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#7 「ジャングルを流れる夢の河」

旅行中に立ち寄ったその国の、その街の、その美術館には、世界じゅうの楽器があつめられていた。モーツァルトの時代の古いピアノ、吟遊詩人の竪琴、鳥の鳴き声をそっくりに真似ることのできる笛、絶滅してしまった珍しい動物の革を張った太鼓、中に水が入っていて、傾けると熱帯雨林の雨の音がする筒状の楽器。あらゆる楽器が並ぶ館のなかは、物音ひとつしなかった。音色を内に秘めたまま、楽器たちは超然と黙っている。楽器のまえには説明書きのプレートとヘッドフォンがついていて、音符のマークのついた白い四角いボタンを押せば、ヘッドホン越しにその楽器の音を聴くことができた。わたしは夢中になって、フロアのはじからはじまで並んだ楽器を、ひとつのこらず聴いていった。もともとその美術館には、そんなに長く留まる予定じゃなかった。けどいちど聴きはじめたら、わたしはすっかり取り憑かれたようになってしまった。押し黙ったまま、楽器を眺め、説明を読み、ヘッドフォンをつけ、ボタンを押して音を聴く。音が始まったら目をつむって、それぞれの楽器のそれぞれの音色が頭のなかに描く模様に聴きいった。ひとつ終わったら、横に一歩踏み出して次の楽器のまえに立ち、また同じことを繰り返す。まるで工場の流れ作業みたいに。一階を回りきり、ひとつ上の階にのぼると、フロア全体が植物園のように、作り物の蔦や果物で飾られていた。木でできた楽器がたくさんあった。フロアの壁には、ジャングルにいそうな動物の絵が描いてあった。わたしはいかめしい虎の絵の前にある太鼓にふと目をとめた。赤と青と黄色。どこか懐かしい色合いに引き寄せられて歩みを速めると、わたしの靴が床を蹴る音がひびく。その太鼓は、ちょっとした踏み台くらいの大きさで、ひょうたんのようなくびれがあり、クリーム色の動物の革が張ってある。叩くところは真四角だった。その面から、太鼓の底面にむかって、赤と青と黄色のはっきりとした色の太い糸が斜めに、織物のように重ねられている。とてもきれいだ。きれいな楽器はほかにもたくさんあったけど、この太鼓は格別だった。世界中でいちばんのものだ。この良さは、きっとわたししか気づいていない。不思議に誇らしい気分になった。説明書きを読むのを飛ばして、焦る手元でヘッドフォンをさぐり、耳につけた。ボタンを強く押した。なんの音もしない。壊れているのだろうか。そう思ったら、かすかにささやくような太鼓の音が、小さくかすかに始まり、しだいに大きくなって響いた。流れる水の音のようだった。ジャングルのなかを流れる小さな川。わたしはいつか、その川のほとりにいたことがある。その景色は、いつも夢のなかで見るものだった。小さな川はほんのわずかな湧き水からはじまり、しだいに存在感を増して、だんだんと大きな音を立てる。しだいに流れは太くなり、水がとうとうと流れる。その川に浮かんでいた。そんなことがいつかあったと、わたしは確信した。音が終わりそうになって、あわててもういちどボタンを押した。小さい川がしだいに大きくなっていく音の風景をはじめからもういちど楽しんだ。入り口の壁に大きく、楽器は販売していません、と書いてあったのを思い出す。でもこれはわたしの楽器だ。はじめて来た街の、小さな美術館の、ガラスケースの中に、わたしの楽器が並んでいるのだ。いままでそのことに気がつかずに暮らしてきた自分が憎らしくなった。知らぬ間に、わたしたちはこんなにも遠く離れてしまって、もうわたしはその太鼓のクリーム色の革に触れることはできない。この美術館を出て、この街を一度出たなら、二度と戻ってくることはないだろうとわかっていた。やるせない思いで、じっと楽器を見つめた。側面にぴんと張られた、赤と青と黄色の糸。その糸がいつまでも汚れず、切れず、うつくしいままに保たれてくれることだけをわたしは願った。

Written by 藍屋奈々子 | Illustration by 伊佐奈月
©2016 in企画