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「なぜ屋台村から東京ドームに辿り着けたのか?プロレス現地採用~VIVA LA VIDA~」NOSAWA論外(徳間書店)


プロレスは花形商売であり、リングの中心で輝くスターが生まれることで多くの集客につなげることができます。
これまで数々の人気選手にわれわれプロレスファンは魅了されてきました。

しかしプロレスは一人ではできない競技です。
必ず相手役になる選手、脇でスターを支える選手が存在して成り立ちます。
そうするとスター本人が自分の目線で見ていた世界と、その近くにいた脇役が横目でスターと客席を両方を見ていた世界は同じものであっても見え方が違っていたりします。
ともすれば、脇で見ていた人の方がスター本人よりもいろんなことを語れる、ということは往々にしてあります。

なので2000年代から近年に至るまで名バイプレーヤーとして存在した、NOSAWA論外の本は非常に楽しみにしていました。

この自伝は論外が年代順に自身の活動や試合を語っていき、その話の流れで
「そういえば健介さんといえば~」
「この頃から高山さんと組むんだけど、こんなことがあって~」
みたいな余話、秘話をいろいろ挟んでいく構成。

NOSAWA論外、本名野沢一茂は1976年千葉県市川市出身。
もともとサッカー少年で、プロレスは土曜日の練習後に家に帰ってやっていれば見るぐらいだった。
高校生のときにチケットをもらい、地元千葉で初めてプロレス観戦をする。
団体はFMWで、このとき後に自身が深く関わることになる大仁田厚が出てたけどそのときは特に何も思わなかったそう。それよりも場外乱闘のときにリングに近寄ってロープに触ってたら「触るんじゃねえ!」とシャーク土屋に後ろからラリアットを食らったことの方が印象深いそうです。いろいろ今じゃ考えられない。

その後、友達と後楽園(遊園地の方)に遊びにいき、駅の近くを歩いてたらダフ屋から「お兄ちゃんプロレスのチケット1000円でいいから買わない?」と声をかけられ、それで見たのがPWC。
そこで見た高野拳磁に衝撃を受け、サッカー少年だった野沢の心は一気にプロレス、というか高野拳磁に傾きます。

しかし90年代にまだインターネットはなく、PWCの連絡先もわからず、どうやったら拳磁の団体に入れるかわからない。
いろいろ探してたどりついて入ったのがユニオンプロレス。
今の感覚だと「なんで!そこ違う団体!!」と突っ込みたくなりますが、当時は情報源が週プロかゴングくらいしかなく、まして高野拳磁の情報なんてほとんど出てなかった。
それを思えば、「一度どこかに入ってしまえば、どうにか拳磁さんまでたどりつけるだろう」と考えて一歩を踏み出した野沢少年の行動力を褒めたいところ。
実際、野沢はユニオンから屋台村プロレスに移り、さらに人を介してPWCにいた森谷俊之さんを紹介してもらい、憧れの拳磁にたどりつくのですから。

こうして野沢少年は遠回りしながら憧れの拳磁の弟子になり、1995年12月にPWCで正式デビュー。
ようやくプロレスラーとしての一歩を踏み出しますが、まもなくPWCは拳磁と他の選手たちの間で諍いが起こり、活動休止。
野沢は「プロレスを続けたい」という思いから、拳磁と別れて他の選手たちとプロレスを継続していく道を探ります。
鶴見五郎のIWA格闘志塾でマミーやデモニオの中の人をやったり、PWCで一緒だった木村浩一郎やホッパー・キングの練習や手伝いをしていた野沢ですが、この状態ではプロレスを続けるのは難しいと考え、屋台村プロレスとPWCで一緒だった高木三四郎さんに「俺たちで団体作りましょうよ!」と持ちかけます。
金銭トラブルですっかりプロレスへの意欲をなくしていた高木さんでしたが、野沢の訴えに心動かされ、PWCの若手選手だけで団体を作ることになります。
それがDDT。
ただでさえ客入りが悪かった(から立ち行かなかった)PWCの、それも若手選手3人だけで団体を立ち上げる。
当時の空気感を思えば無茶を通り越して無謀というか、「絶対うまくいくわけないだろう…」だったと思うんですが、そんな団体がその後どうなったかはみなさんご承知の通りです。
振り返ると本当に「ドラマチックドリーム」なんですよね。

話を野沢に戻すと、DDTという足場を得て再びプロレスができるようになった野沢ですが、次第にDDTの方向性に違和感を持つようになります。
というのは当時のDDTというのは若手選手三人が総合格闘技でまあまあのキャリアを持つベテラン選手にぶつかっていく、ハードヒットな格闘路線だったからです。
当時揃えられた陣容で出せるメニューがそれしかなかった…というのが現実ですが、野沢は毎回メインで木村浩一郎扮するスーパー宇宙パワーや、ホッパー・キング改め仮面シューター・スーパーライダーにボコボコにされます。
若手のトップとして据えられてた野沢ですがキャリアは実質1年くらいしかなく、それで「メインイベント」に駆り出され、毎回ボコボコにされるのだからだんだん嫌になってきます。
野沢は高野拳磁の魅力でプロレスに入っただけで、決して格闘スタイルをやりたかったわけではなかった。
その前のPWC時代にメキシコから来ていた選手とやったルチャリブレが充実していたのもあり、言い出しっぺでありながら野沢は一年半ほどでDDTを抜けます。
当時高木さんは野沢をいずれDDTのエースにして成長させていく未来予想図を思い描いていたので、団体運営に関して大きな軌道修正を強いられることになりました。
そのタイミングで高木さんはファンから差し入れされたビデオで見たWWEの映像を使った試合中継に衝撃を受け、そこから一気にDDTをエンターテイメントスタイルに移行していきます。
野沢はそこに関して後から知って「三四郎さん、ズルいなー(笑)」と書いてますが、野沢が辞めたからこそ一気に方針が転換したわけで、歴史の綾ですね。

DDTを退団した野沢は単身メキシコに渡ります。
メキシコで知り合いの選手を頼って試合を組んでもらい、大きな団体から小さな大会まで出られる試合はなんでも出た。
リングに野良犬が入ってくる野外興行だったり、断崖絶壁みたいなところにリングが組まれていたり、ギャラが出ない代わりに食事がふるまわれたり、そんな興行にも出て試合をしては、一泊350円ほどのドミトリーに寝泊まりする生活。
そこで同じようにメキシコに来ていた日本人若手プロレスラーとの交流が生まれます。
ドミトリーの管理人だったツバサ。以前ドミトリーにいたというハヤブサやTAJIRI。闘龍門ジャパンの初期メンバー。
そしてツバサが大阪プロレスに呼ばれて日本に戻ることになって、入れ替わりのようなタイミングでドミトリーにやってきたのが正田和彦、後のMAZADAだった。
当初、MAZADAとは「日本人選手枠」を巡るライバルだったため、そんなに仲良くなかったそう。
あるとき、試合のなかったNOSAWAが出先からドミトリーに帰ってくると、試合して帰ってきていたMAZADAがキッチンで肉を焼いている。
部屋で食べられたら嫌だなあ、と思ってると「どうぞ!」とMAZADAが焼いた肉を渡してくれ、それをきっかけに急速に話すようになり、二人でコンビも組むようになった。
そしてNOSAWAが菊澤光信(のちの菊タロー)と結成した「東京愚連隊」に、MAZADAも入ることになります。
(途中2ヶ月だけ藤田ミノルも参加)

このあたりからNOSAWAとMAZADAはメキシコ、アメリカ、日本と国境をまたにかけてあちこちの団体に出るようになります。
最終的にNOSAWAは日本人で初のCMLLのチャンピオンになり、アレナメヒコのメインにも出るような選手になっていく。
そしてメキシコでトップになった彼らは、次第に日本を主戦場にしていくわけですが…ここからは本で読んでください。
いろんな団体に出て、いろんな人と絡む話が引退まで続きます。
その中でも2000年代に出ていた武藤全日本でのキャリアが大きかったようです。

論外は日本ではビッグマッチのメイン張ったり、大きなチャンピオンシップを獲ったりとかはなかったですがかなりの売れっ子で、常にどこかの団体に呼ばれていました。
全日本、新日本、NOAHにドラゴンゲート。古巣のDDTにも上がるし、各インディ団体、さらには日本のスケジュールを調整しながらメキシコCMLL、AAA、アメリカTNA、世界各地の団体に出ています。
それはとりもなおさず論外が「仕事のできるレスラー」であったことの証明で、のちに全日本で隠れた名物カードになっていた曙から「俺とNOSAWAさんのシングルだったら世界を回れるよ」と言われたり、いろんなレジェンド選手が「論外となら」と対戦を受託してくれる話が出てきます。
やりやすかったのではないでしょうか。

論外は数多くの選手との人脈を持っています。
自分の興行にミル・マスカラスやテリー・ファンクを呼んだり、大仁田厚や武藤敬司に可愛がられたり、スキャンダルを起こしながらそのたびにいろんな団体や選手から支援されたり、敵対関係にある2つの団体に交互に出たり。

これは大前提としてNOSAWAの本人の要領のよさ、コミュニケーション能力の高さがあったからなのでしょうけど、やはりそこには「プロレス技術の高さが評価されていた」というのがあった気がします。
全日本に最初に出たときに「おまえらのやってることはプロレスじゃねえ!」と激昂した和田京平さんが、そこから全日本流のスタイルも取り入れようとし、「ご飯行きましょうよ」と物怖じせず言ってくる論外にだんだん心許してきて、果ては論外たちがトラブったときに味方してくれたりしてます。
天性の人たらしなんじゃないでしょうか。
ちょいちょい挟まれる女性とのモテエピソードも「仕事ができて、コミュニケーション能力が高く、下の人間の面倒見がよくて、ちょっと不良」と考えると納得いくところです。「ちょっと不良」はモテるんだ。

NOSAWAの面倒見の良さをうがわせる一端として、本には「IW♡GP」(2005年に行われた新間寿恒氏主宰によるプロモーション。新日本プロレスは無関係)に参加した際のエピソードが出てきます。

IW♡GPは多くの外国人選手を招聘してツアーを組んでましたが、選手を次の会場に移動させるための新幹線チケットを取っておらず、買うお金が足りなくなるというアクシデントが起こります。
主催者の新間氏は金策に行って不在にしてしまい、その間レスラーたちは宿泊したホテルのロビーで連絡が来るまでずっと待たされます。
外国人選手たちが「こんなのでちゃんとギャラは支払われるのか?帰りの飛行機代は出るのか?」と不安にかられる中、論外は主催者ではないのに新間氏から「おまえが選手をまとめてくれ」とたのまれたのもあって、パニックになりかかった外国人選手たちを落ち着かせようとします。
「いま焦ったところで何も変わらない。それより今なにがしたい?」と聞いて回り、「ジムに行きたい」という選手は近くのジムを探して連れていき、「腹が減った」という選手は「ここなら何杯食べてもいいから」と吉野家やファミレスに連れてったり。お金は論外が出して。
平行して某小さな巨人な日本人ベテラン選手からは「どうなってるんだ!こっちはずっと家で待ってるんだぞ!」とクレームが論外のところに来て、「他の外国人選手が異国で不安な状況の中おとなしく我慢してるのに、なんで家にいるだけのあんたがそんな怒るんだ…」と思いながらそれもなだめたり。
結果なんとか新間さんの金策がついて、ツアーは無事最後までできたそうですが、お金はやっぱりちゃんと出なかったとか。
で、このときにツアーに参加していた女子選手の一人が今WWEで活躍しているベッキー・リンチで、そのとき論外が面倒見てくれたことを今でも感謝しているといいます。
引退記者会見のときに、MAZADAが「パレハ(=論外)は段取りを仕切るのが天才的に上手い」と評していたのを思い出しました。

この本の楽しさは合間合間に挟まれるいろんな選手の余話で。
私が印象的だったところを少し挙げてみます。

・闘ううちに自分が元気になった大仁田厚

・昔は謙虚だった中嶋勝彦

・新参者にはリアクションしないNOAHのファン

・NOSAWAと船木誠勝とのシングルマッチが組まれると「おい、わかってるだろうな」とシュートを仕掛けるよう吹き込む鈴木みのる

・控え室で鈴木みのるとパチンコの話してると「あれ、今日もパチンコ行ったんですか?」と敬語で話しかけてくる長州力

・冤罪事件、憶測だらけの記事を書いた週プロ佐藤編集長に怒った話

・やさぐれていた論外を救った健介と北斗晶

・引退のきっかけはエル・イホ・デル・サントに食らったカバージョ(キャメルクラッチ)

・清宮海斗とのシングルマッチで流血戦をした真意

古今東西いろんな選手の小話が出てくるので、読む人によって「へえー!」を感じるポイントがみんな違うと思います。
ぜひ読んでみてください。

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