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『ブッダという男 初期仏典を読みとく』ロヒンギャ迫害の理由がわかった(世界の歴史)

 ブッダは無から仏教を発明したわけではない。当時のインドの諸宗教の前提を受け継ぎ、それを批判し乗り越えるかたちで仏教は生まれた。イエスがユダヤ教を批判したのと同じことだ。

 本書は仏教でなく、ブッダそのものの思想を問い直すものだ。そのため、ブッダ当時の各部派を超えて一致している箇所を考察の対象にしている。それは、初期仏典として上座部仏教が伝持してきた三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)だ。この三蔵は、建前として、仏滅後に500人の高弟たちが集まり成立したことになっている。しかし、これは伝説で、仏滅100年後に仏教教団は2つに分裂し、最終的には18から20の諸派に分かれた。にも関わらず、経蔵や律蔵は部派間で大まかに一致している。つまり、この一致している部分は、部派間でコンセンサスの可能性が高いと言える。

 本書ではっきりしたことは、仏教におけるロヒンギャ迫害の考え方がわかったことだ。初期仏教において、殺人はもっとも忌むべき行為とされている。その初期仏教を法源とする上座部仏教では「慈悲による殺人は不可能」と考えられている。それにも関わらず、初期の仏教でブッダが禁じている暴力や戦争を、どうしてスリランカやミャンマーの上座部仏教は肯定できるのか。それには次の2つの理論が組み合わさっている。

1)徳の少ない者や非仏教徒の殺害は、悪行ではあるが重大なものにはならない。
2)仏教教団に布施するなどの善業を積めば、その悪業の報いを打ち消すことが可能である。

 この考えは、アバヤ王がタミル人を駆逐しスリーランカを統一した歴史書『大王統史』に明確に示されている。要約すると、仏教信者でなければ命の価値は「一人」として数えない。邪教への信仰を信じるタミル人たちは獣に等しく、いくら殺しても「人殺し」として計上されない。その後の慈業を積めば心配ない、としているのだ。

 来世に地獄に堕ちることが避けられない悪というのは、仏道から外れる極端な見解をもつこと、父母、悟った人を殺すこと、僧団を分裂させること、ブッダの身体から出血させることだけである。それ以外であれば、たとえ100万人を殺そうとも、慈業を積めば地獄堕ちを回避できる。これが上座部仏教の解釈だ。

 初期仏典において、戦争の無益さが説かれることはあっても、戦争そのものが否定されることはない。起こるべき定めの戦争は避けられないものとして理解されている。この背景は、インドにおいて、武士階級が征服戦争を起こすことは彼らに課された神聖な生き方だと認められていた。また、業報輪廻の世界において戦争は避けられないものと信じれれていたのである。つまり、ブッダが現代的な意味で「暴力や戦争を否定した」わけではない。

 面白いのは、ブッダは霊魂と身体の同異、死後の生存の有無などの形而上学的問題については、沈黙を守って答えなかったという。したがって、ブッダの輪廻否定論は誤りだ、と。

 また、トリビアとして、インドのカースト制は、バラモン教の法源であるヴェーダ聖典に、原人プルシャの口から司祭(バラモン)、腕から武士(クシャトリア)、腿から庶民(ヴァイシャ)、足から隷民(シュードラ)が生まれたことから成立したもののようだ。

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