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幡野広志さんへ

この本を読んで、どこを切り取るか、人によると思った。私は、「家族関係」について。

「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」

数年前、友人に幡野さんの本を勧められて買った一冊。読み切るのに、3年かかった。

1:「いい子」だった私


私は幸か不幸か、自傷行為をしたことはない。
「死にたい」と漠然とした気持ちは抱いたことがあるし、事故にあったら死ねるかな、なんて何度も考えた。それでも自傷行為をしたことはない。

Tさんは崩壊した家族の中で、唯一の「優等生」役を 求められていた。仕事でストレスを貯めている父、その父と衝突する母、頑固な反抗期に入っていた姉、自尊心の低い父方の祖母。
そんな中で全員と仲が良かったTさん。

まるで私だと思った。
中学時代の友人と遊んでいるときもそうだった。大学時代の6人組は全員が仲がいいわけではなかったけど、私がいることでなんとかなっていた。自分でもそう思っていたけど、友人たちからもそう言われていた。

Tさんは家族から「いい子」と言われてきたという。
私も「いい子」だった。



『過保護で過干渉な母親と、仕事中毒で家庭に無関心な父親。そして聞きわけがよくて、手のかからない「いい子」。この3点セットが揃ったとき、 こどもはかなりの確率で、危険な状況に追い込まれている。
少しずつ自分をすり減らし、自立の芽を摘まれ、自分を傷つけることによってようやく抗議の声を上げる。
「いい子」でなくなったことに動転した母親は、ますます過保護になり、過干渉になっていく。支配を強めていく。もともと家庭に無関心だった父親は、 息の詰まるような家から足を遠ざけ、仕事に逃げていく。たまに妻と顔を合わせれば衝突を繰り返し、夫婦関係はボロボロになっていく』

「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。P152」

グサリときた。

過保護で過干渉な母親、うちはおそらく小さいころからワンオペだったと思う。父親が家庭に無関心かと言われると、そうでもない気がする。「いい子」の私が、かなりの確率で危険な状況に追い込まれていたのは、気がついていないだけで、おそらく中学の時からだろう。

私が抗議の声を上げたのは、大学生のときの彼氏ができたタイミングである。「いい子」でなくなった私に、母親は支配を強めたし、 父親もそれに同乗していた。仕事に逃げていたという印象はないが、家庭が嫌になったときは、夜中でも職場に向かって、母に連れられて謝りに行ったこともある。 母と父は衝突を繰り返していた。

母は過干渉に、父は私に勘当を、といった形だった。

2:親の「おかげ」

中学生のときのエピソードで覚えていることがある。

その日は寒いという予報だったのか、母に上着を持ってでかけなさいとしつこく言われた。
寒かったから「持って言ってよかった」と 帰ってきてから母に伝えた。

「親の言うことは聞いておかないといけない。親はあなたの2倍の年齢を生きているんだから。私の言うことを聞いてよかったでしょ」

こんな感じのことを言われた気がする。

卵巣がんになり、17歳という若さで卵巣と子宮を全摘したKさんは、大手術を乗り越え、胆汁を吐くほどの抗がん剤治療を乗り越え、前を向いて進もうとしていたある時、新興宗教にハマった母親に言われたのだ。
「わたしがお祈りしたおかげで治ったのよ。」

このセリフで思い出したのだ。がんと新興宗教の話だし、少し違うけど、母の言いたい「私のおかげ」は一緒だと思った。

私がうつ病で病院に通っているのを知ったとき、私の母親は「私のせい」と吐露した。被害者のような顔をしていた。

3:親がおかしい

過干渉で、自分のことを傷つけるような発言や暴言を平気で言ってきて、「いい子」でなくなった途端に、 髪の毛を引っ張られたり、叩かれたり蹴られたりする。

「おかしい」と気がついたのが、大学生で良かったと思っている。

大学生でもアルバイトをすれば、自立した生活ができる。
「親から離れる」という選択肢が取れた。

Mさんは14歳で父親の暴力と兄弟からのいじめに耐えながら、すぐに働くことはできない環境。「教育という暴力」は家を出るまで続くのだ。

小児看護を学んだときに、こどもが初めて出会う社会コミュニティが「家族」であると知った。

だから、私は「家族という名の宗教」で人は育てられると思っている。

自由奔放にやりたいことをやる宗教、決められたことしたできない宗教、育児放棄という宗教。各家庭によって宗教は違うから、一つとして同じものはないだろう。

私はどんな宗教だったのだろうか。一言で表せないからあえて名前はつけないけれど、愛されていなかったとも思っていない。むしろ、大きすぎる愛情が過保護となって 表現されていたと思う。良い悪いという判断はできない問題だから、そんな育児は良くないと言いたいわけではない。

でも、こどもは親の駒でもなければ、 親が達成できなかったことを達成するための道具でもない、ましてや親の生き様を正当化するためのものでもない。

こどもは他人だ。

4:私の家族

この本でNASAが定義する直系家族という存在を知った。

直系家族は、「配偶者、こども、こどもの配偶者」までである。親も兄弟も入らない。血の繋がりは関係ない。

自分で作った家族が「自分の家族」で良い。
私は「ああ、自分が幸せになる道は自分で選べるんだ」そう思った。

私の過去について、今話した親の話を含めて、知っている友人は少ない。
ましてや、大衆意見は「親は育ててくれたから大事にしないといけない」である。

正直、親のことが心底嫌いか、といわれたらそうではない。
父の日や母の日はなんか送ろうかなとか、そんな話を妹とする。
でも別に会わなくていいと思っている。育ててくれたことに感謝をしていない訳では無い。

でもうつ病になって人生が狂ったのは、親のせいだとも思っている。周りに「違う」とか言われても、私はそう思う。だから、別に関わらなくていいと思っている。

妹には申し訳ないけれど、介護もしたくない。自分に余裕があれば、お金だけは援助してもいい。でも会わなくていい。

だからできるだけ遠くに住みたいし、物理的に帰るのが難しい距離に私は住みたい。
そして、私の直系家族とだけ、幸せに暮らしたい。


5:幡野さんへ

幡野さんに質問できる機会があるとしたら、一つだけ聞きたいことがある。

「私は、自分が親にされたことを、自分のこどもにしてしまいそうで、自分のこどもを縛ってしまいそうで、 怖いです。
だから、こどもはほしいけど、作っていいのかわかりません。
幡野さんは、妻というパートナーを選び、どう控えめに言っても可愛い息子に対して、そういう不安はなかったですか?」



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