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2021年に腕時計をつけるということ

2021年に腕時計をつけることにはどのような意味があるのでしょうか。

総務省が毎年発行している情報通信白書。
令和3年度版によると、日本国民の96.8%は何らかの携帯電話を所有しているようです。

そんな時代に時間が分かるだけのデバイスなど無用の長物です。ケータイより正確に時間を教えてくれる時計などほとんどの場合存在しない上、そんな精度で時間を知らなければならない人もほとんどいないからです。

しかし私は最近腕時計にはまりまくっています。私だけの話ではなく、腕時計産業はここ20年ほどドル箱状態です。スイスの時計輸出額は倍増、日本のスイス時計輸入額は3倍になっています。

なぜか。

まず大前提から言えば、腕時計がファッションアイテムとしてすでに定着しているからでしょう。

例えばジーンズには未だに右ポケットの中にさらに小さいポケットがあったりしますが、これはもともと懐中時計を入れるためのものです。いまどき懐中時計なんてそれこそ持っている人は多くないと思いますが(私は集めてますけど…)、「まあ、もういらないけど昔の人はつけてたしね」という伝統の慣性によって未だにつけられているわけです。

他にも、軍人でもないのにあなたのトレンチコートの肩にはエポレットが縫い付けられているかもしれません。


このように、すでにスタイルとして確立している場合、特にファッションにおいては時代遅れの無用の長物が装飾要素として残ることはよくあります。

腕時計も、全身のコーディネートを考えた時に「まあ、もういらないけど昔の人はつけてたしね」という惰性でつけているというのは腕時計がまだ着用されている一つの理由でしょう。

ここからは腕時計の特異性のお話です。

腕時計はしかし、どんどん売れるようになってるわけです。
その理由は何なのでしょうか。

1つには、もともと腕時計が社会人の男が堂々と着けられる数少ないアクセサリーであるということがあると思います。

仕事ではスーツを着て、普段着もあまり華美なものは好まれない男性のファッション。しかし腕時計はちょっと歌舞いてもいいし、ぎらつかせてもいいのです。ドヤって良い。これは全く恣意的なのですが、車と時計は男の趣味として長い歴史を持つため、この2点でドヤるのは許されているのです。

一目でわかる形でドヤるのは社会的に意外と大事なことです。

ドヤるという卑俗な言い方を避けるならば、自らの社会的地位やキャラクターを発信する、と言ってもいいでしょう。私の知る限りどんな社会にも常に階層があります。そして上位の人々にしか開かれない扉が多いものです。ステータスを分かりやすく周りに示すことにはそんな扉を開く効用があります。

あなたがどんなに切れ者でも、0.1秒でそれを伝えることは難しい。100万円の腕時計をしていれば少なくともあなたがそれだけの働きをしてきた可能性を見て取ってもらえるかもしれません。

2つ目には、そのファッションアイテムとしての時計に、近年さらに意味が加わったことがあると思います。

腕時計によってしか時間を知ることができなかった時代、腕時計の着用は半ば義務でした。しかし腕時計が本来の時を告げる機械としての存在意義を失った今、それを着用することはその人の積極的な選択であることを示します。ジーンズやトレンチコートの意味のない装飾と違い、「お気に入りのシルエットのものを選んだら副次的についてきてしまった」ということもあり得ないので積極的選択の意味合いは非常に大きいでしょう。

腕時計は安全な逆張りなのです。人と違うことをするのは簡単ですが、違うだけでなく人より優れていることは容易ではりません。

腕時計には、これまで男の宝飾品として洗練されてきた100年以上の歴史があります。だから非常にクオリティの高いものがある。

しかし、スマホもあるし時計なんかいらない、という人が劇的に増えました。もしくはスマートウォッチにするとか(世界で最も売れている時計はいまやアップルウォッチだといいます)。

そんな世の中で古典的腕時計をつけていることは異端的です。そして、古典的腕時計はスマートウォッチよりも美しい(少なくとも時の試練に耐えてきた年数は桁が2つ違います)。ここに勝利の約束された逆張りが顕現しているというのが今の腕時計ブームの正体であり、2021年に腕時計をつけることの意味なのではないでしょうか。

事実、先ほど腕時計の輸出額や輸入額が増えたということをお話ししましたが、売れている本数は減っています。つまり、より少数の人が、自らがどんな人間か簡単に紹介する瞬間名刺的に腕時計を求めているといえましょう。自分の人格を表現するものは安物でないほうがいいという人が多いと私は思います(一方でさらにチープカシオでその逆を行くTaylor the creatorのような人もいますが)。

構成の甘い、メモめいた文章になってしまいましたが、なんとなく言いたいことは言えたのでここで筆をおきます。

あ、あと、これと同様の現象は着物ブームの裏にもあると思います。伝統に裏打ちされた確かなクオリティと美しさがあるのにみんなが捨ててしまったものという意味において。


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