見出し画像

わかってもらえないことってさみしいことなんだっけ

ということについて、じゃがりこ食べながら考えていて。

伝わっているのに、わかってもらえないということはないから、それは伝えられていないという状態、もしくは伝えたいことがない状態、もしくは非常に不確かなものを伝えようとしている状態なのだと思って。

自分はそもそも伝える能力が低いけど、思えば伝えたいことの形状はだいたい雲のような形をしていて、不確かさを確認することだったり、わからなさを分かりあうことだったり、確かに存在しているらしい現実に対してアナーキーな立場をとることが多くて、じゃぁそれを伝えることで何がしたいのかというと

まず、雲が龍や花に見えるねっていう想像、創造力が人類の文明の土壌(つまり持続可能性)であり、それをかき混ぜるのがカルチャーだと思っているから、エンタメ的なコンテンツを入り口にアート的問いへ誘うような体験づくりを生業にして、次世代へのバトン渡し的な意識があるのと、そのサステナビリティは終わりに向かっていて、それを助ける、加速するミームに従っているという自己矛盾の両ベクトルが同時に、しかしマクロに見れば同じ方向に進んでいる。

あとたまにVRとか先端技術っぽいものが古くてダサくて恥ずかしくて仕方がないと思うことがあって、それは例えば空飛ぶ車ができても、MRコンタクトができても、 #aiが神になった世界 になっても同じことで、想像の範囲内の文明がもう何百年も過去の出来事のように見える時があって、もうその次に行こうよ袖を引いている子供心もあったりする。

生から死へ、暖から冷へ、膨張から収縮へ、宇宙生命として抗えない物理的なバイオリズムはあって、それに素直に生きているといえばそれまでなんだけど、そのプロセスの中に介在する自己意識との葛藤もなくはないけど自己意識より行動の方が信頼度が高いから、大した抑止でない以上ブレーキの壊れた列車みたいに線路の上を走り続けてやがてどこかの駅に終着するのかもしれないし、途中で列車やレールが壊れてしまうかもしれない中で、少しでもそのレールの外の景色を見てみたい、というかむしろ飛行機でいたい、いや、宇宙船で宇宙の外までいきたい、みたいなある種死からの斥力が好奇心として働いていて。

まぁそれがこの「わかりづらさ」をなんども送っている正体めいたものな気がした。自分1人じゃ辿り着けない文明だから、多数の人の世界観を何度もちゃぶ台返しして、少しでも確度あげようとしてるんだけど、丁寧な暮らしを等閑にしたいのかといえば、そういうことでもない。

だって未来を考えることも、違う世界の存在を考えることも、他者を考えることも、相対的に同じことでしょと思うから。どちらの方向に作用しているからではなくて、両方に作用しているからこそ、ある意味仕事になっているわけで、想像力の有効範囲は過去、今、未来、の3方向全てだと思う。

たのしいこと、やさしいこと、無理がないこと、そうであれば概ね生きるに値する人生を過ごせるんじゃないかって思うから、未来は未来のままに、今は過去以上に鮮烈に、過去は劇的な物語として、生命という時間芸術と植物的なナラティブと物理の流れを身のままに、すべからく人間として間を愉しみたいね

って思うから、わかってもらった方が間がたくさんできておもろい。世界中の人全てにわかってもらうことができたら、それはもうこの世にあなたしかいないのと同じだから、そういうことじゃないんだけど、バイブスが合うと心地いいんだろうね。

そういう快感原則的なルールも変更させてみたい気もするけど、自在ならば人ならずと言いますか、道を歩くということがこの現象の味わいどころなんだろうから、まぁまずは足が土を踏み均す感触を確かなものとして、いただきたいよね。

おわり

「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。