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#6 「まぶたの裏に降るねむけの雪」

 眠気がおとずれるとき、人のまぶたの裏にはある結晶が溜まっている、という話を生物学専攻の友達から聞いた。その結晶がだんだん溜まっていくことで、まぶたが重くなっていく仕組みらしい。その成分の名前も教えてもらったのだが、名前は忘れてしまった。なんとかポリアミド、アセチル、なんとかリン、みたいな呪文のようなカタカナで、一度わたしもその言葉を口に出して唱えたはずなのだが、舌先を離れた瞬間すこしの蒸気と水といっしょに蒸発してしまいそれきり頭には残らなかった。カタカナの言葉はいつもあっという間に消えてしまう気がする。そういえば世界史の外国の王様の名前や社会体制の呼び方なんかも、さらりと目の表面を撫でて通り過ぎてしまうばかりで、何度呼び止めても戻ってきてくれなかった。何の話をしていたっけ。そう、その結晶の名前、長いカタカナでできた名前の物質、それでできた結晶がまぶたの裏に溜まるのだ。血液の流れに乗って、その物質は身体のあらゆる端っこへと向かう。結晶は取り出して顕微鏡で覗くと、かすかに水色がかった透明だそうだ。友達はそれを実際に見たことはないけど、生物学研究室の書庫に大量に置いてある専門雑誌のひとつで、その結晶の写真を見たらしい。なんか雪の結晶と大して変わらないような感じだったよ、とわたしに話してくれた。人体のなかに、雪の結晶みたいな形のものがあるなんて、文系のわたしにはなかなか想像しがたい。そのことを話していたとき、丁度わたしたちがいた喫茶店の窓際のテーブルからは、いまにも雪の振り出しそうな冬の空が見えていた。だからわたしは、友達は何も知らない文系のわたしをからかって、適当な作り話をしてるんじゃないかと疑った。でもそれにしてはあまりにも淡々と、からかうような様子も見せず話すので、わたしはその話をどう受け止めていいのかわからないまま、ときどき窓の外の空を見上げながら相槌を打っていた。本当にそんな結晶があるのか、今でもわからないけど、眠くなってまぶたが重くなるとき、わたしは決まってそのことを思う。わたしのからだのなかで、不思議な名前の物質からできた、透き通った結晶がふりつもり、いま、このまぶたを重くしていく。しんしんとふる雪の情景があたまに浮かび、雪のなかでねむるように、わたしはいつのまにか暗闇の夢に落ちていく。

Written by 藍屋奈々子 | Illustration by 伊佐奈月

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