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「ハイロー」を侮っていた。『END OF SKY』は本物だ

あれちょっと待って、『HiGH&LOW THE MOVIE2 END OF SKY』(以下ハイロー2)って凄くない?
いやハイロー1も凄かったんだけど、ちょっと手放しではホメちぎれない歯がゆさがあった。じゃあおめえハイロー2は全部手放しなのかよっていうとまあそうもしきれないんだけど、にしてもこれは実は素直に、「あれはああだけどそこは目をつぶって」文法じゃなく素直にホメていいやつなのではないか、と思ったので、そういう話をします。

まず先に言っとくとハイロー2単純にアクションがバカすごい。邦画とか洋画とかそういう次元を超えて「ちょっと誰かこれ見て! こんなのやっていいの!?」という驚きと興奮にあふれている。あふれすぎて「あー終わった終わった」と思ったらまだ次がある。アクション監督大内貴仁さん凄い。キャスト陣凄い。
そして美術すごい。観ててハイロー1からもはや麻痺しつつあるのだが、細部に至る作り込みとそれがえんえん遠くまで続く異様なスケール感。橋本創美術監督すごい。あとLDHの資本まじヤバい。
それと娯楽的……と言うと若干の語弊はあるかもしれんが……とにかくハイロー1から一貫して「燃える」ようにできている。負けてる!ツラい!だが、奴らが手を組めばどうかな? もえる、ふしぎ! ここに圧倒的アクションとビジュアルが合わさり最強に見える。
さらにはとても濃いキャラ立ち、いわば「“マンガの登場キャラ”という概念の実写化」と言うべき無数のキャラ、彼ら個人それぞれが活躍しまた二人が反発し共闘する、キャラによっては血みどろに殴り合う、キャラクター劇の楽しさ。

というのがハイロー1から、もう大好きそりゃウケるわっていう要素なんだけど、ここに「とはいえ……」という要素がつきがちだと思う。
常識的なつっこみ所として「なんでも回想シーン挿入とナレーションと独白で説明しすぎじゃない? 映画って本来そうじゃなくて自然な会話やバックボーンのある行動、僅かな表情やしぐさ、キャメラの画や音のトーンで観客に無意識的に訴える、そんな細やかなアートだったんじゃないの?」というのは確かにある。いやごめん自分もハイロー2観るまでそういうしゃらくせえ事を思ってた。
しかしどうも、本当にそれだけだろうか。たとえば一場面の美術ひとつにここまで凝りに凝れる人たちが、そんな「何も考えずに作ったらこうなった」稚拙な出来になるものだろうか。
たとえば、ROCKYと蘭丸の決着だ(以下ものすごいネタバレになりますが、イヤな人は1段落飛ばしてください)。

この場面で説明的な表現は、唯一コブラがROCKYの勝ちを支持するセリフひとつだし、それもかなり遠回しな「ROCKYには覚悟がある」というだけでしかない。
ここまでで蘭丸とのパワー差ははっきりしている。ROCKYは負けるしかないんじゃないのか? ボロボロになったROCKYはしかし立ち上がる。
なぜROCKYはこの闘いをやめないのか、それは彼が負けることは蘭丸の台頭、つまりWhite Rascalsのテーゼの崩壊であり、女たちをもう守れない事を意味するからだ。思えばROCKYは映画序盤から徹底して「誰かを守るための戦い」を貫いていた。SWORD協定を真っ先に蹴ったのも彼らを蘭丸から守るためだし、ジェシー戦では賭かった物がないから負けた。「誰かを守る戦い」は山王のストーリーの中でも(コブラたちの立つ理由として)示唆されたことで、映画後半のテーマとも言える。仲間たちを、その背景にいる無力な市民(女)たちを守るためにコブラは、ROCKYは立ち上がるのだ。
一方、蘭丸はまったく逆、自分個人が愉しむための破壊が目的だ。正と邪の戦いとも言えるが、「どちらが強いか」という観点では(そしてハイローがもつ少年漫画的モラルでは)ROCKYに軍配が上がる。負けられない理由があるROCKYは、だから負けない。逆に蘭丸は「負けてもいい男」なのだ。だから蘭丸は映画冒頭で警察に簡単に捕まっていたのだ(これは巧妙な伏線とは言えないだろうか? 正直自分は逮捕シーン見たとき「ざ、雑に処理〜」とだけ思っていた)。
そして蘭丸は倒しても倒しても立ち上がるROCKYに恐怖の表情を見せる。あらゆる物を壊してきた男が、初めて出会った「壊れないもの」に対する恐怖だ。今までなんだって簡単に壊してこれたじゃないか。なんでこいつは壊れないんだ。これも蘭丸という男のキャラクター性に基づく、非常に受け入れやすい心情だ。ぶっちゃけ「なんでも壊したい男」かなりステレオタイプではある、だがそのシンプルさゆえにこの場面で何が起きているのかが言葉を抜きに理解できるのだ。ハイローにはこういう所がある。
二人の拳が激突する。傷ついたROCKYの拳はしかしコブラの(ジェシーの言葉で言えば友情の)バンダナで守られ、逆に蘭丸の拳を破壊する。壊れないROCKY、壊れてしまった蘭丸。すでに蘭丸はこの時点で象徴的に負けている。少年漫画でいう「格」で完全にROCKYに負けたのだ。

文章にするとハチャメチャ長くなったが(あと記憶違いもしてるだろう)、そういう長くなってしまうような作劇が、“なんの説明もなく”演出と演技、描写だけでわかるように描かれている(おそらくハイロー1クライマックスの反省もあるのだろう)。このことだけで『END OF SKY』は“素直に”ホメていい映画だと思うのだ。
達磨一家の日向の心の動きなんかもそうで、序盤で他勢力に反発していた彼がおよそ説明的な説明ぬきで、途中にむしろ反目に向かうのか?というミスリードも挟みつつ、最後のあの啖呵に自然かつ燃えるように繋がるように作られている。
これは言い換えれば「不親切」な見せ方、とも言える。最後やって来た日向が全部セリフでコブラに俺はこうだったけどこう思ったんだよ、と説明すればちょっとぼんやり映画観てても全部わかるのだ。だが日向がここで何も言わないことで驚きがあり共感があり、達磨一家が揃った時のあのセリフの痛快がある。

思うに本来は、もっと細やかなこともデキる映画だ。実際デキている場面というのがハイロー2にはあり、やろうと思えばこれで全編いけてそうにすら見える。
映画冒頭に立木文彦のナレーションであらましがドカンドカン説明される(説明に「ドカンドカン」という表現はどうかと思うが、本当にドカンドカン説明されるんだからしょうがない)あのシーンのかわりに、いちいち新しいシーンで丁寧に描写するのは確かにカロリーのかかる問題だ。確実に「それどころじゃない」映画ではあるし、あえて回避したカロリーをたとえばクライマックスシーンに回す効果というのは(あるかないかしらんが)わかる。
もうひとつには、物語リテラシーのない観客(※ものすごい婉曲表現)むけの手法というのもあるだろう。こんなことを言うのはひとえにハイロー2観たとき、空いているとはいえ上映中に席を右端から左端まで変えたりしょっちゅうウロウロするガラの悪いバk……いやそうじゃなかった物語リテラシーのなさそうな客、がいたからですが、そういう人が本当に演者の表情ひとつから物語を読み取ってくれるのか。ぜんぶ言葉と回想シーンで説明しないとわかんないんじゃないのあのバカくらいになると。
いささか筆が滑ったが、そういうかなり持って回った擁護をしたくなる程度には、ハイロー2には「雑なシーン」と同時に素直に細やかなシーンも確かにあると思うのだ。
もちろんそもA級映画作品であればこの程度の細やかさはスタートラインとして当然あるもの、というのもわかる。わかるのだが、しかし……ハイローを“スタートラインに立ってもいない”ように侮ってかかるのもまた、アンフェアではないだろうか?

もっともハイロー2で話のつじつまが「え、おかしくない?」となる問題はハイロー1から変わらずにあって、まあ誰もが言いそうなとこではRED RAIN以降ずっと雨宮兄弟も琥珀さんもUSBをどうしたいのかわりとデタラメで、この辺はもうどう言葉を尽くしても最終的に「やっぱりデタラメだよな」と思わずにおれない。あと基本的なことでは「そいつら逃がしちゃうのかよ!」の多さとか、そういう。
この辺はもう脚本のライブ感というか、ぶっちゃけライブで脚本作るって限界があるんじゃないのというか、しかし一方その自由さがキャラと俳優のハマり具合にはプラスに働いているのは明らかで、これはもうトレードオフじゃないだろうか。
嵌まり役という言葉はあるがハイローは全員当たり役嵌まり役だ。あんな(我々の住む世界とは)浮世ばなれしたキャラばかりなのにもうそういう存在としか見えない。
推測だがタランティーノ的な俳優ありき、俳優に合わせてキャラを造形しているのではないか。いわゆる「原作もの」で原作キャラに俳優がどうハマるか、は重要な評価ポイントだと思うのだが、ハイローでは特に原型のないキャラに俳優がハマるという謎の現象が起きていてこれも素直にハイローの美点に挙げていいだろう。
これがため、本来は“どっかで見たキャラ造形”、オリジナリティーの欠如という問題が発生するはずのところ、役者の熱演とキャラに合わせたアクション、PVで鳴らしたとにかくカッコ良く撮る技術と“持ち歌”という独特な要素、これらが謎のシナジーを起こして「やっぱりハイロー唯一無二のキャラ」が生まれていてオリジナリティー問題が勝手に解消している。これは凄い事ですよ。

ハイロー2ホメたいのかけなしたいのか、よくわからない文章になってしまっただろうか。ホメてます!
アクションや映像に大きな驚きのある映画、キャラに萌える映画、熱い場面に燃える映画、純粋に「楽しい映画」でした。ありがとうHIROさん久保茂昭監督! ハイロー3早く観てえ〜!