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シャトルランと顕示欲

私はシャトルランが大好きな小学生だった。
それは、「自己顕示欲を爆発できるからだ。」ということに最近気づいた。

幼稚園児の頃から、Eテレに出ている当時の同級生くらいの子を見て、自分もテレビに出たくて仕方がなかった。とにかく目立ちたい!と思っていた。

しかし、自分は小学生の頃から「根暗」で「鬼隠キャ」だった。
授業中に正解がわかっていても、意見をしたくても、机の下で小さく手を上げているタイプの生徒だ。


更に昼休みになると、ひたすら図書室にこもって本を読み、小学校6年間連続で学年で一番本を借りていた人に贈られる「多読賞」を受賞していた。

そんな私が顕示欲を爆発させられる唯一の場所、それが体力テストの一環で行われる「シャトルラン」だったのだ。

20mシャトルランとは?
ドレミファソラシドの音が終わるまで、20mを走り切る。段々と音が速くなっていき、ドレミファソラシドに間に合わないことが2回続いたら脱落。1.2.3…と回数で記録を数える。
この種目では持久力が必要だ。

シャトルランは、とにかくキツい。
持久走大会みたいにみんなヒィヒィ言いながら取り組む。
体力テストの中でもシャトルランが一番嫌い。という人も多いだろう。

だが、その苦しさこそが顕示欲を爆発させるいい材料になっている。
苦しいからこそ残っている人を心から尊敬し、応援できる。

最後の一人、二人、となると、みんな大声を張り上げて、お腹から声をだし「がんばれー!がんばれー!」と応援してくれる。

私のキツそうな顔を見て、普段ほとんど話さない人までこちらに注目してくれるのだ。
クラスの全員の目が自分だけに向いている。
「え?井上が残ってる?井上ってあんなに走れるの?」ヒソヒソとそんな声が聞こえた時の快感と言ったら。脳汁が溢れ出す。

「キツい。けど、みんなが自分のことを見てくれている。今こそ自分を発揮できる。一回でも多く走ってみてもらうんだ。英雄になるんだ。」
本気でこんな感じだったから結構イタイやつだ。

そう、私はイタイやつなのだ。

英雄気分の私は、必要以上にキツい顔をしたくなってしまう。

今にも倒れそうなくらい体力をしぼりにしぼって、とうとう、脱落…!

「あ〜!!!!!!」とクラスのみんなの悲鳴にも近い声を聞きながら、体育館の床に倒れ込む。

記録は100回を超えていた。

拍手喝采に包まれ、みんなが駆け寄ってくる。
「すごいね!さくらさんってそんなに体力あったんだ!」
「井上!まじすげーーーー!」

決して自分ではすごいと思ってないし、あえてサラッとしておくことでかっこよさもでると思ってこんな反応をしていた。

「ううううううううん。そそそそそんなことないよ。」

こうしてまた、一年後のシャトルランまで、私はただの読書好きの鬼陰キャに戻るのだった。


目立つだけなら、そんなにキツい種目でなくてもいいのでは?と思う方も多いだろう。それは違う。

シャトルラン以外の競技は、誰がどのくらいの記録だったか?あまり分からずに終わってしまう。
例えば、上体起こし(腹筋運動)も得意だったので、自宅で猛烈に練習した。
30秒で35回はできるようになっていた。

だが、クラスの女子で1.2番を争う記録だったとしても、みんな誰が何回だったかなんていちいち把握していない。

結果、あまり目立てなかった。

走り高跳びはどうか?
たしかに高さが上がっていくにつれ、脱落者が増えて残った人だけが、飛ぶことになる。

脱落形式としては、シャトルランと一緒だ。
しかし、私の学校では、時間短縮のため、走り幅跳びと同時並行して行われることが多く全員の脚光は浴びられなかった。

また、自分が脱落すると友達と話し始めてしまう人も多い。
「すげーなあいつ。まあ自分は背低いし、足短いから。」くらいのなんとなくで見ている人が多かったような気がする。
そもそも得意ではなかったが。

となると、シンプルで自分の持久力と根性だけで戦うシャトルランは、努力次第でどうにでもなる。
顕示欲を爆発させるには最適なのだ。

学校が終わると、ウォーキングをする母と一緒に運動公園に行き、トラックを走ってシャトルランの自主練習をしていた。

一年に一度の自分の大舞台に向けた一大イベントの為に。

結果、本当に持久力がついて、マラソンも速くなった。

小学校の持久走大会では、ガンガン走るトレーニングをしているバレーボール部より速く走ってしまうため、バレー部に「顧問に怒られるからお願いだから抜かないでくれ。」と女子トイレで懇願された。

中学校では駅伝の選抜メンバーに選ばれ、陸上大会ではいつも長距離競技を走っていた。

きっかけは、目立ちたいけど殻を破りきれず、キラキラした子たちのように自然に振る舞えない自分が、なんとしてでも目立ちたいと思っての必至の策だったが、今は趣味のひとつになり仕事にもなっている。

そして、あの頃の顕示欲は今でも健在している。

だから、「収録でこんな話したら笑ってもらえるだろうか。あんなことしたら面白いだろうか。」と、走りながらニマニマ考える。

本当は目立ちたくて仕方ないから妄想ではやりたい放題やって、それは間違いなく面白いんだけど。

結果、どうしても何を求められているのかを探してしまい、勇気がなくて実践できない。

私はこれをどこで発揮できるのだろうか?

いや、これでいいのかもしれない。
我に帰ればいつだって才能に押し潰されそうな世界にいて、自分を騙し騙し生きている。

「井上咲楽、面白くない。ゴリ押しされているだけだ。つまらない。」

うん。だってまだ私の妄想の中を出し切ってないもん。

どんなに叩かれても、滑っても、この妄想だけが自己肯定感の最後のとりでとなっているのかもしれない。

今日も私は本番ではなく、妄想ランをしているときが1番調子がいいのだった。