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つんどく

 今からおよそ4000年以上前を生きた古代エジプト人たちは、1個だいたい2.5〜7トンもの重さを持つ大きな大きな石を、知恵を絞り——この”知恵”に関しては好きな音楽をいつでもどこでもかけることができ、どこにいる人とも気軽に話せたりする魔法の板を誰しもが持つ時代においてすらも、よくわかってない部分があるという——その場の人たちと協力し、あるいは強制的に協力させられて、何百万個も運び出し、積み上げた。そして出来上がった四角錐状の建造物は「ピラミッド」と呼ばれ、今では知らぬ人も少ないだろう。この建造物は偉い人のお墓だとか、古代エジプト人たちが農業をできない時期のための公共事業だったとか諸説あるらしく、とにかくはっきり言えることといえば、当時の人々がその人生の一幕、あるいは全てをかけて積み上げたこの巨大な建築物は、4000年経った今でも存在し、作り上げられた時代から現代にかけてそれを知る人たちにとっては常に意味を持ち続ける存在であるだろうということだ。
積み上げるという行為。石そのものにも、それぞれの手触りや形はもちろん、運ぶ際には悲喜交々のドラマもあったかもしれない。つまり、命を削って運び出した石を途方もなく積み上げていく最中で、労働者たちは血と汗だけでなく、さまざまな想いも積もらせていたのではないか、ということだ。
積み上げるという行為。僕は今この文章をデスクに置いたMacBook Proに「縦式」というアプリの無料版を立ち上げてタイプしている。有料版を買うには600円かかるが、無料版を使っていて不満を覚えたことがないので、600円をはたいて有料版にアップグレードしたところで、何がどう良くなるのかがわからない。だから調べてみた。結局それでもよくわからなかったが、要するにフォームやフォントなど、細かいところを自分の好みに合わせることができるみたいだ。さて、とぼくは思った。
積み上げるという行為——?ぼくはいまこの「名称未設定」のファイルに文字を積み上げて単語にし、単語を積み上げて文節にし、文節を積み上げて文章にし、文章を積み上げて「行為」と呼ぼうとしている。
 ”石そのものにも、それぞれの手触りや形はもちろん、運ぶ際には悲喜交々のドラマもあったかもしれない”
ぼくが積み上げている「ピラミッド」には意味があるのだろうか。悲喜交々のドラマはあったのだろうか。ドラマが生まれるには石がまだ少なすぎるかもしれない。しかし、意味となるとはっきりとないとは言い切れない。日頃からぼくはそこここで聞く、「意味がない」という言い回しに違和感を感じずにはいられない。「意味がない」というのはおそらく大体の場面において、その当該の事物におけるある行為の働きかけには効果がないという趣旨を指すのだろうと思う。でももしそうなら、「Aに対してBをすることには効果がない」という事実が発生、あるいは再認識されることには少なくとも「意味」はあると言えるのではないだろうか。早い話、2.5〜7トンの重みがぼくの言葉にはない、それだけなのだ。当たり前だ。ろくに推敲もせずに、タイプミスだけを修正して書き殴られた自由連想的な文章——この用法も甚だしく的外れなのだろう——は、重みをもつどころか、タイプする度に片っ端から浮き上がり、積み上げていたのが「石」ですらなく、歩道に汚らしく散らかった水分の飛びきった落ち葉の残骸であったことに気づくのだ。つまり元々それは存在した時から「ゴミ」であったのだ。ゴミを積み上げて出来上がったピラミッドから、悲喜交々のドラマが誕生することはあり得るのだろうか。あるとするならば、その乾いて完全に死んでいる落ち葉の集積に火を放り込む瞬間以外考えられない。「完全に死んでいる落ち葉の集積」にも「完全に死んでいる落ち葉の集積」なりの意味はもちろんある。でも一体誰がそんな意味について知りたがるだろう?
 ——ぼくは一旦手を止めて、ここまでの文章に一度目を通した。そしてMacBook Proの右上に表示されている時刻を確認する。書き始めてから2時間が過ぎていた。500文字を過ぎたあたりから半ば気づいていたが、波状攻撃的にぶちまけられた途方もなく不毛な文章が、それぞれ立体的に結びつき予想外の効果を生み出すようなことは全くなく、揃いも揃って顔をしかめたくなるようなひどい腐臭を性懲りも無くあたり構わず放ち散らかしていた。あまりの徒労感に深いため息をついた後、ぐんと眉の上あたりに鈍い眼精疲労を感じたので、一旦手を止めて、目を思い切り瞑った。白っぽい枠で作られた名状しがたい図形が朧げに浮かんできては消えていった。目を開けると、無性に喉も乾いてきたので冷蔵庫へ向かい、中に冷やしておいた2リットルの「いろはす」を直飲みする。そしてもう一度深いため息をついた後、水をしまいデスクに戻ってきた。しかし執筆に戻る気にもなれず、ふと背後に配置された本棚に目をやった。本棚はスライド式の二重構造になっており、文庫本10冊ほどを収納できるスペースが計24箇所設けられている。そして同じものが上に重ねられていて、二つ合わせると文庫本換算で言うならば大体500冊くらいは蔵書できた。元々ぼくは1ヶ月に3冊程度のペースで本を読んでいたので、本棚を買った時にはその既読本を集めても、一つ目の本棚の2箇所ほどを埋められる程度しかなく、出来上がったままの切り取られた空間は、用途を果たすことなく無闇に埃を積らせる未来を早くも糾弾しているような無言の抗議を発しているようにも思えた。そんなそわそわした焦りも手伝って、いつしか気になるタイトルは読む時間のあるなしを厭わず買い集めるようになった。村上春樹、川端康成、三島由紀夫、太宰治らの作品は文庫本で出版されているものは全て揃えた。もちろんほとんど読めていない。時代的な文章の難しさもさることながら、物語の内容そのものがよくわからないことが多く、揃えたはいいものの、それらの背表紙を本棚の区画ごとに綺麗に並べたので、それをひとしきり眺めて満足してしまい、なかなかページを捲るところまではいかなかった。そんないわゆる「積み本」と既読本の対比率は指数関数的にかけ離れていった。そして、今ぼくがデスクから振り返って眺めている本棚は、スライドレールの上にも文庫本が積み上げられ、スライドはもちろん機能せず、奥側に収められた本は全区画にわたって背表紙が隠れてしまっていた。お気に入りだった美しい朱色に染まった三島由紀夫の背表紙コーナーも全くみえない。そしてついでに言うと、最後に読んだ彼の作品がなんだったかもあまり覚えていなかった。
ここにある一冊一冊に書店で、古本屋で、ブックオフで、その出会いを喜び、持ち帰れることを思うと気持ちが高まった瞬間があったはずだ。しかし、今目の前にあるのは沈黙だった。空白が存在していることにではなく、存在が存在していることによる沈黙がじっとそこに堆積していた。その静けさには不自然な重さがあった。積み上がった読まれていない本のそれぞれが、どこか自分たちのあり方に関して本来的な場所から遠く引き離され、その地で不当に損なわれていると感じ、各自の不満の大小に合わせて、区画ごとの重力がアンバランスに積み上がっているようだった。
積み上げるという行為。
積み上げるという行為————

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