絶望、自動化――随想:フィッシャー『資本主義リアリズム』/カフカ『掟の門前』(1915)

これは書評でも作品紹介でもなく文章を読んだ記憶をよすがにした随想の殴り書きである。

1、絶望

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、2018年、堀之内出版)などを眺めると、どうも「世界の終わり」は、はっきりしているらしい。例えば、出産能力が消滅し、人類が絶滅するのが「世界の終わり」であったりするらしい。しかし「資本主義の終わり」は、はっきりしていない。他のものが想定できない。これが「資本主義リアリズム」だ、ということになるようだ。しかし、事態はむしろ逆ではないか。「資本主義の終わり」が想像できないのは、それが終わりそうもないからではなく、何を以て「終わり」になるかわからない、というか、いつでも「終わり」にしうるからではないか。誰かが、カネなど知ったことかと行動する瞬間、いつでもどこでも、局所的に、「資本主義の終わり」が到来している。もちろん、誰か一人が「資本主義」を突発的にやめても、周りがすぐに「資本主義」を再開しようとするわけで、おそらく「資本主義の終わり」は例えば言語の終わりや計算の終わりと同じ程度には想像が困難だろう。

約束は相手にいつ破られてもおかしくはない。貨幣とは誰とも知れぬ相手のとの交換を約束する証文である。だから、貨幣はいつ反故にされるかわからない約束に支えられているに過ぎない、ということになるはずだ。約束が反故になることには、人類が絶滅することにはあるような、物質的な確かさに欠けている。この覚束なさが問題なのではないか。いうまでもないことかもしれないが、この覚束なさは、貨幣がいつでも交換できる(はずだ)という期待と表裏一体のものである。問題なのはこの絶え間ない不安定感であり、資本主義は、強すぎるというより、脆すぎるのである、と言える気がする。――不安定性と偶然、安定性と必然、これらの観念上での癒着が問題なのだろうか。必然もまた偶然で、偶然こそが必然だと証し立てればそれで済むのだろうか。偶然だが変更の余地がないもの、必然だが変更できたはずのものをイメージすればそれで済むのだろうか。

「資本主義リアリズム」への批判が必要なのは、それが本当はあるはずの出口を覆い隠してしまうからだろうか。それとも、それが本当はありもしない出口の夢を植え付けてくるからだろうか。あるいは、本当にあるのか否かはともかく、出口なるものを巡ってあれこれと考えたりお喋りしたりしていれば、うまいこと事態が好転するという漠然とした希望が問題なのだろうか。――もし、必要なのは希望ではなく、希望を根絶することだとしたら、どうだろうか。眼前にぶら下げられた、出口という名のニンジンに駆り立てられ、労働し続けることの拒否。自己責任論への抵抗としての自動化論。――必要なものは、生を十分に自動化するための絶望かもしれない、と考えてみよう。この生を別様へと駆り立てる希望ではなく、この生を運命として享受する絶望を、イメージしてみよう。――天球を一巡する星辰のように、自動的に革命的になること。あくまで自動的に、世界の敵の敵の敵になること。

2、自動化

思うに、出口のない世界のもっとも鮮烈なイメージの一つは、チェコ(現在)の都市プラハ出身のユダヤ系ドイツ語作家、フランツ・カフカによる掌編『掟の門前』(1915年)の中に見出されるものである。――ここには、自分専用だとされる(とその死に際に門番から吹き込まれることになる)門を、ついにくぐることなく一生を終えていく一人の男が描かれている。誰にでも開かれていると聞いて門へとやってきた男は門番に止められる。門番があれこれとほのめかすものの、門の向こう側には何があるのか、実際にはわからない。この門をくぐる許可をもらうため、男は門番に執着し続ける。男は、門番が許可を出さないせいで門をくぐれない、かのように振る舞い続ける。しかし、こう捉えることもできる。――門番がいるおかげで、男は、誰にでもチャンスがあるが選ばれたものだけがアクセスできる、そんな何かを待ち望んでいた、かのように振る舞って、生涯を終えることができたのだ、と。――現に門をくぐろうとすることなしに、門番にかかずらうだけで。

誰にでも開かれているはずだが、選ばれたものにしか通れない門。この不可解さは、競争なるもの一般の不可解さと同じ類いのものだろう。参加者の誰もが、競争に勝利するチャンスを持つはずだ。しかし、選ばれたものだけが競争に勝利できる。そして、もし勝利する可能性を誰もが同じ程度に持つことこそが、誰もに開かれた競争であるのだとすれば、もっとも開かれた競争とは、理屈の上では、ランダムに勝者が決まるはずの籤による抽選である。――門番からの許可を待つ男の振る舞いは、当選通知を待つ抽選応募者の姿を偲ばせる。

ここで強調したいポイントは、この男が、自分専用の玩具(門)と介助労働者(門番)を宛がわれたおかげで、ずぶずぶの希望漬けになったまま無事に臨終を迎えることができたということである。何者が、何故に、そんなことをする必要があるというのか。――こう問うならば、何よりもまず、この低予算リアリティ・ショウ(最低限必要なのは門と男と門番だけである)を放映してPV数を稼ぐことのできた業者のことを想像しなければならないだろう。また、門と門番とに依存して反実仮想に耽ることのできた男――まるで恋人さえできれば人生が変わるのにと嘆く独り身の自称「非モテ」のように――だけではなく、門番という職能を保証する門の下で誰にも咎められずに男を強迫したり搾取したりすることのできた、つまり男へと合法的に暴力を振るうことのできた門番や、さらには、そこに突っ立っているだけで門番と男に自らの存在意義を付与してもらうことのできた門にさえ、思いを馳せるべきかもしれない。門番から見ても、門と男のセットが御役御免になるまで配給されていたと言えるだろうし、また門から見ても、用済みになるまで、男と門番が配給されていたと言えるだろう。何が何を必要としているのかは紛然としている。とはいえ、門がニーズを持つかのように語るのは行き過ぎた擬人化であるかもしれない。もっとも、門のみならず、門番や男や、あるいは業者にさえも自由意志はなく、ただアルゴリズムに従う、自動化された諸機械があったに過ぎないと解するなら、そこまで異様な擬人化でもない。

希望依存症者のための低予算ビジネスで回る世界。原理上、他に何もない窮乏のなかでも忙しなく希望ごっこに耽ることのできる、門と門番と男のトライアングル。これは地獄的なイメージだろうか。そうかもしれない。――しかしながら、現にある地獄を直視するには、一切の希望を捨てなければならない。――おそらくこれが、絶望の求められる所以である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?