『4日間集中講座 世界史を動かした思想家たちの格闘~ソクラテスからニーチェまで』征服される側の思想家がいない(世界の歴史)
本書は、1)アイヒマン(法と正義)からはじまり、2)戦争と平和、3)理性と感情、4)「わたし」と世界のニーチェに終わる。
特に分かりやすいのは、キリスト教が広まると過去の戦争観が「Just War」(邪悪なものを倒し、神の正義を実現する)に一変したとある。
そして、この理論的な根拠になっているのが、ヨシュア記。民族浄化の考え方を正当化する思想。
ヨシュア記には、「祭司が笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。鬨(とき)の声をあげよ。主はあなたの町を与えられた。町とその中にあるものはことごとく滅ぼし尽くして主に捧げよ」とある。
つまり、捕虜は認められず、奴隷にすることも許されず、女性も子供も剣で殺され、家畜も殺され、収穫物は焼かれ、神に捧げられる。これがJust War(正戦)だ。
ヘブライ語のヨシュアはギリシア語ではイエスだが、彼がモーセの後継者指名を受けたのはヨルダンのネボ山だ。この山頂からヨシュア記にか書かれているジェリコの町を眺めると、周りが荒野にも関わらず、ジェリコだけが緑のオアシスに見える。モーセもヨシュアもなんとしてもこの地が欲しかったに違いない。しかし、それがバイブルに書かれてしまうと、すべてが正当化され、人類の歴史をJust war(正戦)にし、十字軍が生まれ、新大陸(アメリカ)を征服し、そしてパレスチナへの入植も正当化される。
この本にも紹介されている歴史的な思想家や哲学者が、ヨシュア記の民族浄化に対して向き合っていないのも不思議なことだ。ある民族が別の民族を征服する場合、征服される側の思想や哲学を考える思想家が生まれても良いのではないだろうか。
Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。