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遠き島より

 じいさんの家の床の間には椰子の実が転がっていた。それは十分に乾燥しずっしり密度感があってしっかり磨きこまれたような光沢があった。
 そしてそれは時々家の中のあちこちを漂流してはまた元の位置に漂着した。漂流の張本人は子どもの時分の私に違いなく漂着に導いたのはばあさんであった。

 子どもの柔らかい爪で押したくらいで凹まない。固くてかてか光る椰子の実を見てはこれは木の実でなく木そのものではないのかと思って匂いを嗅いだり先端を探り繊維を割こうとしたりしたが子どもの調査にはせいぜい限りがある。

 次にはどこの家にもそうそう普通に転がっておらぬそれがなぜじいさんの家にあるのかを子ども心に不思議に思い始めてそれを訊ねた。
 じいさんはただにっこりと笑って私の頭を撫でるだけである。
 私はじいさんが大好きだったがいつしか煙草くさい息が大嫌いになった。
 孫と祖父の時間は割合短い。

 椰子の実というものが名も知らぬ遠き島より流れ着くものと音楽の授業で知りその日のうちにじいさんの家に教えに行った。形はいびつだけど沈まないし割れないし朽ちないしつくづく頑丈にできている。本当に強くて立派だねと私が言うとじいさんは黙って煙草に火をつけた。野心と冒険そして荒波を知る椰子の実とは正反対に座卓の前でいつものんびりと煙草の煙を吐くこの人はこれからもおそらく南の島を見ることさえないのだろう。

 すでに今の私はあの頃のじいさんの年齢とほぼ同じ年恰好となった。
 そしてじいさんの母親ほどになった母は自分の子どもの頃の思い出を語ることが増えてきた。ある時は小さな頃に一度だけ父の故郷である奄美大島に連れて行ってもらったことを語り、今でもその海の美しさを忘れることができない、と彼女には珍しくそこに情景が浮かぶように表現した。
 じいさん?奄美大島?初めて聞いたよ。
 その瞬間あの頃の思い出の映像が急ぎ足にコマ送りされる。
 何気ない孫と祖父の日常のやり取り。それらすべてを見守っているゴツゴツした固い椰子の実。さらに巻き戻されて一人の若者が故郷を離れ都会に旅立つ時にカバンの空いたところに両手で椰子の実を収める情景へ。或いはそれは誰かが想いを託して渡したものなのか。
 遠き島より勝手に流れ着いたんじゃない。

 本当に強くて立派だねと私が言うとじいさんは黙って煙草に火をつけた。
 もっと面白い話が聞きたいのに詰まらない気持ちがした私は黙りこんだ。
 煙草の煙を一吸いした後じいさんは吸い殻を灰皿に置いて椰子を私の両腕に抱えさせた。唐突のその重量に押されて均衡を崩すようにぐっと腕が沈む。
 気恥かしさから私の頬がややゆるんだ。
 じいさんはうんうんと頷きながら椰子の実を下ろした両手で私の頭を撫でた。