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日々是レファレンス 美術館喫茶室ニホ(とその閉店)とゲルハルト・リヒター

 福井県立美術館の隣に「美術館喫茶室ニホ」という喫茶店があった。2024年3月24日に惜しまれつつ閉店。美術館の隣(というより棟続き)にありながら、いわゆるミュージアムカフェとは少し雰囲気を異にする。たくさんの本や雑誌(とくに季刊誌『銀花』のバックナンバーは貴重なものではないかと思っている)や画集や図録が置いてあって、最初は美術館の帰りに寄ることが多かったが、そのうち美術館に関係なく訪れるようになった。他の常連客もどうやらそんな感じのようだ。

 ある日訪れた時、帰り際にゲルハルト・リヒターの画集が2冊届いたと店主から自慢される。なんで帰り際に言うねんそんなん見たいに決まっとるやないかと後ろ髪を引かれつつ帰り、気になってしょうがないので後日また訪れた。

 1冊は ”ATLAS”。分厚い。とても分厚い。見るだけでお腹いっぱいになる。

 もう1冊は ”Gerhard Richter: Painting in the Nineties”。リヒターの、とくに90年代のアブストラクトペインティングと呼ばれる作品群をクローズアップしたもので、これにピーター・ジダル(Peter Gidal;イギリスの映像作家らしい)という人のエッセイがついている。

Gerhard Richter: Painting in the Nineties
とパフェ(何のパフェだったかは忘れた)
とコーヒー

 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』の引用からはじまるそのエッセイは、リヒターのアブストラクトペインティングの鑑賞のしかたに大きな示唆(視差?)を与えるものだった。
 リヒターの90年代のアブストラクトペインティングは多層的に描かれているものが多く、それまで前景だと思っていたものが後景に引っ込んだり、鑑賞者の意識のありようによってめまぐるしく変化する。

リヒターのアブストラクトペインティングたち
(豊田市美術館のリヒター展より)

 対象のありようは鑑賞者の主観に制約される。僕は僕の主観のフィルタを通してしか対象を見ることができず、僕が見ていると思っている物はその「物自体」ではない。僕が見ている物は、僕が見たいと思っているものに過ぎない。「物自体」の認識は不可能であるというカントの認識論に端を発し、スピノザやジャック・デリダが引用され、「異化」や「脱構築」などといった言葉の散りばめられたこのエッセイは、大学生のときの政治思想史の講義を思い起こさせた。

 その講義は2年1クールで、ある年は古代ギリシャ哲学からデカルトあたりまで、次の年はカントからヘーゲル、ハイデガー、実存主義、ポストモダンに至るまでを扱うといった構成であった。とにかく話のうまい先生で、講義の出席率の悪いうちの大学(そして大学側も出席率の悪さをなんとも思っていない)にあって異色の人気講義だった。その最終章近く、ポストモダンのあたり。ポストモダンの言説というものは「〇〇が存在する/しない(〇〇が存在するかつ〇〇が存在しない)」などといったものが多く、それが「脱構築」だとか言われてもそんなのただの言葉遊びじゃないのかとしか当時の僕には思えなかった。概念として戯れ面白がることはあっても、実感することはない思想。

 だと思っていたのだが。
 リヒターのアブストラクトペインティングを鑑賞する。現れては消えるモチーフや形象。巧妙に隠されていると思えばいきなり顔を出す。これはまさしく「存在する/しない」ということではないのか。うーんポストモダンってこういうことだったのか(たぶん違うけど)。20年以上前の記憶と結合する現在の体験に嬉しくなる。
 しかしその一方で、見ている対象は自らの意志のフィルタによって変化する。リヒターは問いかけている。「お前の見ている物は、本当にお前の見ているものなのか?」と。揺さぶられるような体験だ。

 ニホはそんな刺激的なレファレンスに満ちあふれた場所だった。カウンターに座って、苔に覆われた緑の庭と、その庭に置かれた五十嵐彰雄さんの円環の作品(《重力》というタイトルがついている)を眺めながら本を読んだり文章を書いたりする時間が好きだった。

ニホの庭と五十嵐彰雄《重力》

 キッチン側の「常連席」に座って店主と会話を交わすのが好きだった。

「常連席」から眺めるニホの庭

 ニホは書籍が多いこともさることながら、クリエイティブな人が多く訪れる場でもあり、そういった人々との出会いにも刺激を受ける。ただもうその庭はなく、五十嵐さんの円環も次の行き先が福井新聞社の庭に決まった。水ようかんパフェも、マシュマロがたくさんのったココアも、もうない。

水ようかんパフェ
マシュマロののったココア
イチジクとレーズンのクリームチーズトースト
とサラダ記念日とマシュマロののったココア

 残念と思うがさにあらず。店主は次の一手として1年前からギャラリーを開設している。名付けて「夕方画廊 分室ニホ」。会期中は15時から20時まで空いているので、夕方画廊。美術館喫茶室(だった場所)から歩いて5分もかからない。

「ニホ」はつづいてゆく。

「ニホ」はつづいてゆく

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