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「田上明自伝」

「田上明自伝」(竹書房)

90年代に全日本プロレスで極限的な試合を連発し、2000年に三沢光晴が作ったNOAHに移籍後も重鎮として活躍、三沢が不慮の事故で亡くなってからはNOAHの社長を務め、現在はプロレス界から一線を引いて茨城県つくば市でステーキ居酒屋「チャンプ」を経営する田上明が半生を語る。

プロレス本というのは不思議なジャンルで、渕正信とかケンドーナガサキとか、一般的にはあまり知名度のない「あなたが本出すの?」と思ってしまうくらいマニアックな選手の本が出る。
しかしこれがたいがい面白い。
今まで専門メディアであまり語られなかった知られざるエピソードが書籍ではいろいろ出てくるし、プロレスの世界で起きた大きな出来事や著名な人物について、近くにいた人間だから言える話が出てくる。
そういった「歴史の証言者」の話があると、これまでも多く伝えられてきた人物や出来事へ新しい視座が開ける。
それがいいのだ。

そんなわけで「四天王」の中では一番スター感のなかった田上の自伝、やはり面白かった。

高校生でバイク通学してたり、1vs13の大喧嘩とかやんちゃしてたり、一方で年下の彼女と仲良くやってたりといった70年代グラフティな青春時代。
暴力と理不尽に耐えながら十両に上がり、いよいよ幕内というところでついに理不尽に耐えきれなくなって辞めた相撲時代を経てのプロレス転向はすでに結婚してたこともあり(関取はモテるそうです)「好きというより仕事として」の側面が強かったそう。

田上が全日本プロレスに入門したのは1986年で、当時国内のプロレス団体は新日本と全日本しかなく、「プロレスラー」は限られた人間しかなれないものでした。
逆にいえばプロレスラーになれてしまえば食べるのに困るということもなく、団体が増えて入門の敷居が下がり、その代わり「普段別の仕事をしながら試合の時だけリングに上がる」選手が増えた現在とはまるで違った環境だったと言えます。
よくも悪くも特別な職業でした。

そうやってジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入団した田上ですが、それまでずっとやってきた相撲とプロレスの違い
(「相撲は倒れたら終わり、プロレスは倒れるのは一過程」「相撲は感情を表情やアクションで表すのは厳禁だが、プロレスはむしろ表情やアクションで表せと言われる」など)
にデビュー当初は苦労します。
相撲でまあまあのところまで行ったキャリアに、恵まれた体格もあって早くから期待された田上ですがデビューしてから3年くらいの間はなかなか芽が出ませんでした。
体格は大きいのに動きに自信がなく、モタモタした感じになって、よく観客から野次られていました。
当時の全日本でトップだった天龍は相撲出身で、自分と同じように相撲から転向してきた田上や高木功のことをことさら気にかけていたフシがあり、試合で二人には結構ガンガンいってました。
それは「やり返してこい」という、レスラーとしてポジションを上げるために自分(天龍)を使えというメッセージだったのですが、当時の田上には「天龍さんは当たりが強くて参るよ」というそのままの部分でしか受け取められておらず、シリーズの対戦カードが発表されると天龍と当たる回数を数えて憂鬱になっていたそう。

天龍はデビュー当初から田上を食事に連れ出したり面倒を見てたようですが、天龍の食事=酒であって、時代が時代なのでやたら飲まされたり、巡業先のホテルで寝てると夜中に天龍が若手とともに部屋に入ってきて寝ている田上をベッドごとひっくり返すイタズラをしてきたり(当時は同行者が部屋のカギ借りれたらしい)とか、よくも悪くも「かわいがられて」いたみたいです。
1990年春に天龍が全日本を退団、新興団体SWSに参加したことで二人の縁は切れるわけですが、田上は「ホッとした」と。
他にも多くの選手が退団し、全日本プロレスは存続危機を迎えるわけですが田上的には「年上の人たちが減って同年代で回すようになって、やりやすくなった」と回想します。
もっとも選手がいなくなったことで田上はエースのジャンボ鶴田のパートナーに抜擢され、ハンセンやテリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムズといった当時のトップ外国人選手と連日当たるようになり、精神的な負担が減った代わりに肉体的な負担は増えてしまったよう。
なお田上はテリー・ゴディを高く評価してました。

それから四天王時代、三沢光晴退団・ノア設立、ノアでの日々…と話は続いていきますが、プレイヤーとして最前線にいた時の話はわりと巷間伝えられてるものが多いので割愛します。

この本の濃さがグッと増すのは2009年に三沢が不慮の事故で亡くなり、社内政争に押し出されるような形で自分がノアの社長に就任してから。
結果的にはひたすら下がっていく団体の舵取りを任されます。
三沢社長時代から決まっていた日本テレビの打ち切りに加えてベテラン選手のリストラ、日本武道館からの撤退…と退却戦略を迫られた田上社長。
「でも三沢も経営はうとかったよ」とアンタッチャブルなことを呑気に語ります。
代表になってみると、会社にお金がなくなっていき、調べると借り入れしてそのままになってる人間が何人もいる。
そういった人たちに返済期日や方法を迫り、売ったチケット代を会社に入れなかったフロントには会社に入れさせるようにした。
それでようやく集金した分は払うようになったけど、過去の未精算分の売り掛けは払わない。
「会社として破綻していた」と言います。
 
その後もNOAHは中心選手の引退、退団が相継ぎ、田上社長は苦しむことになります。
取締役の仲田龍と永源遥の二人に暴力団との「黒い交際」問題が雑誌に出たり、一時は「やる気、元気、モリシ」でエースぽいポジションになった森嶋が欠場、引退する・しないでお騒がせの末に退団したり、リング上はは鈴木軍に制圧されたりで混迷。

そして2016年末にノアは事業をエストビー㈱に譲渡し、㈱プロレスリングノアは四億円の負債総額を抱えて破産、という顛末を迎えてしまいます。

代表取締役の田上も債務返済の責を負うことになり、現金や家、車といった個人資産をすべて没収されてしまったそう。
幸い奥さんが飲食店をやっていたので生活はできたものの、自己破産になった田上自身は配送のアルバイトをしたりしていた。

そして奥さんの店をリニューアル、松永光弘に肉を焼く仕事を教わって「ステーキ居酒屋チャンプ」をオープン。
そこで開店前までは肉の仕込みをして、開店後はカウンターでお客さんと飲みながら話をする生活に落ち着き、現在に至る…という流れ。

こうして振り返ってみると田上という人は「プロレスが好きで」始めたわけでもなければ「社長になりたくて」なったわけでもない、流されるまま流されてプロレス界を長年渡ってきた、不思議な人であるように思います。
フィジカルは強かったんだと思うが、上昇思考とか自分がエースに!みたいな欲は薄く、それが損したところでもあり、愛されたところでもありました。

朴訥とした語りの中に「えっ!?」という話が混じるダイナミックTトークが堪能できる一冊です。

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