(1,530字)「ザイム真理教」なる言葉に対する個人的な感想

(要約)
「ザイム真理教」という言葉がTwitterを賑わせている。その内容の真偽は私には分からない。が、"元ネタ"を知らない世代がピンとくる言葉なのかが気になる。同時代的に体験していない言葉を人は受け入れられるのだろうか?

Twitter(未だ「X」には慣れない)のトレンドに「ザイム真理教」という言葉が出ているのを見て「なんじゃこれは?」と調べてみた。
なんでも経済評論家の森永卓郎氏の著書のタイトルで、財務省の政策を批判する言葉であるらしい。経済学について無知な私はこの批判が妥当なものなのかどうかは分からない。が、Amazonに出ている目次を見る限りでは「学術書」と呼べるものではない一般向けの面白おかしく書かれた本と言ってよさそうである。さらにTwitterで検索したところ、反ワクチン活動で有名な国会議員たちが賛意を示しており、現状としては「メチャクチャウサンクサイ」というのが現在の私の印象である。

もっとも、繰り返すが無知な私はその妥当性は一切分からない。だから転向する用意は常にある。

私が気になるのは、「真理教」という言葉の使い方である。
いうまでもなく、元ネタ(と言って良いのか)はオウム真理教だ。このテロ組織が地下鉄サリン事件を引き起こしたのは1995年である。当時私は小学5年生で、ニュースの内容に何とかついていけるくらいだった。子供ながらにそのイカれっぷりは衝撃で、完全に想像の埒外だった。

その数年後、「人権真理教」という言葉を知った。この言葉自体は評論家の呉智英氏が考えたものらしい、

1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人が中学生だったのだが(自分の一学年上、というのは言葉にならない衝撃だった)、その顔写真を写真週刊誌が掲載したことに対して批判が殺到した。「加害者である中学生の人権を守れ」というのがその批判の内容である。
その「人権を守れ」という言葉を振り回しすぎて反感を買ったのか、「人権」という言葉を使って他者を攻撃する人たちを揶揄する言葉として「人権真理教」という言葉がある、ということを後々知った。

この言葉に対して私は「なるほどなあ」と大いに納得できた。
オウム真理教が自分たちの信念(というより教祖の妄想とすべきだろうけど)に基づき、他者を無遠慮に攻撃する様と確かに似たものを感じたのである。

こうして振り返ると、世の中には様々な「oo真理教」があるなあ、と気づく。
熊を駆除する秋田県の判断に対して「熊を守れ!」と電話をする人は「熊真理教」と呼べるだろうし、原発処理水の放出に対して反対する人たちは「放射能怖い真理教」と揶揄できるかもしれない。

しかしながら実際にはこんな言葉は目にしない。オウム事件から30年近く経ち、もはや世間一般にピンとくる言葉ではなくなったからだろう。

というところで今回の「ザイム真理教」である。久々の「oo真理教」の登場だ。
森永氏は財務省の政策を揶揄する目的でこの言葉を用いたのだろう。が、30半ばから下の世代にはイマイチピンとこない言葉のはずだ。にも関わらずTwitterのトレンドに出てきたのは、

「30代半ば以上の人たちだけが使っている」
「若者も知らないなりに乗っかっている」

のどちらかが理由だろう。ともかく、これをきっかけに「oo真理教」が復権したら日本語と歴史としてちょっと面白いなあ、と思う。現在の人気歌手が過去の名曲をカバーして再び人気が出るみたいに、Twitterを介して昔の言葉が復権する、ということがあるのかもしれない。

もしそうであるならば、言語の歴史にSNSが影響を与えた明確な例となるはずだ。森永氏の仮説にはそんなに興味はないのだが、この言葉の今後の行末に、私個人は大いに気になっている。


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