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無用と断ずる無知が晒す無能

「無知の知」

「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」
無知であることを自覚することで、新たな学びを行うことを促進し、その結果無知を克服し成長する。

wikipedia

ぼくたちは日常的に、様々な物事について「必要なもの」と「不必要なもの」に分類していく。
分類する際には、自分の知識・経験・価値観を基に判断する。
そして判断に従って行動する。

無知であることを自覚する

自分が無知であることを知り、学ぶ。それだけではない。それは前提でしかない。

自分の知識・経験・価値観を基に判断する。
つまり物事の判断に影響する。判断によって行動に影響する。

行動の結果、良し悪しという経験を経て、「無知を克服し成長する」のだ。

無用と断ずる無知

何らかの物事について情報を得る。
情報を得た結果、自らには不要であると判断する。

情報は得ている。だから「無知ではない」。

そう論ずる者は、果たして「無知ではない」のだろうか?
得た情報から行動変容なく、経験も得られていない。

蓄積しただけの情報を持って、ヒトは「成長した」と言うのだろうか?

無知であることを自覚した者は、無知を克服し、得た知で何らかの行動変容を発生させる。

己の振る舞いを変えていく。

無用と断ずる無知が晒す無能

知を得ることで振る舞いを改め、行動の変容とそれによる経験の蓄積によって、成長する。

情報と知識を混同し、不要と切り捨て、行動変容も経験蓄積もない。
つまり成長もしない。

物事の価値は時代の流れと共に変化する。
テクノロジーの発展、社会の変化。かつて有用だったものが、現在も有用であるという保証はどこにもない。多くのものは古きものとして無用になっていった。

「自分(たち)には不要である」
この判断にはどれだけの「知識・経験・価値観」が含まれているだろうか。
その「知識・経験・価値観」は果たして現代において妥当なのだろうか。

「自分(たち)には不要である」
その言葉は、言外に世の流れに着いていけないと主張する、彼らの無能を晒しているのではないだろうか。

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