北尾光司とパシフィコ横浜


北尾光司が亡くなった。
いや、「亡くなっていた」と過去形で報道された。
大相撲のトップである横綱まで登りつめ、部屋のおかみさんと揉めて廃業、「スポーツ冒険家」という謎の職業を経てプロレス入りし、東京ドームで鮮烈なデビュー…のはずがホーガンの物真似のような形で入ったことでファンの不評を買い、長州力と自身の扱いを巡って口論となり人種差別発言をして首になり、拾ってもらった天龍のSWSで「八百長野郎」と発言したのをきっかけに首になり、消息不明だったところを「空拳道」という謎の空手を習得してUインターのリングに上がりトップヒールとなるも高田延彦に敗戦したのを機にまたフェードアウト、今度は「北尾道場」という空手塾の塾長として天龍のWARに参戦、天龍をKOに追い込んでみたり記念試合でリベンジを果たされたり、まあまあいい活躍をようやく安定してするようになったところでまさかのUFC参戦、惜敗、その後もちょいちょい総合格闘技に出たりプロレスやったりしたものの98年のPRIDE4で突如引退した、あの北尾光司が亡くなった。55歳だったという。

北尾はその経歴から悪いイメージが先行するが、後年WARに参戦していた時代は言われるほど悪くない気がした。
試合内容も人間性も。
むしろ自分についてきた北尾道場の若手(望月成晃や岡村隆史)、さらにはWARのために粉骨砕身して試合をしていた印象がある。

フリーター時代に就活に煮詰まった友達を元気出させようと、なぜかパシフィコ横浜でやってたWARを見に行ったことがある。
小さい会場だったからか試合前に北尾が会場入口付近を普通に歩いていて、「北尾さん!握手してください!」と声をかけるとこちらをチラッと見て無言で握手してくれた。
近くで見ると北尾は掌も身体もデカかった。

その日のメインは「天龍、北尾vs平井伸和、グレート・センセイ(畠中宏旭)」というタッグマッチだった。
その頃、平井とセンセイこと畠中がWARの上の世代に噛みつくような言動をしていて組まれた試合だったけど、あまりにチーム力に差がありすぎて勝負になっていなかった。
天龍は平井をもう少し日の目の当たるレスラーにしたかったんだろうが、なかなか難しかった。
それまで「天龍のライバル」的ポジションだった北尾がこの試合では天龍をサポートするタッグパートナーに徹していたのが印象的だった。

プロレスマスコミの高木圭介氏によると、北尾が「思い出の試合は?」と聞かれ答えたのはWAR時代に地方大会でよく組まれた冬木軍(冬木弘道、邪道、外道)との6人タッグだったという。
その3人との試合は「勉強になった」と言う。
しかし北尾はその直後の98年10月のPRIDE4東京ドーム大会で引退してしまう。
辞める直前にプロレスを学ぶ、そのタイミングの悪さに思いが行ってしまう。

引退以降の北尾は「立浪部屋のアドバイザーになった」というニュースが一瞬出た以外、ほとんど動向がわからなかった。
近年は闘病中だったという。

北尾の生き方は正解とも栄光ともかけ離れていく人生だった。
でも嫌いではなかった。
どこか自分にも「北尾的」な、「きっとこうした方がうまくいくのに」という指針を投げ捨てたくなる気持ちがあって、実際にそうやって生きた北尾のことに否定したくない気持ちがあるのだと思う。

就活に悩んでた彼はその後住宅メーカーに就職し、おそらくは嫌なことやキツいこともいろいろあっただろうが、とりあえずは今も元気でやっている。
私と一緒に北尾と握手したことは覚えているだろうか。
彼が今の環境で周りにいる人たちへ「北尾、そんなに悪くなかったけどなー」と言ってくれることを、そういうことを言ってくれる人が一人でも多くいてくれることを願ってやまない。

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