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あいちトリエンナーレ 「表現」と「暴力」

「公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない」
大村知事の一連の発言はとても真っ当な意見で、解釈が別れる余地すらないとぼくは思う。
これは前提なのだ。

あいちトリエンナーレ』の企画展『表現の不自由展・その後』展示中止における大村知事の発言について、上記内容をFacebookに載せたら、知人から下記のようなコメントが届いた。

知人からのコメント(意訳)
一方向の左側の主義主張を連想する展示物だけを展示しているように感じました。アートを装った政治的主張と思われない配慮があればよかったのでしょうか。

それに対してのぼくの返事。

どのような思惑であれ、「一切の表現の自由は、これを保証する」が大前提だと思います。(第二十一条)

そこには右・左のバランスをとる必要すらありません。(作品として提示するか否かの「選択権」は主催者側にあります)

その上で、「これは一方向である」「アートを装った政治的主張だ」と是々非々を自由に問う社会を憲法はデザインしています。(第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)

「公権力側だからこそ、憲法を遵守しなくてはいけない」という大村知事の発言はとても真っ当な意見だと思います。

それに対してまたコメントが届いた。

知人からのコメント(意訳)
・確かに行政がストップかけたのは問題。
・ただこのまま展示を続いていたら、侮辱されたと怒り狂う憎悪のテロによって人が死ぬ。
・憎しみ、復讐心や怒りを先導するのはアートと呼べるのだろうか?

ぼくの返事。

行政が中止したのは業務威力妨害という暴力によってであり、非すべきは自身の主義・思想を暴力にのせる行為だとぼくは思います。
同様に、侮辱されたと怒り狂う憎悪のテロで人が死んだ場合は糾弾すべきはテロ行為者だと思います。

また、どのような作品内容であれ、「これはアートと呼べるのか?」という問いすらもアートは内包してしまいますので、アートの場に出た時点でアートと呼べるとぼくは思っています。それが例え使いかけの消しゴムであっても。

そして、その作品(消しゴム)が豊かな作品性を持っているか否か、下らないものなのか否か、人を侮辱するものか否かはアートの場に出てから是々非々で行われることだと思います。

結果、作品として「全く価値がない」という結論になることもありえます。
価値がないアートはありえますが、アートでないアートはないと思っています。

今回、愛知県が展示を中止したのは暴力行為によるものであり、それほど暴力がもつ支配力は圧倒的だとぼくは思っています。

三日で中止するなんて根性がないといった意見もあって分からなくもないですが、「表現の自由」と「暴力」では比べるまでもなく暴力が支配力を持ちます。
だから、暴力を法律で規制し、公権力は暴力の抑止力として暴力装置を独占し、より上位の存在として「表現の自由」を憲法で規定しています。暴力とのタイマンだと勝てっこないからです。

ぼくは圧倒的に暴力に弱い人間です。
暴力の前ではいつでも意見を変えます。
主義や思想を投げ捨てます。

だからこそ、「暴力が起こりうるから、この表現はよろしくない」「暴力が起こるから中止すべき」といった風潮に反応します。
規制されるべきは暴力であってほしいとぼくが思っているからです。
暴力の前ではぼくは何でも捨てる人間なので。

そしてそれは、七十年前の日本が経験した大きな教訓だと思っています。

今回の大村知事の発言は「表現の自由」をどう担保するのか、行政は何を守るのか、暴力とどう向き合うのか、向くべき方向はどちらか、という点において、至極真っ当な内容だと思います。

知事の発言内容はおそらく欧米では議論にすらならないのではないでしょうか。それくらい前提の話だと思います。(作品内容については議論が生まれると思います)

今回、「暴力に勝てなかった」「暴力が勝った」という負の経験が生まれたことがぼくは一番いやなことだと思っています。

ぼくは暴力が襲ってきたら、あっという間に態度を翻す人間なので。

負の経験の記録として残す。

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