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人工物の自然をデザインする | 稲見昌彦×山中俊治対談シリーズ 第3話

   自分の体は1つだけ。そう思い込んでいませんか。
 ロボティクス技術の進展とメタバースの台頭が、リアルな世界とバーチャルな現実の両面から、人間の身体に根本的な変容を迫っています。洋服を着替えるように気分次第で身体を選び、忙しい時には何人もの自分を同時に使いこなす。そんな日常が刻々と近づいているのです。「稲見自在化身体プロジェクト」が取り組むのは、この環境の実現に向けた地ならしです。技術の開発から人々の行動や神経機構の理解など、複数の経路からアプローチしています。
 我々が思い描く新しい身体像を社会に受け入れてもらうには、多様な視点からの議論が欠かせません。そこで、身体性に造詣が深く革新的な業績で知られる各界の論客を招いた対談を企画しました。ホストはプロジェクトを率いる東京大学 先端科学技術研究センターの稲見昌彦教授。自ら博覧強記、才気煥発で知られます。
 今回のゲストはデザインエンジニアで東京大学 大学院情報学環・生産技術研究所の山中俊治教授。Suicaの改札機や「美しい義足」など、数々のイノベーションを創出し、デザインと工学の最先端を同時に知悉する人物です。                                                              (構成:今井拓司=ライター)

第1話 第2話 はこちらよりお読みください。

常套手段の陥穽

では、人々の美意識を前提にした上で、社会に受け入れられる人工物を作るにはどうすべきでしょうか。二人の矛先は、開発者が陥りがちな安易な手段に向かいます。

稲見 (自在化身体を)社会に出していくと、当然人がどう感じるかをエンジニアリングとして解決しなければならない。親しみを感じさせるべきなのか、よそよそしさを感じさせるべきなのかはともかく、生物らしさを取り込んだからといって、すぐ人々に受け入れられやすくなるわけではないですよね。

山中 まさにそこが重要ですよね。

稲見 私の分野でよくあるんですが、VRコンテストとかで作品を作って面白みが足りないと、たいていゲームにするんです。でもそれって、ダメなゲーム、つまらないゲームができるだけなんですよね。ゲームにしたから面白くなるのではなくて、面白いものをゲームにしたから面白いのであって。同じように、生物の要素を取り入れたら美しくなるのではなくて、生物の美しい要素を取り入れるから美しくなるわけですよね。

山中 全くそれはその通りです。安易に生物形状に似せるのは、むしろ非常に受けいれにくくする要素にもなりかねない。とりあえず花柄にしてみました、みたいなものが昔の家電製品ではやりましたけど。それも極端にいうと生物様式の取り入れですが、(製品の)構造や機能が結びつかないまま「表紙」として無理やり取り入れることのリスクはありますね。「デザインとは、そういうものを取り入れることだ」っていう誤解は、常に解いていかなければならないと感じています。

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稲見 一方で、流体力学的な最適化問題を解けば何でも美しくなるかというと、そんなことはない。あれも、よくある機能美の誤解ですよね。

山中 機能美に対する誤解もなかなか難しいですよね。自然界には機能美しか存在しないっていうのは多分正しい。つまり、自然界の中で美しいと思うものは、人間に美しいと思ってもらおうとして作ってるものじゃないし、自然界が(人に向けて)最適化したものじゃないよね、たいていの場合。その代わりに我々の方が、ある種のファンクションなり何なりがうまくいってるものに対するセンサーとして美意識を感じるので、自然界にあるものは自然に機能美なんですね。
 そいつを美として人工物に取り入れた時に、我々が理解した法則としての自然と、実際に存在する自然物とのギャップが一番あらわになる。それが恐怖の対象になることもあるし、ダサいものになることもあるし、嘘っぽいモノになることもある。この状況は、デザイナーがいつも気をつけていることではありますね。

翻って二人の議論は、人にとっての「自然さ」とは何かを探ります。

稲見 さらにその自然というのも(誤解を招きやすい)。HCIの分野では自然て簡単に使っちゃいけない言葉なのに、「ナチュラルユーザーインターフェース」が一時期はやったことがあって。色んな先生方から「一体、何がナチュラルなんだ」と突っ込まれていたことがあったんですけども。そういう形容の「自然さ」というものは、ちゃんと噛み砕けるものなのか、それとも統合して感じるものだから分けて考えるとわからなくなるのか、どちらなんでしょう。

山中 実は、カーデザインって、自然に見えることにすごい苦労をしているものでもあるんですよ。

稲見 それは、街中で考えてということですか。

山中 もう少し彫刻レベルの話なんですけど。「破綻のない曲面」とか、「自然につながっている」とか、「お互いのボリュームが喧嘩していない」とか、複雑な彫刻的な用語で語られることをものすごく雑に言うと、「見た時に不自然じゃない」っていうことなんですね。
 それを作るためにすごい苦労するんですよ。「ハイライトが通っている」みたいな言い方も、曲面が何かを写し込んだ時にグニャって歪まないってことで、グニャっと歪むとそこだけ何かの力で歪んだように見える。前から後ろまで滑らかに映り込んだものがスルスルスルと流れるように作ると車って綺麗に見えるっていうのは、カーデザイナーみんなが知っていることなんだけど、そうやってやっと自然なものができる感覚なんですね。
 たぶんそれは、我々が自然界の中で受け止める健全さの抽象化なんだと思うんだけど、とても注意深くやらないと自然にならない。その辺りが、根本的には人工物と自然なものとのギャップかなと思うんですけど。
 たぶんVRの世界とかメタバースの世界でも同じことがいえて、非常にメタな、抽象度を上げた感覚として自然に見えることを実現しないと、自然を模倣しただけでは自然に見えない。そういう部分が存在するんだと思います。不気味の谷なんかも同じレベルにいるのかもしれないけど。
 我々の認知は、抽象度を高めた形状、動き、質感みたいなところで、どのくらい抽象度を高めると自然と感じるのか。「自然だね」というより「不自然じゃないね」ってレベルなんですけど。
 抽象度を高めるということは、認知に対して、適切でナチュラルな印象を与えるってことなんですね。それは自然の再現とは違う。そこがアーティストたちがずっとやってきたことでもあり、そいつを工学の中にきちんと取り入れないと、そこがうまく再現されないってことなんでしょうね。
 多分アーティストたちは、よくできた彫刻を無闇に実物に似せようとしない。つまり蝋人形ロダンの違いは何かっていうと、抽象度なんですね。マテリアルに沿った抽象度なんですよ。
 無理してマテリアルに色を着けて、無理やり髪の毛植え込んでリアルに見せようとしても、結局は人間の営みがそこで行われないので、死体にしか見えない。そこを突破するためには、逆に石で作ることの意味をちゃんと理解して、別のマテリアルに置き換えることを意識して抽象度を上げる。そうやって初めて、いきいきした石の塊が存在できる。ベーシックな芸術的の活動っていうのが、そこ(工学)にきちんと反映されるべきなんでしょうね。

稲見 (車のデザインに関しては)「車も戦車も上からの攻撃に弱い」みたいなことを思ったことがあるんです。戦車は物理的に弱いんですけど、車は上から見ると「あれっ」ていう感じになる。航空写真で車が並んでいるのを見ると…

山中 みんな同じにしか見えませんよね。ただの四角いものにしか見えないですよね。

稲見 しかも、のっぺりとしている。先生は上から(デザインを)イメージされますか?

山中 (デザインの)破綻がないという意味では、上からも見ます。ただ、上から魅力的に見えるってことは、そんなには意識しないですね。実は車って、巨視的に見るとすごい微小な差の中でしかデザインしていないんです。それは法規制とか人間との関係とか色んなことがあってなんですけど。
 そういう意味では、先生がおっしゃる「上から見る」というのは、もっとマクロな視点だと思います。道路に対する塊として、どういう存在としてあるべきかとか、「ここに人が乗っていますよ」というのが見えるためにはどういう形をしてなきゃいけないかとか。(現状で)地図上で見た時の形状の印象みたいなものを議論していないのは間違いないですね。

人工物の情報世界

次に二人が切り込むのは、自然とは違う、人工物ならではのデザインの領域です。

稲見 人工物ならではの特徴として、「余白がある」って言い方もあるんじゃないかと思っています。天然物って、あんまり余白っていう印象はないんですね。それこそカニッツァのトライアングル、主観的に輪郭が見えるというのは人工物ならではだし、彫刻でも見えない線が見えたりしますよね。手がなくてもそちらの方が綺麗みたいな。そこを積極的に使うことはできないですかね?余白を作るか、もしくは、ダビデの手を大きくするみたいな形で、漫画も含めて誇張を使うか。

山中 それは、グラフィックデザインにしてもプロダクトデザインにしても、逆に基本だと言えて。情報の整理というのは根本的に人工世界で、人工世界って、まさに余白みたいな、情報のありなしのコントロールってすごい重要なんです。

稲見 余白と誇張ですね。

山中 そうですね。情報が集中している場所と、そうでない場所のコントラストを付けることも我々の認知にとってとても重要なので、人工物の世界ではとても意識的にデザインされています。そこも自然界とのギャップの1つですよね。
 どんなに森の中に似合う建物を作るっていっても、どうなっているかわからないグニャグニャなものにしてしまったら、我々にとって住みやすくはなくなる。「紙が色んなサイズで色んな形をしてたら我々困るよね」というのと同じです。我々が何かを認知しやすくコントロールするということが、そもそもアンチナチュラルなんだと思う。

稲見 (人工物については)我々はいつのまにか人工物を発見するセンサーみたいなものを持つようになったってことはないですかね。都市生活とか道具を使う生活が続いていくことによって。直線とか平面とか円があると、(意識の中に)ポップアップしますよね。

山中 とりあえず押してみるとかね。何か出てくるんじゃないかと思って押してみる、みたいな。

稲見 だいぶ昔、舘先生と存在感って何だろうという議論をしたことがあって。その時の暫定的な答えが、人の危険察知能力と非常に相関が高い感覚が存在感ではないかと。例えばZOOMで会議をしているとき、(対面の場合と)ほぼ同じ情報が入ってくるんですけど、対面だと突然私がいきりたって、スマートフォンを投げつける可能性がゼロではない。でも、ZOOMだとそんなことは全くないわけですよね。エネルギー源とか動いているものとか、自分に危害を及ぼす可能性があるものが、パッと(意識に)ポップアップするのは、そこらへんの危機察知能力と相関が高いんじゃないか。
 ただ、それはナチュラルな存在感ですよね。一方で、直線て目立ちますよね。あれってなんなんだろうって。それは存在感は存在感でも、危険による存在感とは違う、別の存在感を立ち上らせる原因ってあるんじゃないかなと。

山中 人工物ならではの我々の探査能力が、いつの間にかできているんじゃないかっていうのは、文化的な属性として十分ありえると思います。アフォーダンスの議論なんかでよく言われることですけど、我々はものの形状の中に、いつもの習慣の情報を埋め込んで関連づけているから、形をみた時にそうできるものなんじゃないかと思っちゃう。まさに、凹んだところがあればとりあえず押してみるとか、そういう感覚に近いものがあるんでしょうね。

稲見 アーティファクトをどうしても探してしまうというか。私も妻に言われてはじめて初めて気がついたんですけれども、街を歩いている時に自然にいろんなものをプチプチ押してるらしいんですよ。注意散漫だと思うんですけど(笑)。素材が何か確かめようとする感覚を持っている。

「美しい義足」とは

対談の締めくくりは、山中教授が進める研究の1つの柱である「美しい義足」プロジェクトにフォーカスします。まずはプロジェクトのアウトラインの紹介から。

山中 義足って、例えば膝など、あるところで人体が切れているときに、ピタッとフィットするカバーでそれを覆って、金属のパイプをつけて、プラスチックで成形した足のパーツを付けるのが基本です。この構造になったのは第一次世界大戦のころで、義足をモジュール化して色んなサイズに対応できるようにしたんですね。それぞれのパーツを規格化し、パイプの径を1つに統一して、どんな長さにもできるようにした。可動パーツもあって、ジオメトリーを変化させて、いろんな人の体にフィットできるものを作ったんです。

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 人体ってカーブでできているから、例えば太ももはこんな風に描けるんですけど、片方の足だけこういうものをいれると、とても痛々しい印象になるんですね。どうしても。そこで我々が考えたのが、こいつをちゃんとデザインしてやろうぜと。

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 人体がこういうカーブを持っているとしたら、何とかそれに沿った方向で全体をスタイリングしませんかと。そうやって健常者の足のパーツの印象に似せたものを作れば、ここが機械だとわかってもずいぶん違うよね。そういう発想がプロジェクトのベースにあったんですね。

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 中でもスポーツ用の義足はとてもわかりやすくて、人間の足って走行中はほとんどバネとしてだけ働いていて、筋肉としては機能していないんですね。それを板バネに置き換えると、こんなカーブになるよねというのが、研究結果から出ていて。そのカーブと人体とがうまくフィットするような構造を作れませんかねっていうのが我々の研究テーマの一つになっている。

自在肢トークショー01s

 この板バネは人間の体にフィットするように設計できて、メーカーによっては意識しながら作る。意識しないで、ただのカーブとして作っちゃうメーカーもあるんですけど。
 このカーブを、(切断端を覆う)ソケットに沿った形から始まって、地面に沿った形で終わるようにしてやると、綺麗なカモシカのような足に見える。でも実際には、(ソケットの)先端に板を付けて、これをただの円弧で(足先の部分に)つなげてあげても、それなりの機能になるんですね。

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 どっちが扱いやすいかは選手によって違ったりするので、どちらも成り立つ。でもどうせ3Dプリンターでデザインするなら、全部つながっているように見せちゃおうとか、構造の最適化と生き物のボディの一部であると感じさせることをいっぺんにやりたいと思っているのが最近ですね。
 身体の一部にも見える人工物で、なおかつ機能的に最適化されたものを作るのが、我々のテーマになっています。ひたすら軽く作ればいいかというと全然そんなことはなくて、CFRPなんかで作ると残った足よりも全然軽いものができちゃう。そうすると軽すぎて走りにくいこともあって、ある程度ウエイトを増やしたりしてる。
 それが、ある意味「造形代(しろ)」にもなってくれるんですね。前側にウエイトがあった方が使いやすい人がいるので、その辺にウエイトをはめたりとか。最新の義足ではそんなこともやっています。

実際にデザインされた義足を使う本人はどう感じているのでしょうか。稲見教授が問いかけます。

稲見 今日のメインの話は第三者から見た時の生物らしさとか、無生物らしさ、もしくは美しさの話だったんですけど、最後の義足の話で伺いたかったのが、本人にとっての生物らしさ、もしくは自分らしさ。義足の場合は見た目だけではなくて、触覚のインタラクションもあるわけですよね、そういうところで発見があれば教えてください。

山中 意外に大きいのが他者性ですね。我々は本人が嬉しくなるものをデザインしようとしているんですけど、実際には切断者というのは人の目をひく存在でもある。それに対する他者性、他者の視点というのはすごく大きなファクターだなと思います。ファッションとか、そういう意味でもそうなんですけど、(義足を)デザインしただけでノーマルに見えるというところはあって。
 以前にお話ししたかもしれませんが、我々が義足をデザインした高桑早生さんが、義足を履き始めて最初に気が付いたことは、自分の周りの友人みんなが、義足について話すようになったことだったと。それまでは目の前で義足を取り外していても見えてないかのようにスルーしてたんだけど、その人たちが義足について話すようになりましたって。
 結局、デザインというのはすごい強い他者性の中に存在しているなと思うんですね。社会性ってそういうことかもしれないし。僕が日産自動車にいた頃の上司が奥さんと一緒に家具を選んだりしている時に、「あなたはすぐ見た目を気にするんだけど、もっと大事なことあるでしょ」と言われて「俺の仕事なんだけど」とぼやいていたことがあるんですけど(笑)。根本的には、視覚あるいは動きで他者にどういう印象を与えるか、どういう認知を与えるかというのは非常に他者性の高いことでもある。自分の身体といいつつも、それがコミュニケーションでどう機能するかはとても重要なことだと思います。

稲見 そういう補綴部位が、ある意味社会とつなぐ糸口になっていると。

山中 そうですね。
 今、うちの学生の中で子供用の義手をデザインしてるんですが、自由に動く方の手を使えば済むんで、子供は義手を使わなくなっちゃうんですよね。でもお医者さんに言わせると、何でも片手でできるようにしちゃうと、将来社会人になったら困る。逆に社会の方が、一本の腕が自由な人間に対応していないだけって議論もあるんですけど、「義手に慣れている方が社会生活がとりやすいという現実があるので何とか義手を使わせたいんですけど、子供にはいらないものになっちゃうんですよね。そこが悩みです」とお医者さんが言っていて。何とか子供が楽しく使える義手を考えようというプロジェクトが進んでいるんです。
 例えばものづくりに特化した義手、普通ではやりにくい作業ができちゃう義手もあるよねという議論をしている中で、一人の学生が思いついて、おもしろいなと思ったのが「コミュニケーションのツールとして義手をデザインするのはどうでしょうか」と。今のアイデアだと、パペットにしちゃうっていう、ちょっとプリミティブなんですけど。義手が他人との間で新しいことを起こしてくれると、素敵な世界が広がるかもねと議論したりしています。

第三の腕を作るとしたら

最後は稲見教授から直球の質問です。

稲見 最後になりますが、先生があえて子供向けの第三第四の腕を設計するとしたらどういうことを考えますか?

山中 子供の、とてもプリミティブなゲームとかアニメの世界に出てくるものとして、色々取り替えられるパーツって存在しますよね。

稲見 合体ロボみたいな。

山中 そうそう。外部に取り付ける装備として。ああいうものの一環として、世界観を組み立てるといいんじゃないですかね。

稲見 何種類か用意して……。あ、それってデタッチャブルボディだ。お料理用とか、かけっこ用とか、おままごと用とか。面白いですね。

山中 そうすると世界観が道具として広がるので。それは子供に限らないんだけど、大人でやるには、より高度なことをやらせなきゃいけない。子供って冒険心があるから、違うことがやれるだけで嬉しくなるところがある。

稲見 今、人工物と生物の間のすごく面白い議論だったなという印象があって、例えばバイオミメティクスでも、ハンドロボット、人間の手型で作りたがるのは、それが1つの汎用性を持っていると信じているからですよね。今まで生物というのはいかに変化しないハードウェアで汎用性を持たせるか、その部分をダイナミクス、スキルでどう補償するかという話になりがちなのが、人工物ではむしろそれが…

山中 何にでも取り替えられるように作る方が、人工物らしいメリットがでるかもしれないですね。

稲見 弁慶の七つ道具みたいな。

山中 そう。すごく汎用に優れた手でも、できないことができる可能性もありますよね。

稲見 私も、服を着替えるように身体を着替える時代が来るかもしれないと、アバターとか自在化身体の話でするんですけれども、着替えの要素って、もしかすると本質かもしれないですよね。子供用の拡張肢、自在肢というのは、今後考えてみたいと思います。


自在化身体セミナー スピーカー情報

ゲスト:山中 俊治やまなか しゅんじ
デザインエンジニア
東京大学 大学院情報学環・生産技術研究所 教授

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(Photo: Naomi Circus)

1957年愛媛県生まれ。1982年東京大学工学部卒業後、日産自動車デザインセンター勤務。1987年フリーのデザイナーとして独立。1991~94年東京大学助教授、同年リーディング・エッジ・デザインを設立。2008~12年慶應義塾大学教授、2013年より東京大学教授。腕時計、カメラ、乗用車、家電、家具など携わった工業製品は多岐にわたり、グッドデザイン金賞、ニューヨーク近代美術館永久所蔵品選定など授賞多数。近年は「美しい義足」や「生き物っぽいロボット」など、人とものの新しい関係を研究している。近著に『デザインの骨格』(日経BP社、2011年)、『カーボン・アスリート 美しい義足に描く夢』(白水社、2012年)。


ホスト:稲見 昌彦いなみ まさひこ
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授

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(Photo: Daisuke Uriu)

東京大学先端科学技術研究センター 身体情報学分野教授。博士(工学)。JST ERATO稲見自在化身体プロジェクト 研究総括。自在化技術、人間拡張工学、エンタテインメント工学に興味を持つ。米TIME誌Coolest Invention of the Year、文部科学大臣表彰若手科学者賞などを受賞。超人スポーツ協会代表理事、日本バーチャルリアリティ学会理事、日本学術会議連携会員等を兼務。著書に『スーパーヒューマン誕生!人間はSFを超える』(NHK出版新書)、『自在化身体論』(NTS出版)他。
「自在化身体セミナー」は、2021年2月に刊行された『自在化身体論』のコンセプトやビジョンに基づき、さらに社会的・学際的な議論を重ねることを目的に開催しています。
『自在化身体論~超感覚・超身体・変身・分身・合体が織りなす人類の未来~』 2021年2月19日発刊/(株)エヌ・ティー・エス/256頁

【概要】
人機一体/自在化身体が造る人類の未来!
ロボットのコンセプト、スペイン風邪終息から100年
…コロナ禍の出口にヒトはテクノロジーと融合してさらなる進化を果たす!!

【目次】
第1章 変身・分身・合体まで
    自在化身体が作る人類の未来 《稲見昌彦》
第2章 身体の束縛から人を開放したい
    コミュニケーションの変革も 《北崎充晃》
第3章 拡張身体の内部表現を通して脳に潜む謎を暴きたい 《宮脇陽一》
第4章 自在化身体は第4世代ロボット 
    神経科学で境界を超える 《ゴウリシャンカー・ガネッシュ》
第5章 今役立つロボットで自在化を促す
    飛び込んでみないと自分はわからない 《岩田浩康》
第6章 バーチャル環境を活用した身体自在化とその限界を探る        《杉本麻樹》
第7章 柔軟な人間と機械との融合 《笠原俊一》
第8章 情報的身体変工としての自在化技術
    美的価値と社会的倫理観の醸成に向けて 《瓜生大輔》