見出し画像

チェイサーゲームW 最終回のモヤモヤに対して、レズビアン当事者の私個人が想うこと


🌈はじめに

チェイサーゲームW 最終回 放送直前の22時頃。

私はドラマのファンの皆様とTwitter(現X)のスペースで、0次会をしていました。私はその時に
「最終回放送後、数日間はネタバレ投稿をしません」
とお話をしたのですが、結果としてこのお約束を破ることになりました。

まずはそれが何故かについて、お話をさせていただきたいと思います。

チェイサーゲームWの最終回直後、SNS上では
「冬雨はレズビアンじゃなくて、バイセクシャルでは?」
「旦那を愛して月を産んだなら、レズビアンを名乗らないでほしい」
というお声が、多く上がっていました。

私がネタバレをしないというお約束を破ったのは、これらのお声を見て、冬雨と似た境遇の方、つまり『お子様がいらっしゃるレズビアン(同性愛者)』の方々が、深く傷ついてしまうのではないかということが、気がかりだったからです。

社会の課題や、ご家庭の事情など、様々な理由で「本当は同性しか恋愛的に愛することができないけれど、異性との結婚を選んだ」という同性愛者の方が大勢いらっしゃいます。

同性愛への偏見や、子供を産めという圧が今よりもずっと強かった時代。
その時代を生きたレズビアンの方は、当時について「周りに同性愛者だと知られることは、社会的・精神的な死を意味した」と形容されてました。
まるで犯罪者のように扱われ、「あの人には近づかないほうがいいらしい」と噂されたことがあるという方もいらっしゃいました。
そんな社会情勢の中で、"社会的な死"だけではなく、自ら命を絶つ選択をされたセクシャルマイノリティの方もいらっしゃったようです。
そんな背景を考えると、自らの命を守るために、同性が好きな気持ちを押し殺して『異性と形だけの結婚をする』という道を選ばれた方も多いことは想像に難くありません。

しかし、『同性愛者で異性の配偶者がいる』ということは、周囲になかなか理解されないことが多く、日頃から「それはバイでは?」とセクシャリティを否定されて苦しんでおられる方々が多いです。

そんな皆様が今回SNSに上がっている
「冬雨はレズビアンではなくバイセクシャルじゃないか」
「そんな境遇の人はレズビアンと名乗らないでほしい」
というお声に触れることで、冬雨とご自身を重ね、
「やはり自分は周りには理解されない」
「今後もカミングアウトするのはやめよう」
と、おつらいお気持ちになり、ご自身を閉ざしてしまうのではないかということが、私は気になって気になって仕方ありませんでした。

また、そんなお悩みを抱えておられる方は、先に述べたように『セクシャルの問題と死とが隣り合わせ』という方も多くいらっしゃることから、かなり深刻な問題に発展する危険性をも感じました。

そんな経緯があり、最終回放送から2時間ほどが経った午前4時頃。
私はネタバレをしないというお約束を破り、緊急でスペースを立てることをご報告いたしました。

以下がそのスペースの音声です。本記事と内容はほぼ同じですが、よろしければ覗いてみてください。


上記のスペースと本記事で私が伝えたいことは、
・お子様がいらっしゃる同性愛者の方
・最終回で「冬雨はバイセクシャルじゃないのか」と疑問を持った方
・「男性と結婚をした人はレズビアンと名乗らないでほしい」と思った方
それぞれ立場は違いますが、根本的な「同性同士(樹と冬雨)でも当たり前に幸せでいられる社会になったらいいのに」という想いは一緒であるはずだということです。

同じ想いを持った仲間として、互いの存在を尊重し、手を取り合って、少しでも生きやすい社会に向かって進んでいけたら良いなと願っています。

そんな想いを感じていただきながら、あたたかい目で本記事を読んでいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。


🌈チェイサーゲームWの楽しみ方の二分化

少し話がそれますが、チェイサーゲームWの楽しみ方として大きく二つの視点に分かれていたように感じています。

  1. 樹と冬雨のイチャイチャが可愛くて見ていた方

  2. レズビアンを題材としたリアルな物語として見ていた方

①の視点だけで今まで本編を見てこられていた方は、
「何故レズビアンの冬雨に子供がいるのか分からない」
「きっと旦那とは戦略結婚なんだ(浩宇も冬雨のことを愛していない)」
と思われていた方も多いかもしれません。

そんな中、最終回が放送され、
「え?冬雨と浩宇は愛し合っていたってこと?じゃあレズビアンじゃなくてバイセクシャルじゃないの?」
「冬雨が既婚者・子持ちの設定である必要性が分からなかった」
という純粋な疑問がSNSに上がってきたのかなと思います。

フラットな気持ちでこの最終回を見てそう感じるのも理解できます。それくらい複雑な問題を描いていると思うからです。

ただ、そんな疑問を持たれた皆様に知っていただきたいのは、この現実世界にも冬雨と同じように、『レズビアン(同性愛者)だけど子供がいる』という方が本当にたくさんいらっしゃるという現実です。

そしてこのドラマは、冬雨と似た境遇にいる方や、自分の気持ちを抑えてしまう同性愛者の方々に、「世間体ではなく自分らしさを優先してほしい」と伝えるための物語なのではないかと考えています。

チェイサーゲームW 脚本家のアサダアツシさんが以下のようにポストをされているためです。

これを伝えるために、冬雨には子供がいて、レズビアンである必要がある。
『世間体より、自分らしさを取る難しさ、その勇気を持つことの大切さ』
これを伝えるための設定なんじゃないかと思うんです。

このように、ただ樹と冬雨が可愛いだけじゃない、社会課題にスポットライトを当てたドラマでもあるという視点でチェイサーゲームWと本記事を見ていただき、モヤモヤを晴らす一助にしていただけると幸いです。


🌈最終回のモヤモヤポイントの整理

改めて、最終回直後にSNSに上がったモヤモヤをまとめてみます。

  1. 冬雨はレズビアンじゃなくてバイセクシャルじゃないか

  2. なぜ冬雨は浩宇との家庭をやり直そうとしたのか

  3. 冬雨と樹の夜の別れのシーンの意味

これらのモヤモヤも、『お子様がいらっしゃる同性愛者の方』に想いを馳せると少しずつ晴れてくるのではないかと思います。

①冬雨はレズビアンじゃなくてバイセクシャルじゃないか

娘の月が冬雨の実子で、冬雨が浩宇を「愛している」と言ったことで
『どうやら二人は恋愛結婚っぽい=レズじゃなくてバイなんじゃないか』
という疑問が上がったのではないかと思います。

ただ私の意見の結論から言うと、冬雨はバイセクシャルではなく、レズビアンなのだと思います。何故なら、冬雨本人が「私はレズビアンです」と言っているからです。

制作陣の方に対して勉強不足だという声が上がっているのも認識しておりますが、とはいってもプロの皆様なので、『冬雨と浩宇がお互いに恋をして結婚をしたのであれば、レズビアンじゃなくてバイセクシャルと呼ぶべき』ということくらいは流石に分かると思います。少なくとも数多くいらっしゃる制作陣の皆様が、誰一人としてそれに気づかずに放送まで来てしまったというのは考えづらいです。

ということは、敢えて冬雨に「私はレズビアンです」と言わせていて、それが何故かでいうと『冬雨はバイセクシャルではなく、レズビアンだから』じゃないかというシンプルな結論に至りました。

そして、繰り返しになりますが、この現実世界で実際にお子様がいらっしゃる同性愛者の方は本当にたくさんいらっしゃいます。

先に述べたような生きづらい社会で、大きな孤独感を抱え、身の回りの似た境遇の方は自死を選ぶ方もいらっしゃった時代。
ご自身の命や、世間体や、家族からの期待に応えるために、同性と生きる道を諦めて、異性との結婚を選ばれた方が多くいらっしゃるわけです。

ただ、一生自分の『同性を好きになる気持ち』を押し殺して、異性と生きる道を選ぶというのは、かなり大きな覚悟だと思います。

そんな大きな覚悟を決めて、一生何かを取り繕ってでも誰か異性を選ばなければならないとなったとき、冬雨のように『自分のことを大切に想ってくれた異性』を選ぶという同性愛者の方が多いのではないでしょうか。
そのレズビアンの方にとって、旦那さんの存在というのは『自分を押し殺して生きる苦しい道でも、この人とだったらやっていけるかもしれない』とまで思えた男性ということなんですよね。それくらい大切な存在ではあると思うんですよ。

だから冬雨のように、形だけの結婚だったとしても旦那さんのことを『愛している』という気持ちがあるレズビアンの方もたくさんいらっしゃいます。

ただ、その愛というのは恋愛とは違うんですよね、だから『レズビアン』なんです。愛って、友愛とか家族愛とかいろいろありますよね。

このように冬雨にとって浩宇も恋愛的な意味ではないですが、本当に心から大切だと思うんですよね。樹と別れて本当に死んでしまおうかと思ったときに、冬雨のことを深く愛してくれて、冷たい態度をとっても優しくしてくれて、浩宇って本当に温かい人ですよね。
だから冬雨も、浩宇のことを恋愛的に好きにはなれないけれど、自分の女性を好きになる気持ちを一生押し殺して生きるとなったときに、その横にいる男性が誰かと聞かれたら、それは浩宇しかいないという意味で、「浩宇を愛している」という言葉を選んだのかなと私は捉えています。


また、冬雨と浩宇が性交渉をして月が生まれているということに対して、「バイセクシャルなんじゃないか」と思われた方もいらっしゃったようですが、先に述べたような大きな大きな覚悟をしたからには、世間や旦那さんから求められている、性交渉・出産・子育てにも踏み切るというレズビアンの方も多いです。そのため、これについても「男性と性交渉ができるならレズビアンではない」というような簡単な話ではないと私は思っています。
※様々な方法で性交渉をせずにお子様を授かっておられるレズビアンの方もいらっしゃるようです。


ただ、冬雨のように
「旦那さんやお子様を愛しているけどレズビアン」
「旦那さんへの愛は、恋愛的な愛ではない」
ということを、なかなか周囲に理解してもらえずに苦しんでおられる方がたくさんいらっしゃいます。

そんな皆様は、普段から何となく自分自身にも嘘をついている感覚があって、周りに言っても理解してもらえなくて、本当に苦しいと思います。お子さんがいらっしゃるから、「実はレズビアンなんだ」ってカミングアウトしづらい。じゃあなんで子供いるのってところから説明しないといけないし、説明しても理解してもらうのは難しいし・・じゃあこれからでも女性と生きる道を選び直そうとしても、もう子供もいてそう簡単に離婚はできないし、離婚せずに恋愛したら不倫になるし・・と、がんじがらめになられています。

チェイサーゲームWというドラマには
「そんな皆様の存在を知ってほしい」
「そんな道を選ばざるを得ない社会課題が改善に向かってほしい」
「今まさに自分を押し殺して異性と結婚をしようとしている同性愛者の方に一歩立ち止まってほしい」
そんな想いが詰まっているんじゃないかと思うんです。
それを伝えるために、冬雨は『レズビアンかつ子持ち』の設定でないといけないし、そこに大きな意義があると私は思います。

「レズとかバイとかどっちでもいいんじゃないか」
というお声もありましたが、ドラマのメッセージを考えると、冬雨はレズビアンである必要がありますし、もっと言うと作中で冬雨本人が「私はレズビアンです」とハッキリと自身のアイデンティティを表現しているので、きっと冬雨にとっては「どっちでもよくない」んだろうなとも思います。


②なぜ冬雨は浩宇との家庭をやり直そうとしたのか

『浩宇と恋愛結婚じゃないなら、なぜ冬雨は家庭を優先しようとしたか』
『なぜ"春本さんと一緒に暮らしたい?"という問いに対して即答で否定をして、家庭をやりなおさせてくださいと懇願したのか』
という点に疑問を持たれた方も多かったようです。

冬雨が自分の気持ちだけで行動して良いなら、そりゃあ冬雨は樹と一緒にいたいですよね。すぐにでも浩宇と別れて樹の元に行きたいはずです。

じゃあ、なんでそうしないか。
それは樹と月を守るためだと私は思いました。

冬雨は、「ここで樹と生きる道を選ぶことは、自分の業(恋愛的に愛せない浩宇と結婚・出産をしていること、それでも樹を忘れられず日本に来て不倫関係となったこと)を、樹と月に背負わせてしまうことだ」と考えたのではないでしょうか。

仮に冬雨が樹と生きる道を選択したとします。
それでも、冬雨と月の親子関係は切り離せないですよね。ということは樹にも一緒に月の面倒を見てもらう場面が出てきます。4話で樹は「元カノの子供を積極的に見たかったわけではない」と言っていました。それを一生背負わせることになってしまうわけです。

また、冬雨が樹と生きる道を選ぶことで、樹は『家族から冬雨を奪った不倫相手のレズビアン』として見られ、それを背負って生きていくことになります。樹は同性愛者であることを周りに言わずに生活をしており、そのことを冬雨も知っているので、自分のせいで樹のセクシャルのことが周りに知られたり、増してや不倫相手という目で見られてしまったりなんてことは、どうしても避けたいという気持ちが特に強かったのではないでしょうか。

これらのことを考えると、樹が大切だからこそ、簡単に樹と生きる道を選択できなかった冬雨の気持ちが分かってくる気がします。

これが最終回で描かれていた
「大丈夫、樹には迷惑かけないから」
「冬雨とこうなったこと後悔してないよ」
の会話の意味だと思うんですよね。
心から愛しているからこそ一緒に生きる道を選択できない冬雨と、そんな壁は分かったうえで冬雨を愛した樹。本当に美しいですよね…!


次に冬雨から月への想いですが、樹と生きる道を選んだ場合は「今後はママ二人、パパとは離れ離れ」となり、家族みんなで暮らせないとか、これから中国に戻ろうとしている中で、ママ二人ということに対して月がいじめられるかもしれないとか、『自分のせいで月を脅威にさらしてしまう』という懸念があったのではないでしょうか。


6話のカフェのシーンで
「ずっとこうしてたいね」
「樹・・何でもない。好きだよって言いたかっただけ」
という会話がありますが、私はあのシーンから、冬雨の『樹と一緒に居たい強い気持ち』と『樹と月を傷つけてしまう懸念』の狭間での葛藤を感じました。

でもいくら葛藤しても、冬雨は自分の気持ちより、樹と月のほうが断然大事で。
だから浩宇と話す前から、冬雨は「自分は二人を守るために浩宇と生きるべきだ」という結論に、既に行きついていたのではないでしょうか。だからあの場で「家庭をやり直したい」と即答できたんじゃないかなというのが私の解釈です。


ただこれが、もし女性同士の恋愛が当たり前で、何の障壁も無く女性二人で子供を育てられる社会だったら、また結論が違ったかもなと思います。
もしくはもし樹が男性だったら、浩宇と別れて樹と一緒に月を育てる選択ができたのかなとどうしても考えてしまいます。

樹が女性だからそれができない。だから冬雨はまたここで、自分らしさよりも取り繕って男性と生きる道を選ばないといけない。そんな社会の課題がここでも描かれているんじゃないかなあ・・と。


少し話が逸れてしまいましたが、私は家庭をやり直させてくださいと頭を下げる冬雨から、『自分の気持ちを押し殺して男性と生きる道を進むことに決めた覚悟の強さ』や『月と樹を守るんだという、強い決意と愛情』を感じました。

なので、この選択自体には浩宇への気持ちは入っていないんじゃないかなというのが私の解釈です。


③冬雨と樹の夜の別れのシーンの意味

でもそんな冬雨の強い覚悟をも揺らがせて上回るのが『樹への想い』ですよね。

だから、浩宇と話したときは理性的に「家庭をやりなおさせてください」と言えるのに、いざ樹と会ったら想いが溢れてしまって「もう少し一緒にいたい」と言ってしまう。

あの夜のシーンについて、SNS上で
「冬雨は『家庭をやり直したい』とか『もう少し一緒に居たい』とか、言ってることめちゃくちゃで何がしたいんだ」
というお声もお見掛けしましたが、私はここが冬雨の葛藤の部分だと思うんですよね。いざ樹と会ったら自分の気持ちが溢れちゃう、樹の前では自分の気持ちを表に出しちゃう。

だからと言って、突然全てを投げ出して、感情だけで娘を捨てて樹の元に行けるほど冬雨は子供じゃないし、責任感と娘への愛情は少なからず持っていると思うんですよね。だから、樹から娘の名前を出されて一旦樹の元を離れていました。

そして樹も、冬雨のそんな複雑な感情を全て分かっているからこそ、わざと「月ちゃんが待ってる」というセリフを選んだと私は思います。

ここで娘の名前を出せば、冬雨は自分と生きる道を諦めて、月ちゃんのために男性とのいわゆる”普通の幸せ”にもう一度進んでくれるだろう、旦那さんと子供と3人でまた穏やかな生活を送ってほしい。まさに5年前に冬雨をフったときと同じ。私は「月ちゃんが待ってる」というセリフと「物足りないからごめんね」というセリフとが重なって見えました。

それは樹なりの変わらない愛の見せ方と覚悟だと思います。
だからこそ冬雨はそれを受け入れる形で一旦あの場を離れようとしたんじゃないでしょうか。

ただそれでもお互いへの気持ちが勝ったからこそ、路上での誰の目も気にしないキスのシーンになったんだと思います。
浩宇と月を裏切ってしまう気持ちとか、世間体とか、全部とっぱらってしまう理屈ではない樹への大きな大きな想い。ものすごく美しいですよね。
(私はあのシーンでリアタイしながら本当に泣きました笑)


じゃあなんで両想いなのに別れたのかというと、先ほどお話ししたように、『全てを突然投げ出して逃げるほど、冬雨は無責任な人ではない』ということじゃないかなと思います。自分が覚悟を決めて結婚・出産を選んだからには、突然月を捨てて樹と駆け落ちなんてことはできない。でもどうしても樹と一緒に居たい。それであれば、ちゃんと中国で家族のことを清算して樹の元に戻りたい。そんなお互いの気持ちを確かめ合った「忘れない」「私も」なのかなと思います。

「とはいえ不倫はダメじゃん」とか「冬雨は自分勝手だ」という感想もチラホラ見かけましたが、私は二人の葛藤とか、社会情勢のせいで同性と生きる道をどうしても選べなかった背景とか、家庭を清算する責任とか・・そんなことが描かれているように感じたので、『冬雨の自分勝手な不倫の物語』とは到底思えなかったです。


🌈おわりに

ここまで書いてきたことはあくまでも私の個人的な解釈ですが、これをスペースでお話しした際、ありがたいことに制作陣の方からリポストやコメントをいただいたので、少なくとも制作陣の皆様の意図と大きくはズレてはいないのかなと少しだけ自信が持てた部分ではあります。

私はたまたま最終回前から冬雨と似た境遇の方からお話を聞いていたので、割とすんなりと最終回のシナリオを理解出来たと思っています。

一方でチェイサーゲームWをフラットな気持ちで一度見ただけでは、冬雨の心情・行動を理解できなかったという方も多かったのではないのでしょうか。
ということは、冬雨と似た境遇にいる方は、少しずつLGBTQへの理解が進んできたこの現代社会でも、まだまだ多くの方から理解されずに生きづらさを抱えていらっしゃるということです。

チェイサーゲームWは「見せたいものを見せるのではなく、見えないものを見せていくドラマにしたい」と、制作陣の方が語っておられたのは、まさにこう言うことなのではないかと思います。

ただ女性同士がイチャイチャするだけのほうが、話題になって視聴率も取りやすいかもしれない、セクシャルマイノリティに関する取材も少なくて済むかもしれない、批判の声があがるリスクも低いかもしれない。でもそんな「見せたいものを見せる」のではなく、現代社会に起きている、冬雨と似た境遇の方の生きづらさ、同性愛者の方の自分らしさを重視した選択の大切さ、そのための社会課題への問題提起、そんな「見えないもの見せてくれる」ドラマなんだなと思っています。

最終回終了後、チェイサーゲーム原作者の松山先生が以下のようにポストをされていました。

私の勝手な解釈ですが、この「まだ、なんにも終わってない。」から、樹と冬雨が何にも脅かされずに二人で幸せになれるような社会をみんなで一緒に追いかけたいというようなメッセージを読み取りました。(もちろんシンプルに続編への想いもあられると思いますが・・!)

チェイサーゲームWに込められたメッセージや、制作陣の皆様の志に、私は強く感銘を受けて、共感をした部分も多くありました。
だから私はこのドラマが本当に本当に大好きです!

制作陣の皆様も、キャストも、ファンも。全員が続編を望んでいるんだからいつか絶対実現するはず!!・・ということで、これからも末永くチェイサーゲームWを応援していきたいと思います!

長文にお付き合いいただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?