3話

第3回 コンクリートの上のシロクマ

 油断すると、人はついつい「理想の猫」に擬態してしまうものなのか。

 先日、私の写真展に、前に一度撮影したことのあるアッコちゃんが遊びに来てくれて、一緒にご飯を食べることになった。四国出身のアッコちゃんは、国立大学を卒業後に上京し、5年ほど一人暮らしをしている。何度かお茶したり、部屋に遊びに行ったりしているけれど、会うたび違う悩みを抱えていて、人間関係もめまぐるしく変化している。前回会ったときは、警察署にストーカー被害の相談をしていて、生活安全課で朝まで恋愛相談に乗ってもらい、お尻の光るピーポ君キーホルダーを貰って帰ってきたという話をしていた。この日もサイゼリアでご飯を食べながら、新たな悩みについて話を聞くことになった。

「友達が家に遊びに来ると、そのためにタオルを買い替えたり、シーツを買い替えたり、究極は冷蔵庫を買ってるんですよね。それまで冷蔵庫がなかったけど、一人暮らしで冷蔵庫がないなんてヘンだと思われるかなと思って」

 我が道を行くタイプだと思っていたアッコちゃんが、人にどう思われるかを気にして「普通」に近づこうとしているというのは少し意外だった。今は家賃を二か月分滞納していて、お財布の中は空っぽで、外へ出るのも久々なのだと言う。サイゼリアの399円のパスタを「美味しい、美味しい」と喜んで食べてくれた。

「ずっと部屋の中のものが浮いてる感じがするんです。本も、自分の好きな本を集めてるはずなのに、その本が好きな自分が好きなだけ。花を一輪飾るのも、その花が好きなんじゃなくて、花を飾ってる自分が好きなだけ。生活を演じるためにやたらお金を使ってるんですね」

 やたらお金を使ってると言っても、別に高いものを買ってるわけじゃない。ヒールのサンダルは、歩くとカパカパしていて足が痛そうだ。

「そこにあって自然なものってあるじゃないですか。おばあちゃんちに置いてある白菜とか漬物とか、ゼリーのお菓子は自然だけど、自分ちにあっても白菜は浮いてるし、漬物も浮いてる。ずっとそんな感じが続いてて、家が自分に馴染まない。ZOZOTOWNとかAmazonの箱がいっぱいあって、やたらネットショッピングをしてて、でもいくら買っても自分の家にならないんです。普通に自分のうちに馴染んでる人って凄いと思う。人のうちに行くと、食卓の隅っこに置いてあるテレビのリモコンとか、納豆に入ってる小さいからしの袋とか、すべてがそれらしくあって、どこもよそ者の顔をしていないじゃないですか。でもうちにあるとダメなんですよね。人の家の腐った食べ物は、それはそれでその人らしい。あるべきところにあるだけだから落ち着く。でも自分ちにあると落ち着かない。漫画を読んでいても、漫画を読んでる風。映画を観ていても、映画を観ている風。文化的なことしてる風。演じてる気がする。トイレぐらいかも、落ち着くのは」 

 人暮らしの部屋の中で、アッコちゃんは人間らしい生活を演じている、というのか。

「お店の料理は生きてる感じがする。うちで食べるものはだいたい死んでる。コンビニのご飯は大丈夫なんですよ。でも自分でご飯を炊いても何かが欠けてる感じ。食べ物じゃない感じがする。そういう食べ物風ってだけ。家の椅子も落ち着かないんです。『ここに座りたいやろ』と思って自分で配置するのに、座りたくならない。ソファがボロボロになったから、シーツを新しくしたんですけど、『ここで横になりたいやろ』って思ってたのに、横になってもソワソワする。なんなんでしょう。毎回、服もすごく困るんです。頭が真っ白になる。新しい服を着る自分とか、今日はこの組み合わせでいく自分とか、違う自分になるとパニックになる。追いつけない。鏡を見ても、自分の輪郭が溢れてくる感じで、『ここに鼻あったっけ?』ってなる。なんかグニャグニャ広がっていって、こんなにグニャグニャしてたら外に出られんって思う。人民服みたいなのがあったらいいんですけど。いつもと違う服装にすると困るんですよね。離人感があって、自分が自分に見えない。鏡なんだけど、鏡として認識できなくて気持ち悪いんです」

 まるで神経症だ。そういえばアッコちゃんは猫を飼っている。猫はどうなのか?

「猫は馴染む。爪とぎも、水も、猫トイレも全部馴染む。そういえばそう。生活に必要だからかな。必要ないのかも。ソファも本も。ずっとその場しのぎだからかも。魚を焼いてもその場しのぎで、魚を食べたいわけじゃない。自炊するために自炊するんですね。生活も生活するためにしてて、本も読むために読んでる。読みたいわけじゃないんです」
「誰かが見てるわけでもないのに、なんかいつも見られてる感じがする」  

 巨大な世間の目を、アッコちゃんは内面化していた。

 サイゼリアの店内は雑音だらけだった。隣のテーブルでは、もうすぐ定年を迎えそうなサラリーマン集団が、思春期のようにギャハギャハ笑ってはしゃいでいる。黒人のウェイトレスが通路の真ん中を行ったり来たり、せわしなく料理を運んでいた。ここでは誰も、らしくあろうとしていない。

「こういうところにいるほうが、見られてる感じがしないです。ここでは、生活のための生活をしなくていいじゃないですか。飲みたいから飲めるし、食べたいから注文できるし、テーブルにコップが置いてあることも馴染んでるし、ここにいても全然平気。ここにいる自分は、ここにいるためにいるわけじゃないし。でも家に帰ると、そこにいる自分は、本当に座りたくて座ってるんじゃないんです。床じゃなくてソファを選んで座ってるのも、らしくあろうとするからで、だから落ち着かないのかな」

 アッコちゃんは、自問自答していた。

「動物園のシロクマは、コンクリートでできた氷の岩とかプールにいて、らしく再現してるけど偽物じゃないですか。そんな感じに近いのかも。宇宙人が人間の生活をコピーしようとしたら、とりあえずトイレを作って、テレビを置いて、ソファやベッドを置きますよね。生きるために必要じゃないけど、生活をするために置いてるだけ。外の環境は人が作ったものだから落ち着く。人が作った環境だから、そこにそれがあって当然。あるべきものとしてある。でも自分で作った環境は、THE料理、THE部屋みたいに、イメージを模倣してるだけなのかも。だからいつまでたっても近づかないのかな。なんか、だんだん自分が思ってることがわかってきた気がする」

 アッコちゃんは一人でうなずいた。

「自分が作った環境に自分が住むっておかしくないですか? 地球は自分でつくったわけじゃないから自然なんですよね? 自分がつくると不自然なんです。シロクマが上野動物園に自分であんなプールを作ったわけじゃないですよね。人間が作ったそれらしいものが先にあって、そこに入れられたから、こういうもんかって馴染んでいったんですよね。環境が先にあって馴染むのはいいけど、自分で作ったものでは自分は馴染まないんですよ。必要があるならいいけど、らしくするために家電とか収納とか置いてるから、不自然で気持ち悪いんです」

 量産型の「一人暮らし」と、そのための消費活動。何かが欲しくなる前に、欲しくなるべきものを誘導されてしまう。そのことに翻弄されつつも拒絶しているのだろうか。

「とても自分じゃできない。みんなどうしてるんだろう?」

 何も解決してないけれど、ひとしきり喋り終わるとアッコちゃんは満足した顔をしていた。

 帰りの電車は、帰宅ラッシュが過ぎて空いていた。その日は3月下旬で、私が「桜がもうすぐ咲きそうだね」と世間話を振ると、アッコちゃんは、「池袋はもう桜が咲いてる。ソープランドの光に照らされて綺麗なんですよ」と言った。ひねくれているが、情緒がある表現だ。池袋の桜の下を歩くアッコちゃんの姿が頭に浮かび、一行詩のようだなと私は思った。そういえば池袋西口公園は、再開発が始まって工事の壁で覆われている。あそこにいたたくさんのホームレスたちはどこへ行ったのだろう。

「一掃されたんじゃないですか? 街を綺麗にするために。オリンピックをする国に相応しくなるように」

 アッコちゃんは露悪的な言い方をした。私は今日の話が突然結びついたようでハッとした。

 ホームレスのいない美しい国、ニッポン。街までもが「理想の猫」に擬態しようとしている。ホームレスはいなくなったわけじゃなく、見えない場所に追いやられただけだ。「らしくある」が先にくる不自然さとは、そういうことなのだろうか。コンクリートでできた氷の上にいるのは、動物園のシロクマだけでなく自分たちも同じなのかもしれない。擬態を窮屈に感じた者だけが、その事実に気づくのか。


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