもあると思いますが、思うに、肝心なのは、ひとつのセカイの内側で場をつくることなのではないでしょうか。セカイの中で告発する(Voice)か、セカイの外に退出する(Exit)か、ではなく、セカイ内で二重国家を建設すること。二重権力、あるいは多重権力をよしとして、うまくやっていくこと。つまり、セカイのなかで棲家をつくること。私にとって何より興味深いのは、一人の振る舞い、振る舞う集団、集団の会する食堂という仕方で、個々の身体とその外部しかなかった「セカイ系」的なセットの中に、住まう建物(を考える視点)が導入されている、ということです。
 第三章「私たちの都市を憐れむこと」では、議論は再び、セカイに対面したある人の観点に戻っていきます。しかし、今やなすべきことは、建物をつくるための視差の獲得へと移行しています。「ひろがる全体を一つに圧縮し、ひとつのイメージを、その全体を捉えたひとつのビジョンを提示する努力。[……]高翔とは、地上にいながらして全体を一望する地点から眺めるかのように観ること、あらゆるものを寓話として観ることである」(pp.17-18)。世界内存在とゲーム内操作キャラの違いを意識しましょう。「高翔」は、キャラクターがプレイヤーの目線に立つこと、ではないはずです。
 この違い。それこそが「高翔」を為すための「敬虔な虚無主義」のポイントであるように私には思われるのですが、これをうまく言い当てることができないので、ポイントが含まれているように思われる箇所をそのまま引用して、話を結びます。「経験は出発点の基準を示し、直観は到達点の基準を示している。気を抜けばすぐにすべてが虚無のなかに、あるいは世界のノイズのなかに解けていってしまうような、寄る辺ない地点から出発していない直観は敬虔ではない。同様に、正当化の誘惑を振り払い、現実を粘り強く解釈し、そこから全体に相当するものを構築しようとしていないならば、その敬虔さは直観の努力を欠いている」(p.19)。――危険な飛躍ではありますが、私はここで示された「敬虔な虚無主義」の実践を、〈セカイ系の政治化〉と呼んでみたい誘惑に私は駆られます(これを書きながら脳裏にチラついていたのは、フレドリック・ジェイムソン『アメリカのユートピア――二重権力と国民皆兵制』でした。特にジェイムソンが、エキセントリックな政治評論とユートピアの構想を語るなかで、アメリカの「学園もの」作品にも触れていることは注目すべきだと思います)。

《田村俊明「王の肖像」(pp.57-60)を読んで》
 このエッセイは私にとって非常に食いつきたくなるものでした。自分と「共通の問題意識」がそこにあるような気さえしました(それは、先ほど述べたものとは別の「問題意識」ですが)。このエッセイが下敷きにしているであろう、エルンスト・カントロヴィチ『王の二つの身体』(を踏まえて議論を展開した、ジョルジョ・アガンベンの諸著作)などに私はとても関心を抱いてきました。
 また、このエッセイは、同じく『Rhetorica #04 』Ver.1.0所収の、遠山啓一・松本友也・田村俊明・tomadによる「アプリケーションはあの顔たちを憶えていてくれるか」[座談会]を読み込むための1つの観点を提供するものであるようにも思います。(なお、座談会で語られている「画像・カルチャー・SNS」の状況ですが、東浩紀が2000年頃に法月倫太郎との対談の中で述べた「まずコンピュータ上にトロがいるとして、コソヴォやチェチェンのニュース映像があり、最後には身近で触れる恋人や家族がいる。この三つの存在がすべてシミュラークルになってしまって、感情移入の大きさだけでグラデーションのように捉えられる世界になる」といった「キャラ萌え」的感性の伸展(脱オタク化?)の過程として把握できる部分もあるのではないか、と私には思えました。「キャラ萌え」から「インスタ映え」へ。閑話休題)。
 とはいえ、私の関心は衣服というよりは身体、身体の画像、人格やアイデンティティといったものに寄っている気もして、だからファッションの問題というよりは、キャラクターや「萌え要素」ないし「萌え属性」の問題をこのエッセイからも想起してしまうのですが、もし、例えばあるキャラクターが「ツインテール」や「ギザ歯」や「デスという語尾」や「マスク」や「FPSゲーマー」や「妹キャラ」といった諸々の組み合わせで表現できるとして、これらいずれもが、そのキャラクターが身に付けている諸々として――このキャラクターが着用している制服などと――並び立つのであるならば、私もまたファッションの問題を考えているということになるのかもしれません。――例えば、このキャラクターを評するために、私はファッション批評、ファッション学を(も)勉強するべきである、ということにもなるでしょう。
 ファッションの領域からは外れるかもしれませんが、このエッセイは、イマジナリーな領域における身体の問題(身体のイメージ、いわば体面や体裁の問題)として解しうる論点を提示してもいると思います。「この世界にはもはや存在しない身体」の画像群は、「この世界に一度も存在したことのない身体」の画像群と交錯するのではないでしょうか。これらの「身体」をめぐって、私の念頭に浮かんでいる事例は2つ――電子水子と遺影写真加工です。
 「水子」は、ゼロ年代批評が展開したキャラクター論の1つの極点と評しうるであろう、村上裕一『ゴーストの条件』の用いた語句でもありますが、ここでは、松浦由美子「電子水子――インターネット空間における新たな水子供養の展開」(2007年の論文)が紹介するような、「中絶を経験した女性たちによって、失った胎児は実際にどこかで生きている実在する子供かのごとく語りかけられ、ヴァーチャルな空間において何の不思議もなく「家族」が演じられている」という事態を念頭に置いています。(現在のいわゆる「胎児ネーム」カルチャーは、これと同じ地平の事柄であるという印象があります)。ヒトの受精卵や胎児がいつ「人」として扱われるのかという、生命倫理学でいうところのパーソン論のような考えが、文化的な実践を通してここでは展開されているわけです。「水子」はキャラクターと「情報的身体」の境界にいるのではないでしょうか。
 他方で、遺影写真加工とはこういう事例です。――葬儀において、故人の写真を仮構した画像を遺影として使用する場合、葬儀で遺族たちは、棺に隠された「現にある遺体」の顔を重ねるよりも、「(厳密に言えば)リアルな故人のヴィジュアルとは一度も一致したことのない、ヴァーチャルなキャラクター」の顔を見て故人を偲ぶという事態が生じるのではないか。――かくして、故人の二つの身体が問題になり、かつ片方の身体は、「自然的身体」のコントロール外でつくられた「情報的身体」(故人の意向ではなく遺族の意向で加工された写真の画像)である、という状況が発生します。
 今や、言葉が通じても話の通じないホモ・サピエンスの個体より、言葉が通じないどころか話ができなくとも親しみや共感を覚えたり魅力を感じたりするキャラクターにこそ「人」らしさを認めてしまう、そんな瞬間をもひとは経験しつつあるのではないでしょうか。なお肝要なのは、それは異例なことでも自然に反することでもなく、「人」という観念は、幼年期に教わったり学んだりして身に付けた習慣によるものだという――例えば、私は、私と他のモノたちを「人」として扱うという習慣に、生まれながらに知悉していたのではなく、この社会の中でそれを覚え(させられ)たのです――、ごくありふれた事実を示唆する経験に過ぎないのだ、ということなのでしょう。

《遠山啓一「コレクティヴと公共性――インドネシアの場合」(pp.76-80)を読んで》
 私は動画サイトや音楽サイトなどで公開されているMVや楽曲を視たり聴いたりするのが趣味の一つなのですが、このエッセイではインドネシアのコレクティヴ文化の中に触れられており、気になるグループが増えたということもありつつ、「グローバリゼーションとナショナリズム」という見出しを見て想起したこともあったので、そのことを少し。インドネシアのラッパー、Saykojiほか数名の登場するMV「#INDONESIASTANDUP」(2011年)は、振られる国旗といい連呼される「立て、インドネシア」という文言と言い、明らかにナショナリスティックな雰囲気ですが、インドネシアが多言語国家(公用語として複数の言語が定められている)こともあってか各ラッパーが使う言語が統一されていません(私は英語以外はうまく判別できませんでしたが、明らかに英語以外の言語で歌っているラッパーが何名かいました)、インドネシア内の多様さを表現することもできているような感触を覚えます。

(他方で、使用言語の多様さは、コーラスを挟みつつラッパーたちが一人一人入れ替わりパフォーマンスするという単調な構成とコントラストをなしています。対照的なMVの例としては、Kill the TV「JOGJA ISTIMEWA」(2011)などがあります。こちらはおそらく反グローバルな地域主義を打ち出すMVですが、ローカルな旋律をアレンジした単調なフレーズの繰り返しとラップに、奇抜にも映る華やかで多様な群衆の行進とライブの映像が付される構成は、まるで、政治的主張を帯びたよさこいソーラン祭りを見せられているような気分になります)

 ナショナリズムとグローバリズムという点ではマレーシアのNameweeも面白いMVを公開しており、Namewee・5forty2・Ashtaka「WE ARE GANGSTER!」(2011年)や「WAKE UP!」(2013年)は、4言語の字幕付きで歌詞や旋律も簡明かつポップであり、少しだけ、日本のSEALDs「TO BE」(2016年)みたいなMVを思わせる感じでした。もっとも、今、Nameweeと言えば「Tokyo Bon 2020」(2017年)で有名かもしれませんが。
 おそらくこのエッセイでいう「文化継承」への情熱は、愛国心や郷土愛といったものとも曖昧に混ざりあうものだと思うのですが、インドネシアやマレーシアでは、おそらく、そのような「継承」へのパッションが、うまく多種多様さの抑圧にならないように働いているのだな、ということを改めて感じました。同化政策的ではないコレクティヴ。同じところに身を置きつつ、各々として際立つための「歴史」。そうしたものを志向するというのは、困難ですが魅力的な試みだろうと思いました(まさしく、その試みの報告として、小松理虔[聞き手・構成=瀬下翔太]「現場と批評のローカル・アクティヴィズム」[インタビュー]やNPO法人bootopia[構成=垣貫城二・松本友也]「青春と生活のキーワード」[キーワード]といった文章が、というより、『Rhetorica』があるのだとも感じさせられます)。

 感想と題しながら、ひとの文章にかこつけて、書きたいことを書くだけの文章になってしまったのではないかと恐れつつ、文を結びます。また、書きたいことが生じたら、書きます。

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