見出し画像

イツエとわたしの青⑧-冷たい春【End】


「イツエとわたしの青」シリーズが最終回を迎えてしまった。さみしい。今回はSoundCloudにだけ存在する2曲のことを。活休ライブの話もします。できるのか。

画像1

3月13日から毎日この通知がスマホに届く。私が設定したのだ。「ごめん書くからわかってるよ書くよ」と思いながら毎朝通知を消す。わかってる、ごめんなさいと平謝りする小学生の私に、わかっているなら何故怒られるのかと説いた母よ。23歳、何も変わることができていない私よ。


沈む花

1つ目は“沈む花”。力の抜けた煽りを聴いて。踊れる曲に暗い言葉。ヘッドホンを外して耳から音が離れていくのと同じように遠ざかってほしい、音楽の再生をボタンひとつで止められるようにやめてしまいたいこと。そんなことばかりだ。『攻殻機動隊』に電脳化していれば特定の思考回路を閉じられるような描写があった。私も電脳化したい。そういうことを思い出す。

私が止めたいのはネガティブな思考だけではない。イツエのこともそうだ。誰に頼まれたわけでもギャラが発生しているわけでもないのに、うんうん唸って苦しみながら8本もの記事を書いている。愛ゆえに。どうして誰も止めてくれなかったの? 冗談です。進んで沼に向かいがちな私、愛ばかり考えてしまう。ときどき自分でも暇なのか馬鹿なのかと思っている。いろいろな種類があるとはいえ、愛ほど考えても見返りが期待できないものはないでしょう。それがわかっているのに考えてしまう。理性はどこ。理性的に自らの思考を閉じられたら。ヘッドホンのように、音楽のように切ることができたら。

誰かは考えておいたほうがいいんじゃないかと自分を納得させる。どうしても考えてしまう私が代わりに考えておくね。君は必要だと思ったときだけ一緒に見つめてくれ。


冷たい春

2つ目は“冷たい春”、私が「イツエとわたしの青」で紹介する最後の曲です。ライブのアンコールで演奏することが多かった。どの音源にも収録されず、ライブでしか聴けない幻の曲みたいだったよね。サンクラに曲が載ったときは日常的に聴けることが嬉しくもあり、活休の裏付けのように感じられて悲しくもあった。もう活休は事実としてあったけど、本当だったんだってようやく受け入れたというか。ハッピーエンドだって思えたのはこのタイミングかも。

そうだね
臆病なわたしは君みたいになりたい
強くてどこか弱い君に なんてね
それが叶うならどんな隣人も
わたしは柔らかく受け入れる

いつしか表情を変える
あたたかい幸せが怖いの
このまま季節が続けばいい
このままでいいかな

曲の最初からサビ前までの歌詞。ここに私のどれだけが乗っていることか。曲に対して美しいと思うことはそうないが、これは美しい。昔からの曲。その頃のイツエのバランスで音が鳴っている。歌詞を見ることができないから推測で言葉を拾った。

"冷たい春"を聴くと、いつまでも強さと弱さを一緒に持っていられたらなと思う。弱さはまた別の弱さへの想像力となるから。想像力のある人は賢くて優しいよ。弱いだけではダメかもしれないけど、弱いまま強くなれた人であれば想像して、他人を受け入れられる。

後半部分は言葉通りの気持ちになることが多い。幸せの温度がちょうどよくぬるかったりなんかしたら、怖くてたまらない。どこにもいかないで。

だけど今日が過ぎていく
少し叫んでみる
わたしは変われるかな
少し泣いてみた

そのあとのサビで、私は少し泣く。変われるかな、いつもいつも自分に尋ねてきた。この記事を書き始めてから思っていたことなんだけど、正直、私は作られたものの中にある純度の高い気持ちを信じすぎなのではないか。それは歌や本の中でしか呼吸ができないものなのに、現実に適用しようとするから無理が出るのでは。愛、本当に伝わる?

純度の高い気持ちを持つことの重要性をイツエからも感じてきた。重要だと思ってしまったから、現実に持ち込んでいる。適用しづらく思えることをやってみた結果は、私の中にあるの。届かなかったものだってあったが、届いたものも確かにあった。イツエへの愛を真っ直ぐに話してみたら、メンバーにだけではなくイツエを最近知った人や聴いたことがなかった人にも届いている。

その試みに失敗したら痛いなんてものじゃない。怖いけど、それでもやる。作品に閉じ込められた純度の高い気持ちは当然ひと由来のものだ。歌から受け取った私が持っておくことも、伝えることだってできるはず。伝える先を見てやり方を変える必要はあるだろうね。疑問を持ったのに結論は変わらずじまい、現実に適用して息がしづらい。だが疑問に気づいて、伝え方を見直す私は以前と違う。私は変われたかな。変われたし、まだ変われる。

類は友を呼ぶのか、真っ直ぐな気持ちでいようとする人が近くに何人もいる。友人たちのためにも真っ直ぐな気持ちは届くと証明していきたい。言うことのサイズが大きいけど、そのまま持っていてほしい、彼女たちの素敵な部分を守りたい。大丈夫って言うのは簡単だ。でも君たちは大丈夫。私も大丈夫だったから。愛という言葉を盾に感情を振りかざす無責任さに怯えながらこれを書いている。怯えることができるようになったのも変われたところ?

ずっと大きい声で気持ち悪いことを言ってきたシリーズの最後にもそういうことを、さらに大きい声で言ってしまった。本当に持っている気持ちだということは事実だから残しておく。大きすぎる愛、ほとんど暴力である。ネガティブな側面も見つめて抱き締める。自分でも主張がぐらついたりぐるり周っていたりするのに気づいているが、そこを泥臭くやった先に私が変わりたい私がいるはず。もっと大人になるのが楽しみだね。生きてきた場所を思い出して、確かにする曲。

何度も言ってきた通り、イツエは夏をよく歌っているバンドだ。私が夏を好きなのはイツエのせいかもしれない。じりじりと肌を焼かれる季節が待ち遠しいの。そんなイツエが特別にとっておいたのはよりにもよって春の曲。冷たい春って多分、暦の上では春だけどまだ寒い季節のことじゃないかな。春の予感はあるんだけど、冬の風もまだ吹くような。あたたかい季節の一歩手前、3月。冷たい春に、私は生まれた。話の長さを見て。大事な曲です。


『ヘルツはそのままで 番外編』

『ヘルツはそのままで』というライブシリーズは前後編、『rama』『ark』の4公演と、活動休止前最後の2日間に『番外編』『ful』の2公演が行われた。どこまでが計画されていたことなのだろう。バンドの終わりとして美しすぎるし、イツエは確かにそういうバンドだった。HPを見ていたら行けなかった『rama』の対バンにきのこ帝国がいて気が動転、何故無理を押してでも行かなかったの? 頭がおかしいの? と自分を問い詰めています。きのこ帝国とイツエ……。

画像2

まず『番外編』の話。asobiusQaijff(現クアイフ)それでも世界が続くなら、イツエの対バンライブだった。セトリはブログからお借りして。"さよなら、まぼろし"でライブを始めるなんて卑怯だ。ラストライブへの心の準備をしすぎて、したのに予想がつかなくて、緊張でお腹を痛めながら電車に乗って向かったよね。そんなできたのかわからない準備が無意味になるほど予想を裏切る始まり方だった。「泣くかと思ったけど結局イツエのライブは楽しい」って言いながら帰ったのをよく覚えている。それがわかっている次の日もお腹は痛かったけど。ライブがいいバンドなんだよ、本当に。

アンコールを“生活”で終えたこのライブは、全曲が演奏されたライブに負けず劣らずお気に入り。でもね、"冷たい春"が入っていないの。2日間のうちこのライブしか見れなかった人のことを思うとちょっと切なかった。このときは“冷たい春”を聴く最後のチャンスだと思っていたから、私だったら悲しくて死ぬって思った。誰がどの曲をどれだけ好きかなんて私にはわからないのに。


『ヘルツはそのままで 最終章 -ful-』

画像3

本当の本当に最後の日。イツエのほぼ全曲が演奏された日。思い出したくてセットリストの順で曲を聴いてみた。あんまり聴けなくて、考え事ばかりしてしまう。現場でもずっとそうだったな。「お願いだから、なまものだから、集中して聴いてよ」と思っていたけど、集中するほどに思考も深くなっていく。こういうライブの見方をしたのはイツエだけ。

"ネモフィラ"で始まっているのもさることながら、こんなに早く"はじまりの呼吸"をぶつけられていることが非常にまずい。今も聴き直して食らっている。ライブで配られたフリーペーパーのvol.3で歌詞が少し解説されているのをさっき再発見した。私もCメロの歌詞とそこからサビに向かっていくイツエの音が大好き。あえて言いたい一番好きな曲。

ちょうどMCで前後を挟んで6~9曲目が『いくつもの絵』、15~18曲目がデモのブロックになっている。前者は一番好きなアルバム、後者はなかなかライブで聴けなかった曲たち、集めて演奏したら何かが致死量になってしまう。何かって何。“それはとても美しいのでした”もライブでしか聴けなかった。『ark』のときに歌詞を使って瑞葵さんが話すのを曲の前にしていたのと似ている。

じっとセトリを見つめていたら思い出した。MCでここからテンションを上げる的なことを言ったすぐあとの曲が“海へ還る”だったの。あとに続く曲たちは楽しげだけど、びっくりして笑っちゃった。

追体験してほしいのは、MC明けの"冷たい春"と“さよなら、まぼろし”の2曲。どちらもSoundCloudにこの日のライブ音源があります。すごい曲を並べたよねえ。また少し話して"グッドナイト"、イツエの活動休止は眠りについたみたいに静かだったと思い出している。馬場さんがMCでメンバーがまた出てきてくれる、やるのはきっとこの曲、とわかっているアンコールを残すより、余さず最高のセットリストをやり切りたいと話していた。その姿勢が私にはたまらない。最後に選ばれたのは“名前のない花束”。真っ直ぐなものは真っ直ぐなまま、重たいものは重たいまま伝えて。この曲で終えることの意味は大きい。

最後の曲あたりだったかな。突然イツエがもう見られないと自覚して、信じられないほど泣いた。ライブが終わってもしばらく泣き止めなくて、ボロボロの状態でようやくイツエを見れた友人と会ってしまったね。君が一度でもライブを経験できたことが嬉しい。最後にこの日のチケットにメンバー全員からサインをもらった。以来ずっと部屋の壁、すぐそこに貼ってある。イツエがライブをしない世界では生きていけないと本気で思ったけど、生き延びてるよ。



イツエとわたしの青

イツエの活動休止が発表されたとき、メンバーそれぞれのコメントも掲載された。HPのNEWSから読むことができます。この久慈さんのコメントを読むと、いついかなるときでも泣いてしまう。今も読んできた。つまり泣いている。言葉を綴ってきた2人の方法も、言葉少なに音だけで伝えてきた2人の方法も、伝達手段として正しい。伝わっている。やり方はいろいろあるね。

私がこれから考えていくべきことだとも思っているのです。伝え方はたくさんあるが、伝えようとせずに伝わることはない。察してほしいなんて思っていたらどれだけのことを逃してしまうだろう。それと、私に愛される人が幸せであってほしいと思うのは変わらず。いっそうやっていくのは、私を愛してくれる人が私を愛することによって少しでも幸せになれるように。

私が思考する過程で最も大事なのは「何をどの順序で考えるか」を考える段階にある。そこで考えた道筋を辿ればするすると結び目が解けていくように答えが出る。どういうことが脳内で起きているのかわかるようでわからないが、そういう感覚がある。

このツイートのことも「どうやって考えていくか」を考えていたとき、「イツエのわたしの青」を読み直すことがそれに当たると気づいた。イツエを最初から聴くことは愛の取り組み方を見直すことにあたり、この文章たちを読むことはなおさらである。その先にどういった結論があるのかさっぱりわからなかったが、とにかく読むことにした。道筋は正しかった。

出先で時間ができたとき、最終回をそろそろ書かねばとシリーズを最初から読み直して涙を堪えていた。自分の文章なのに。自分の文章だから。特に気持ちを凝縮した言葉たち。イツエが好きすぎるのと、好きな人のことが好きすぎるのと。「私に愛されると厄介だろうなあ」と他人事のように思う。これだけ無責任に重たい気持ちで話しているけど、ベースはこれだけど、実生活では希釈して渡すから安心してほしい。


夏の終わりと共に、イツエがいた私の青い日々のことをようやく話し終えます。さみしいけど、少しほっとしている。終わりがあるということは救いでもあるんだ。後悔はただひとつ、活動中に書けなかったこと。文章を書くことなんて思いつきもしなかった頃に彼らを見ていた。もう仕方のないことだね、あれもこれも。イツエはずっと聴き続けるけど、誰にも話さずにいたら死んだときに成仏できなさそうだから書き残してきた。

ここを読んでくれている人はイツエをすごくすごく好きな人だと思う。きっと私と同じくなかなか話せる人がいないんじゃないかな。いつでも、どんな手段でもいいから話しかけてね。君の好きなイツエを私にも聞かせて。私はずっとイツエを好きな私のままでここにいます。

このシリーズほど私の気持ちをそのまま話した文章はありません。本来は苦手な作業だ。私と会ったことのない人、イツエを知らなかった人、ずっとイツエを見てきた人、たくさん届いた気がする。人数ではなく、重たいものを重たいまま伝えることができた気がしているのだ。読んだよって教えてくれた人も会いに来てくれた人もいた。本当にありがとう。一生をかけても忘れられないと思う。これだけイツエを愛していることで、私の愛が長持ちすることは証明できるでしょ?

彼らの音楽は永遠に残るし、私の文章も永遠に残る。イツエが私の人生にいてくれれば何度だって許して、愛せる。出会ってくれてありがとう。君を愛してるよ。何か、誰かを本気で愛した記憶は大事にして。おやすみ、またね。

画像4

イツエ

公式サイトTwitterYouTubeSoundCloud


珈琲を飲みに行きます