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人としての日常会話


私は私を愛しすぎている…妙にこの言葉が響いております…2022年睦月1月今日この頃。

これを、息子は単に我が強くて自分が捨てられない可哀想な人と私のことを言う。

「あなたの会話は、いつも前向きのように見えるけど、プレゼンでしかない。こうしたらいいとか、あーしたらいいとかって、前向きのようだけど、それは、ビジネスのプレゼンでしかないんだよ。」

「もっと人としての日常会話をしようよ」と言われる。

息子は、よく私に言う(訴える💦)

寄り添うって言葉しってる?

結果じゃなくて、過程の方が大事でしょ。
たとえ結果が失敗だとしても…そこに、話し合って納得した過程があるのだから、それで満足なんだよ。もちろん結果がいい方がいいに決まっているけど、それは、あくまでも過程があっての結果で、そこまでの道のりに意味があるのに、どうして、結果だけを見ているのだろうね。

話し合いを分かり合えないからと言って、妥協点を見出したり、どちらかが諦めたりするのは違うと思うよ。

平行線の話を同じテーブルの上に並べて話をすることに意味があって、相手を思う気持ちが大事だと言う息子に、結果が大事だと言う昭和の母💦
息子から学ぶことが多いのは、事実です。そして、息子は、あきらめない…

話は延々と平行線(3時間コースは、ざらにある😫)

分かり合えないからと諦めて、面倒だからと無意識に話をスライドすることで、回避するのはやめようと言われる。

無意識に回避している私は、連れ戻される。
もう夜更けだからと言っても寝かしてもらえない。そして、たいがいは、私がブチギレて、話し合いは終了。そして次回、また一からやり直し。

そして同じ話を同じ会話の中で何度もする←これをループという。

問題が起こると(事象は違っても)いつもの続きから始まって、分かり合えないループを何度もして、最後は、時間切れ…そして後日、また、一から始まる。何度繰り返したのだろうか…

よく、根気よく付き合い続ける息子
よく、性懲りも無く逃げ続ける母親(無自覚)

無自覚に棚上げにしようとする私が、わかりあえないという前提で話し合いに挑むから、いつまでもループする。

なぜ、分かり合えないと言う前提なのかと…初めて見つめてみた。

無自覚な自分を自覚すると決めたら、毎日が鍛錬の場になっております。

息子の言わんとすることが、わかりつつある最近、少しは母も成長したかなあ〜。

次回は、なぜ分かり合えないという前提を作っているのかを、紐解いていこうかと思います。

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