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糸川英夫著作一覧

 糸川さんの著作に私の簡単なレビューを付加した一覧。ご購入前にご参考ください。


1944年『航空力学の基礎と応用』共立出版

 航空力学の専門書。糸川さんの初の著作と思われるが、敗戦(1945年)の前年の東京帝国大学第二工学部時代に書かれたものなので、大学の教科書として使われていた可能性がある。

1944年『航空流体力学』コロナ社

 この著者は、ドイツのゲッチンゲン大学のプラントルと弟子のティーチェンスの著作。意外にも糸川さんは共訳の一人となっている。

1957年『宇宙を散歩する』竜南書房

 この著作は国際地球観測年(IGY)の観測ロケットが打ちあがる1958年の前年(1957年)に発売されたもので、それまでの間に、糸川さんがあちこちの新聞や雑誌などに書いたエッセイを、ロケット協会の事務局長のリクエストでまとめて出版したものである。
 この中で面白いのは、この段階で糸川さんは、月または火星の衛星までの旅行なら往復切符を売ってもいいとしていることだ。これはすでに技術的な実現の確信があることを意味する。なぜ月と火星の衛星かというと、一度地球を脱した宇宙船は慣性の法則で一定の速度で宇宙空間を移動することができる。そこには空気がないため燃料はほとんど不要で、惰性だけで移動する。しかし、たとえば火星に一旦着陸すると離陸するのに火星の引力を離脱しなければならないため膨大な量の燃料が必要になる。月や火星の惑星は小さく引力が少ないため膨大な燃料を積む必要がない。そこで糸川さんは各星で必要な脱出速度を次のように計算している。

・地球からの脱出速度    毎秒11.2キロメートル
・月からの脱出速度     毎秒2.35キロメートル
・火星からの脱出速度    毎秒5.0キロメートル
・金星からの脱出速度    毎秒10.4キロメートル
・火星の衛星からの脱出速度 ほとんどゼロ

 小惑星探査機はやぶさが小惑星を目指す理由の一つは、着陸後の離陸における引力の影響がほとんどゼロだからだということが、すでにこの段階でわかる計算結果だ。もちろん、人間が乗船するとしたら生理学的医学問題は多々あるが、ロケット自体の設計の可能性というシミュレーションとして、1957年にすでにこのことを提示していることには驚かされる。
 もう一つ面白いのは、1953年のドイツのオイゲン・ゼルゲン博士の論文の紹介だ。ロケットの燃料を、固体燃料、液体燃料、原子核ガス燃料、原子力、光波ロケットの5種類に分類し、光波ロケットがベストで、その性質の計算を行ったというものだ。光波ロケットの速度は光の何分の一ぐらいになるというので、近い星ならば往復20年ぐらいで行けそうだというのだ。それでもアインシュタインの相対性理論では、光よりも早く走れるものはないという前提があるので、人間の寿命を長くしないと恒星間の旅行は無理ということになる。
 また、ドイツのゲッチンゲン大学のプラントルの翼理論という楕円翼理論の欠点として、空気抵抗の一部は最小になるだけで、重量や強度の問題には触れておらず、実際に楕円の翼を製造すると翼の表面の板金作業が失敗しやすく、表面のできの悪さからかえって空気抵抗が増えてしまうとしている。プラントルの翼理論は楕円形であるため、製造の難しさがあったのだろう。

1965年『ロケット』NHKブックス

 この著作が発行されたのが1965年なので、糸川さんが東大を退官する2年前のことだ。NHKの解説委員の村野賢哉氏からの依頼から教育テレビの日曜大工という番組で、5回(1964年8月の1か月間)に分けて「ロケット工学」が放送されたものをまとめたものだ。糸川さんによって日曜大工の延長線上でロケット工学が語られるのが面白いが、内容はロケットの仕組みが非常によくわかるものになっている。
 空気を外から得るジェットエンジンと空気を内部に搭載するロケットエンジンの違い。化学燃料ロケットと原子力ロケットの違い。化学燃料としての固体燃料と液体燃料の違い。固体燃料のダブルベースとコンポジット燃料の違いなどが極めて具体的に解説されている。ロケットの最終形として、光の圧力で推進する光子(光波)ロケットの仕組みも解説されている。
 また、小惑星探査機はやぶさに搭載されていたイオンエンジンの仕組みの解説と、この段階ですでに東京大学宇宙航空研究所の研究室の中で、1台のイオンエンジンができあがっているとある。さらに、この段階ではまだ打ち上がっていない人工衛星の仕組みとその計画なども解説しているので、NHKの日曜大工という番組は日本のロケット技術者の卵を多く育てたのではないだろうか。

1970年『宇宙への遠い道』文芸春秋

 この著作は糸川さんが責任編集として、史上はじめて宇宙飛行に成功したガガーリンの手記にはじまって、米国のマーキュリー計画に参加した7人の宇宙飛行士、はじめて月に到着したアポロ11号、事故からかろうじて帰還したアポロ13号の記録がまとめてあるものだ。
 最後は責任編集の糸川さんと、NHKの科学部長で解説副委員長の村野賢哉氏の対談で締めくくられている。その対談で糸川さんは、アポロ12号はアポロ11号が月に送り込まれて4ヶ月後に打ち上げとなり、11号の問題点が何もフィードバックされていなかったことを指摘している。しかも、アポロ13号の機械的なミスは、全部事前のチェックが抜けていたことが原因だというのだ。米国はアポロ11号でソ連に勝ったことで国民の熱意や支持が失われ、NASAの予算も削減されていた。糸川さんはこのことに対し、アポロ13号は貴重な実験だった。失敗のないところに本当の進歩はないと、Creative Organized Technologyの失敗研究の意義を強調している。
 また大変驚いたのは、この著作が発行された1970年の段階で、人間が生きていくために働くという時間が少なくなると、最大のエネルギーがどこに投入されるかというと、パチンコや麻雀ではなく、宇宙開発になると予測していることだ。宇宙開発は人間の冒険心を満たす最高のレジャーだとまで言っている。宇宙船を設計してつくるところから、乗って目的地につくところまでが全部レジャーだと、現在の起業家の動向を予測しているのである。

1969年『システム工学の方法』日本経営出版会

 原著の著者のHarold Chesnatさんは、執筆当時はG.E.研究開発センター情報科学研究所システム部マネージャーとなっているが、アポロ計画ではG.E.の航空兵器部門と先端技術研究所のシステム工学および分析部門、第2次世界大戦中は、B-29航空機で使用される中央射撃統制システムと遠隔制御砲塔の設計に取り組んでいた。この著作はシステム工学の種々の技術的、解析的な手法を解説した「システム工学の手法」(日本では未出版)の続編という位置づけで、ひとつのシステムの成否に全般的な責任を持っているシステム・エンジニアに関する諸問題が中心テーマとして構成されている。糸川さんが監訳となり、実際には弟子の東京大学宇宙工学研究所の秋葉鐐二郎氏、長友信人氏、松尾弘毅氏が翻訳したものだ。
 糸川さんはシステム工学を「元来、システム工学は実践の中から生まれた学問体系で、理論先行から出てきたものではない」と語り、チェスナットは「システム工学の方法としては、いろいろな特殊な構造と副次的機能から成り立つシステムを、全体としてひとつとみなす。またシステムは1つの目的を持ち、システム全体としてその目的に合致し、しかもシステム内の各部分の最適な状態が保てるように調整することがシステム工学の目的で、システム工学の取り扱う問題は、わけのわからないものである」と語り、最後に「システム工学者は、社会学、経済学、政治学、医学その他の分野の専門家とともによりよい世界を建設する重要な役割をもっている」としている。

1969年『未来を拓く着想』実業之日本社

 糸川さんはロケット開発から手を引く前に、赤坂見附の三銀ビル(現在はベンチャー用のSOHOオフィス)にポケットマネーで一室を借り「システムズ・リサーチ・ラボラトリー」(組織工学研究所)の看板をかかげていた。この著作は、糸川さんが1967年に東大を退官した2年後に、それまでの研究成果をまとめたものになる。
 この段階ですでにCreative Organized Technologyの全貌(帯には「システム工学の決定版」とある)が体系的に語られていることには驚かされる。後半には海洋開発の解説に多くのページが割かれていることからも、糸川さんは過去の自分を他人と思っていることがよくわかる。
特に宇宙開発は部品点数が多く「システム技術」が中心になるが、海洋開発はシステムより「モジュール技術」(単品商品的技術)が主役なると指摘している点は参考になる。潜水技術の潜水服、潜水機、呼吸技術、耐圧技術、養殖技術でもハマチ、クルマエビ、ホタテ貝、アワビ、ワカメ、コンブでそれぞれが違う独立した技術が要求されるのが海洋開発なのだ。世界人口の増加と食料の需給のアンバランスは21世紀初頭に大きな問題になる。日本企業はまず足元の、生物資源開発に新しい技術開発を展開すべきだろうとし、さらに、陸上資源で新しい領土を獲得することが不可能である以上、海洋資源以外に日本の残る道はないとしている。この著作の段階ですでに、日本の科学技術に対する問題点として、新しい技術には哲学からの抵抗が必要で、そうでなければ強いものは育たないという『日本の科学と技術についての論考』が語られていることは興味深い。

1970年『不可能からの脱出』学習研究社

 学習研究社の当時の社長と編集局長が、糸川さんの講演を聞いて出版が決定したもので、講演の録画テープを編集し、文章にまとめたものになる。この著作は多くの企業で社内研修テキストとして使われていたが、絶版になった後に光文社のカッパブックスから新書版として『前例がないからやってみよう』と題し再度出版されている。しかし、カッパブックス版には糸川さんのイノベーションに対する思想を表す、一番大切な次の部分がカットされている。

「『インポシブル』という言葉は、いうならば、常識とか、いままでの考え方とか、在来、自分たちのもっている組み合わせではどうにもならないということであり、それを『ポシブル』、つまり可能にするためには、どうしても、これまでとは違った方法をとらざるを得ません。『不可能からの脱出』が要求されるわけです。これは、別の言葉でいうと、反体制の思想が内在していることを意味し、反逆の精神が半分を占めているということです。もしも、そこに反逆の精神がなかったならば、どうなるでしょうか。きのうまでのものが、あしたもあさっても、そのままだという発想であったとしたら、新しいものなど何一つ生まれてくるわけはありません。システムという思想は、まことに意外なことに50%はこの反逆の精神なのであって、あとの50%を構成しているものが、‶他人と自分は違う″という発想によるものです」

 反体制とか、反逆という言葉が一般受けしないとカットされたのかも知れないが、このことは糸川さんのイノベーションの第2法則(反逆の法則)になる。

1973年『逆転の発想』ダイヤモンド・タイム社(プレジデント社)

 1967年に設立した組織工学研究会は、東京、大阪、名古屋、福岡、埼玉で毎月1回行われていた。13時半からはじまる研究会の前半は外部ゲストによる講義、後半は糸川さんの講義となる。その後半の内容を編集者がまとめたものが『逆転の発想』だ。内容は毎月違うため、アイデア社長は終わった、反企業時代の経営戦略、人間性とは何か、情緒過剰時代の生きがい、ポストエコノミー社会の経済学、80年代の新商品開発、エネルギー・一九八五年、日本を救う五千万人の民族大移動と、内容はバラエティーに富んでいる。
 糸川さんの講義は話が飛ぶ。しかし必ず最後には結論に無事着陸する。したがって、この著作の構成も話が飛んだ後に最後の結論に行きつく。なおこの著作は、1982年に角川文庫で文庫化され、2011年には新装版としてプレジデント社から再販されている。

1976年『続 逆転の発想』ダイヤモンド・タイム社(プレジデント社)

 『逆転の発想』と同じく、組織工学研究会の内容をまとめたもので、バレエからの発想、マイナスからの出発、多次元の経済学、景気浮上策としての逆流の経済、リゾート・ダイメンションという新しい市場、中小企業の新商品開発、夢をもてない世代を救う道、‶反企業ムード″考、個人がパワーをもつ時代、参加の時代、技術は人間を変える、研究開発に日本は過大な期待をもてない、サンキューを言わない日本人、輸入会社がスターになる時代と、相変わらずバラエティーに富んだ内容だ。ここで注目すべきは、ポピュレーションセオリーをダーウィンの進化論と比較していることだ。ダーウィンの適者生存の哲学は、環境に適応するものだけが生き残ることだが、環境に適応しない‶不良因子″や、‶劣性因子″は絶滅するという考え方だ。一方、糸川さんのポピュレーションセオリーは、人類は38億人(当時の世界人口)の個体に生命が分布しているという考え方で、生命が分散された一つの群れ全体を「一つの人類」とする哲学だ。全体の中の‶部分″はどこも切り落とせない。現在の社会環境に適応していないからといって、少数の弱者を切ってしまえば、結局は人類全体の生命力は弱くなってしまうという考え方だ。なおこの著作は1982年に角川文庫で文庫化され、『続 逆転の発想』として再び発売されている。

1976年『発想のインターチェンジ』ホーチキ商事出版部

 TBSラジオの朝の番組に出演していた糸川さんの話が面白いと単行本にしたもの。
 内容はベトナム戦争からリラクゼーションまで『逆転の発想』以上にバラエティーに富んでいる。特に面白いのは糸川さんのロケット研究から新婚旅行を分析している点だ。そもそも人間は一か所に閉じ込め、外界からの情報を遮断された状況におくと必ずケンカをはじめる。宇宙飛行士などは、そうしたリスクのある状態に閉じこめられている。テレビ中継でヒューストンとの交信を聞いていると、じつにくだらないことを送信していることに気づく。ときには宇宙飛行士のカンにさわるようなことを平気で送信する。すると宇宙飛行士はあきらかに腹を立てた口調で返事をする。これはヒューストンの基地がわざとそうすることで、宇宙飛行士を怒らせているのだ。そうすると逆に彼らは団結しチームワークが高まる。新婚旅行の風習もまったく同じで、城壁から囲まれた都市から外にでると、外敵の恐れから二人の平和が保てる。したがって、新婚さんの邪魔は大いにやるべしとしている。

1977年『糸川英夫の入試突破作戦』文芸春秋

 糸川さんがテレビ番組に出演していたころ、子どもの学校のことで悩んでいるお母さんへアドバイスを行うことが度々あった。その反響が大きかったため、受験勉強に特化し、週刊文春に21回にわたって連載された入試突破方法をまとめた本だ。糸川さんの発想は、受験勉強にとどまらず、試験を通じ生涯にわたる自己啓発のきっかけを与えるものになっているためか、この著作は社会人にも大いに役立ったようである。たとえば、特定の大学や学校にあこがれる人がいるが、入学し、卒業し、社会人になってはじめて、大した学校じゃないと思ったときに人ははじめて一人前になるという。学校からの乳離れだ。自分の出た学校や学科はくだらないことばかり教えてくれたが、その学校に入るために入試準備自体は無駄にはならない。むしろ生きていくためのノウハウを獲得するのは受験勉強の間であって、入学後に学んだことは忘れ去ってしまうことがほとんどだという。
 教育は人が行うものであって、校名や校舎や設備が行うのではない。志望校は自分を指導してくれる、もっとも尊敬に値する教師がいるかどうかで決めるべきだろうとしている。糸川さんの父親が担任の先生で南山小学校を選んだように、あるいは谷一郎先生(糸川さんの師)のように、教師の存在が一生を決めるという糸川さんの体験からの考えだろう。英語、数学、国語、理科、社会と具体的に科目別の対策もあるので、現代の受験勉強にも参考になるのではないだろうか。

1978年『続々 逆転の発想』プレジデント社

 『逆転の発想』『続 逆転の発想』と同じく、組織工学研究会の内容をまとめたもので「つくる・持つ」から「用いる」時代へ、マリファナと怒りの時代、脱工業社会の新商品・新ビジネス、現代の指導者の条件、現代の開発型人材の条件、学習塾・入試肯定論、‶学習″から‶思考″へ、家計消費の主役マザー・パワー、円高はどこまで続くか、パニックにどう生き残るか、日本の新しい価値観は‶美意識″、米国との比較で見たこれからの日本産業と、相変わらずバラエティーに富んだ内容だ。現在の企業経営に大変参考になるのはランチタイムの過ごし方だ。
 アポロ計画当時の最高責任者である航空宇宙局長官ウェッブ・ペインズという人は、アポロ計画を進めるために一番大切な仕事は、ランチタイムの食堂のテーブルに同じ部や課の人が集まらないように気を配ることだったという。糸川さんはこのことを、ランド研究所(当時米国最大のシンクタンク)で経験している。ランド研究所では午前中に、ランチタイムにこんなテーマで話したい人は何番テーブルに座れ、という回覧がくる。たまたま糸川さんが参加したテーブルのテーマは、‶人類が金星の大気をいかに利用したいか″というものだったという。そのテーブルには経済の専門家、法律の専門家や数学者などが集まった。
 金星の大気はどっしりして重く、地球の空気と水の中間ぐらいだということから議論ははじまった。ある人から、将来金星着陸船をつくるときには、それがエアークッションになるので逆噴射ロケットを使う必要がないというメリットが発言された。数学の専門家が簡単に計算してみると、直径10センチくらいのパラシュートをつければ、エアークションだけで着陸できそうだということがわかった。ランチが終わりに近づいたところで、同じことを地球に使えないかという発言があった。この発言により、それまでの月へ行くプランでは、地球に戻ってくるとき逆噴射ロケットでスピードを殺す発想になっていたことが一変したのである。エアークッションならば逆噴射ロケットは不要になる。これによってはじめて、人類が月に行くことに成功したという。
 このようななんでもないテーブルの話題から、地球帰還の新方式が生まれてくるのだ。一方、日本の会社員のランチタイムはどうだろう。同じ部署の仲のいい人たちが群れて黙々と食べる。たまの会話は上司か会社の愚痴ではないだろうか。日本の企業は、もう少しランチタイムを有効に使う工夫が必要なのかもしれない。なおこの著作は、1982年に角川文庫で文庫化され、『続々 逆転の発想』として再び発売されている。

1978年『発想の法則』ダイヤモンド社

 この著作はジョン・ゴール著で、糸川さんが監訳しているものだ。ジョン・ゴールとはミシガン大学出身で、小児科を専門とする医学博士だ。複雑なシステムに内在する自然法則を知ることで、過去に起きた誤りのうちいくつかは防げるという考えで構成されている。そのための法則をゴールの法則と呼び、ここでは32法則が解説されている。有名なのはゴールの法則15とゴールの法則16の2つだ。その他、次の法則なども参考になる。

・ゴールの法則2:新しいシステムは、新しい問題を生む。システムは必要以上に複雑にしてはならない。
・ゴールの法則7:あるシステムの内部にいる人たちの仕事は、そのシステム全体で行っている仕事とは一致しない
・ゴールの法則10:システムはシステム人間を引きつける
・ゴールの法則28:フィル・セイフシステムが失敗するのは、それがフィル・セイフそのものに失敗することによって失敗するからである
・ゴールの法則32:ゆるやかなシステムのほうが長続きするし、よりうまく働く。効率のよいシステムは、システムそのものにとってだけでなく、他のシステムにとっても危険なものである

 サブタイトルは「物事はなぜうまくいかないか」となっており、システム化されてしまった現代社会の中で、システムを意識することにつながる貴重な1冊だと思う。

1979年『糸川英夫の細密占星術』主婦と生活社

 地球の氷河期が太陽の黒点とかかわりがあるように、人間の運命は環境に左右される。太陽の運命は宇宙全体の運命の中の一つだと考えると、宇宙全体と私たちの運命の間に、相関関係があると仮定してもいい。そこから天体の配置と人間の運命を結びつける発想が生まれてくる。日本の星占いは、誕生日の太陽が黄道上の何座に位置していたかによって十二にわけて占うのが一般的だが、これは運命の傾向を示すだけで正確ではない。この著作にまとめられている糸川さんの細密占星術は、日本人の一人ひとりの‶占星″が正確にできる。天文学という科学を基盤にして、その人の出生データ(生年月日、時間、場所)をもとに作成した細密ホロスコープ(生まれた瞬間の天体の運行状態を黄道上に射影した図表)で描き出し、丹念に‶運命″を追求し、その人の一生の運命を予言し、判断する。この著作には基本データとして、1921年から1985年までの太陽・月・惑星の動きが掲載されているが、1986年以降のデータは掲載されていない。

1979年『発想の転換』プレジデント社

 『逆転の発想』シリーズは、組織工学研究会の糸川さんの後半の講義を中心にまとめているが、この著作は前半のゲストの講義についてまとめたものになる。個性派12名として、神崎倫一(エコノミスト、東洋信託取締役)、根本悌二(映画プロデューサー、日活社長)、古曳正夫(弁護士、森綜合法律事務所パートナー)、松平康隆(ミュンヘンオリンピック金メダルのバレーボール監督)、西丸震哉(日本人の食生態学者)、長井洞(真向法体操)、水野肇(医師)、山本七平(山本書店店主)、イーデス・ハンソン(タレント)、遠藤周作(作家)、前田武彦(タレント)、森繁久彌(俳優)の講義が文章化している。
 特に印象的なのは、山本七平氏のローマ帝国とユダヤ人の二重秩序は破綻するという『ユダヤ戦記』のヨセフス分析と、日本の輸入文化と伝統の二重支配との比較だ。また、糸川さんと同じ年である森繁久彌の講義では、指揮者フルトベングラーが「人間的感動は人の内部にあるのではない。人と人の間にある」と語っているくだりは、思わず納得してしまう。このように組織工学研究会のゲストスピーカーが多種多彩だったことがわかる。

1979年『ビジネス・ジャパン』日本工業新聞社

 『逆転の発想』シリーズの中の何章かは、ニクソン大統領時代に糸川さんがホワイトハウスの大統領補佐官と2日ほどミーティングをやったときの議論をベースにしているという。そのときの議論が大好評だったため、糸川さんは『逆転の発想は』米国で出版しても受け入れられると考えていた。しかし、英訳の話がいっこうに進まず、日本語と英語の両方で書かれたこの著作が出版されることになった。
 この中で参考になるのは、工業社会が製造→販売→購買→所有という図式の中での価値観だとすると、脱工業社会の課題は、製造→販売→購買→所有の次にくる使用や利用になる。占有する、所有するという価値観に代わって「どう使うか」「使い方のスマートさ」に価値観が移ると、占有の価値は逓減するため、ものと人との関わり合う時間が短くなるとしている。現在のサブスクリプションモデルのビジネスを予測していたかのような考察だが、ダニエル・ベルが1970年代に唱えた脱工業社会が、現在現実化したともいえる。これらの営業は「売ること」から「使ってもらうこと」に考え方をシフトする必要がありそうだ。

1979年『見えない洪水 ケースD』CBSソニー出版

 専門家や意見のありそうな人を数人選び、数回のアンケートで意見を調べ、その意見をまとめて再び数人に回答を得る。これを数回繰り返すと人びとの意見が1点に集まる。これらのデルファイ法に参加したのは、糸川さんを含め、環境問題に詳しい現職キャリア官僚、コンピュータのエンジニア、中東・ソ連通の国際政治ジャーナリスト、大手広告代理店のジャーナリスト、作曲家などの8名だ。彼らの予測結論をシナリオライティング法で小説としてシナリオ化されたのが『見えない洪水 ケースD』だ。これは1980年2月28日にNHKでドラマ化もされている。ケースDとは、A、B、Cと順次悪くなっていったときの最悪のケースを意味する。
 1999年世界大戦は回避され世界は国連を中心に平和が維持されている。人口は60億人に達し、食糧問題を解決するため、砂漠やジャングルまで大規模な開発が進み、環境負荷係数は幾何学的に増大し、30年後に破滅状態になるとコンピュータはシミュレーションした。それにもかかわらず、オイルメジャーとグレインメジャー(穀物)は、核融合炉の開発で石油と穀物が不要になる未来を恐れ、食料を武器にして米国とソ連に手を組ませ、エネルギーを国連管理としてOPECによる石油価格の支配を交替させようとしているというのがケースDだ。このシナリオが世界に発表されると大パニックになる。また、1979年に発売された書籍を読むと次のような表現にも驚かされる。

・久しぶりに走った首都圏拘束は痛快だった。みんなが使っている電気自動車やアルコール電気ハイブリッド・モーター車には絶対ない、ガソリン車だけが持っているあの排気音とエンジン音、それにガソリンの匂い。それらはなんともいえない快楽を与えてくれた。
・そう、アメリカは世界最大の小麦産地だ。これを動かしている穀物メジャーは不気味な存在だね。カーターがそれとどう話をつけるか、もしかしたら、オイル資本よりこっちの方が政治的にはウエイトが大きくなっていくかもしれない。
・みどり藻から作ったジュースだよ。飲んでご覧。意外にうまいんだ。健康にもいい。

 1979年当時の世界最大の小麦産地は米国だったが現在はロシアだ。この小説とは違ったシナリオで、ロシアは石油と小麦を武器にし、OPECを味方につけ国連をないがしろにしている。このように糸川さんの1979年に描いたシナリオライティング法は、役者は違うが構造的に表出しているとも言える。

1979年『前例がないからやってみよう』光文社

 前に解説した『不可能からの脱出』からイノベーションの第2法則である反逆の精神と、新商品開発の実際の例と需要予測などをカットした簡易バージョンの新書版になる。『不可能からの脱出』の方がはるかに実用的だが、入門書としてはこちらの方が読みやすい。

1981年『カルチャトピア‘90』CBSソニー出版

 『カルチャトピア‘90 サルマカンドからのメッセージ』は『見えない洪水 ケースD』が24万部のベストセラーとなった続編として、同じデルファイ法とシナリオライティング法で予測したシナリオをベースに小説として発売された。発売されたのは1981年だ。糸川さんは1981年に種族工学研究所を設立している。日本は歴史のなかで一度も人種問題で悩んだことがない。そのため日本人は人種問題に対する認識が苦手だ。そこで糸川さんは種族というものの本質が何であるか、種族を動かしている根本的な原理は何であるかについて解明する研究所をつくった時期に発売されたものだ。
 この小説化されたシナリオは、ウズベキスタンのサマルカンドからはじまる。サマルカンドとは人々が出会う街を意味するシルクロードの都市だ。アレキサンダー大王はギリシアの言葉と文化をサマルカンドに運び、南の方からインドのクシャナ王朝南のサンスクリットの世界がサマルカンドにせり上がり、北からはモンゴルの匈奴やフン族の大移動があり、サマルカンドにはさまざまな文化が現れて消えていった。サマルカンドから考えると、日本で考える文化とか国際化はあまりにも日本的だ。
 小説の中では1990年に奈良で開催する世界文化博覧会(カルチャートピア‘90)を軸に、日本の世界戦略を国連に提案する。その世界戦略は文化の多様性にこそ世界の豊かさがあるということを世界に示すことだ。世界の民族がそれぞれ育んできた文化に誇りをもち、そこに自分たちのアイデンティティを保持し、しかも異文化に好奇心と愛着をもつ。そういう多様性を許容する柔軟な世界があるはずだ。たとえば中央アジアのサマルカンドは長い歴史の中で培ってきた文化の回廊に異文化コミュニケーションの世界をもっている。このサマルカンドと日本を比較すると、いままでの日本は、富国強兵、五族共和、大東亜共栄、民主化、近代化、所得倍増などにアクセントをおいてきた。しかしそれは日本を引っ張っていくアイデンティティにはなり得ない。一方、西欧はこれまで、自分の宗教、言語、理念などの価値体系を世界の人々に押しつけ、あるいは自分の文化体系で異文化を割り切ろうとしてきた。これに対し日本は八百万の神を許容する文化がある。この文化の伝統を国際社会の対話の中で生かす時代が21世紀だとしているのがこの小説だ。
 この小説を通じて糸川さんが伝えたかった日本の未来は、異なった文化間の対話を進める‶カルチャー・ダイナミックス″(国際文化力学)を日本がリードすることだ。当時のハーマン・カーンのシナリオライティング法による日本の未来予測では日本は軍事大国になり核武装をするとある。糸川さんのシナリオライティング法は自らの意思で軍備のアンチテーゼとして文化を対置させるのが日本人の英知ということなのだろう。この著書のいたるところに経済の論理と並列する文化の出会いの論理をつくっていかなければならないとあり、イスラームとアフリカが固有の文化の根底にあるものが、西欧流の近代化に果敢に抵抗し続けているとある。それらを文化の後進性だとか非合理性だとかと指摘し批判するのはたやすいが、イスラームの文化がパーレビ国王の前に厚い壁として立ちはだかり彼の野心を砕いたと、イラン革命(1979年)を例にそのことを説明している。つまり、それほど世界の文化は多様で、多様な文化を西欧流の価値観で一律に割り切っていくことはできないのである。
 このように小説にもなるシナリオライティング法は文学的でもあるが、ある意味では非常に物理学的だ。論理的な矛盾が一つの説の中にあってはいけないからだ。シナリオライティング法はかなりの天才性と飛躍を要求される方法なので、誰でもできるものではない。

1981年『新 逆転の発想(上巻)』プレジデント社

 この著作では、日本人マネージングパワーの輸出に対する理論的な背景を次のように解説している。一番目は、日本人は教育水準が高い。大学進学率は異常に高い。外国語は最低限しゃべれる人材が多い。二番目は、工業および脱工業社会の両方において、組織の中で、トータルに組織全体を把握する能力がある。三番目は、日本人は対人関係の処理能力がある。ロジカル・コンセプトには弱いが、エモーショナル・コンセプトに強い。今後の世界を展望すると、マネジメントはロジックでは成立しにくくなる。四番目は、宗教的要素が透明である。マネージャーが自分と異なる特定の宗教にあるとやりにくいが、日本人にはそれがない。五番目は、日本には四季が存在するので、かなり暑いところでも、寒いところにいっても、ある程度の感情移入が可能だ。六番目は、QC活動などのマネジメントテクニックがあるというものだ。日本の人口の15%の大学卒業生が一人の伴侶を連れて海外に出るとすると、合計で3500万人が海外に移動できるという主張だ。なおこの著作は、1991年にPHP文庫から『新 逆転の発想 上巻』として再び発売されている。

1981年『新 逆転の発想(下巻)』プレジデント社

 Creative Organized Technologyの解説では人間学(情緒工学序説)の部分の解説をカットした。なぜなら、種族の違いと内容の整理を含めると、それだけで1冊の本になるくらいの内容とボリュームになってしまうからだ。この著作ではその入り口が解説されている。Creative Organized Technologyでは、人間を「A+BX」で表す。「A」はもって生まれた本能で、一生変わらない常数項。一方、「BX」は学習によってどんどん変わる変数項だ。常数項である「A」の中の重要なものに攻撃性がある。この攻撃性が情報社会になると噂という武器になる。現代社会は噂とデマとかに非常に弱い。噂の方程式は「噂=重要性×あいまいさ」で表すことができるとあり、まるで現在のフェイクニュースの氾濫を予測しているようだ。またその根本には人間の常数項である攻撃性があり、それが重要性とあいまいさに比例して、噂として拡散していると解説しているのである。なおこの著作は、1991年にPHP文庫から『新 逆転の発想 下巻』として再び発売されている。

1981年『驚異の時間活用法』PHP研究所

 この著作では糸川さんの時間活用法が書かれているが、‶切れはし″の時間をうまく使う、一を聞いて十を知るなどの時間活用ノウハウだけでなく、人生をいかに生きるかをまとめたものでもある。ここでは種族工学研究所を新しく作る準備をしているということと、残された人生を種族問題の解明に尽くすつもりだと宣言している。具体的な成果はベドウィンの法則となったのだが、これは糸川さんが入院する前の最後の仕事となった。また人生100年時代をいかに生きるかのヒントが満載されている1冊でもある。なおこの著作は、1985年にはPHP文庫となり『驚異の時間活用法』として再び発売されている。

1982年『独創力』光文社

 独創力を生み出す方法を糸川さんなりにまとめたものだ。ここで面白いのはコンプレックス利用術という考え方だ。人間は誰でもコンプレックスがある。これは人間にとりマイナスなものと考えられているが、糸川さんはそうは考えない。たとえば、人並み以下だというコンプレックスがあるとすると、その人が人並みになろうと努力をして人並みになったとする。しかし、そこで努力は止まらずそのまま続け、人並み以上になることをコンプレックス利用効果と呼んでいる。逆に生まれつき人並み以上だと、すっかり安心しているから、人並み以下に下がることさえあるという。したがって、コンプレックスとかマイナスとかピンチはむしろそれがないより、跳躍力を大きくするものだと考えた方がいい。糸川さんの根底には「逆境は成長のルーツだ」という考え方がある。逆境こそ独創の引き金になり、抵抗は成功の条件になる。マイナスの条件が好感度の違いを生むという。なおこの著作は、1984年に文庫となり『独創力』として再び発売されている。

1982年『第三の道』CBSソニー出版

 糸川さんは東京大学で宇宙航空研究所ができてからの1965年から1967年まで、インド政府のアドバイサーとしてインドで仕事をしている。龍土町(六本木)の東大生産技術研究所から駒場の宇宙航空研究所に引っ越し、ここでの2年間は何の仕事もしていなかったと語っているが、日本のロケット開発の仕事を何もしなかっただけで、インドのロケット開発の仕事はしていたようだ。
 インドのサラバイ家の当主で科学者であったヴィクラム・サラバイ博士からの依頼で、インドが自前でロケットをもちたい、インドに宇宙科学研究所をつくりたいというところからはじまり、正式なインド国家としての仕事となったものだ。ヴィクラム博士と糸川さんはインド原子力委員会(AEC)の下部組織として、宇宙科学研究所の名称をインコスパー(INCOSPAR:Indian Nationa Committee for Space Reserch)、プロジェクト名はヒンズーの神の名をとりロヒニとした。アラビア海沿岸のケララ州トリバンドラムに研究所の場所が決まり、住居していた数百の漁民の立ち退きも決まり、建設が軌道にのり、人材も集め一段落して、人員や組織の目鼻がついたある日、ヴィクラム博士が常宿にしていたホテルの一室で、いつもの昼寝の時間が過ぎても起きてくることなく心臓麻痺で死んでしまったのだ。この著作はインコスパー設立のプロセスと、その後にインドを訪れたことなどを描いている。糸川さんは当時のインドを低エントロピー社会だとしてとしているが、現在のインドには目を見張るものがある。なおこの著作は、1994年に中公文庫となり『第三の道』として再び発売されている。

1983年『人生という森の中で』芸術生活社

 糸川さんがホストをつとめていた『人生芸術劇場』というラジオ番組でのゲストとの対談を通じて、糸川さんが感じたことをまとめたエッセイだ。そのゲストは、小林幸子(歌手)、伊丹十三(俳優)、平清太郎(ボランティア活動家)、鈴木治雄(昭和電工社長)、アグネス・チャン(歌手)、米長邦雄(棋士)、今井通子(登山家・医師)、益田喜頓(俳優)、小谷正一(プロデューサー)、数住岸子(バイオリニスト)、堀江幸夫(ぺんてる社長)、森敦(作家)、木元教子(評論家)、戸川昌子(作家)だ。
 糸川さんがゲストに対し、人生で苦しんだときそのときの苦しみをどう乗り切ったか、その苦しみがいまの人生にどう影響を及ぼしているかについての質問をすることが、この番組の構成になる。反応は二つに分かれるという。一つは、とても苦しい時代があって、こんな風にして乗り切ったという人と、人生の苦労など一度もなかったという人がいる。後者の例として挙げているのは日本マクドナルド社長の藤田田氏だ。成功者には苦労を苦労と思わないタイプの人が意外と多いものだ。
 飛行機屋として敗戦を経験した糸川さんにとっては、長い人生で苦労したことは一度もないということは考えることができないようだ。大きな苦しみや逆境というものを通過することのない人生には、美しい花は咲かない。泥中をくぐり抜けてこそ、蓮は美しい花を咲かせるというのだ。『荒野に挑む』(ミルトス)でも、糸川さんは「蓮は泥中より出、美しく咲く。人もまたそうでありたい」という言葉がとても好きだと書いている。

1983年『屋根の上のセロ弾き』読売新聞社

 糸川さんの雑誌の連載エッセイを本にしたものだが、その中でもサイエンスと音楽のことが際立っている。コンコルドがなぜ挫折したかというと、テクノロジーを深追いするとプラスよりマイナスが大きくなるという教訓を残したとして、日本のテクノロジー一辺倒の状況に警戒を鳴らす。欧米社会にはキリスト教という、いつも自然科学と対立する警官がいる。日本にはそれがないため、エンジニア時代には絶えず不安があったという。糸川さんは、テクノロジーだけを追い、官民あげて大騒ぎしている日本をいつも危なっかしいと感じているのだ。糸川さんは高校時代の物理の授業で、ニュートンの万有引力の法則と運動方程式から、ケプラーの3つの法則を導き出すサイエンスの美学に感動したことをここでは紹介している。
 また、このエッセイを書いている段階で、糸川さんはイスラエルを訪れていない。それにもかかわらず、非キリスト教国であるユダヤ人の音楽家には引きつけられることが多く、この著作でもマックス・ブルッフとアーネスト・ブロッホの曲を、魂の根源を揺り動かす感動を受けるとし、チェロで取り組んでいることが書かれている。アーネスト・ブロッホのシェロモ、ニーグン、プレーヤー(祈り)、ヘブライの瞑想、マックス・ブルッフのコル・ニドライの5曲はお気に入りのようだ。バッハやヘンデル、ベートーベンのようなキリスト教クラッシック音楽は、同じような音符が規則正しく並んでいるが、マックス・ブルッフ、アーネスト・ブロッホは真逆で、規則正しくない配列が特色のようだ。ユダヤ音楽はイスラエルに興味を抱く大きな理由になっていると思われる。なおこの著作は、1990年にPHP文庫から『モーツァルトと量子力学』と改題されて再び発売されている。

1983年『ザ・クリエイティブマン』産業能率大学出版部

 糸川さんが訳者となって、創造性を生み出す方法を紹介しているものだ。糸川さんは、訳者のまえがきとして、昨日までと同じことを繰り返し考え、同じ人と会っていては、クリエイティブな発想ができるはずがない。いままでの管理的な物の考え方からレールをはずすこと、これが独創力の第一歩に違いない。世の中の秩序を保つための慣性の法則は重い存在だ。それがわたしたちの思考文化にまで影響を与え、私たちは習慣で動き、習慣と慣れで人生を歩む。創造的な考え、行動、発見は、このコースを変えようという試みである。『ザ・クリエイティブマン』のそのものの中身は、天才のみが創造的な行為を行うという考え方は間違いで、創造性とは天才のみが行う行為ではない。私たちが意識的に努力すれば、その技術を身につけることができるとして、創造的思考技術を紹介している。
 糸川さんの3つの法則(手のひらの法則、反逆の法則、物語共有の法則)はイノベーションを生み出す必要条件で、方法として、「Creative Organized Technologyのフローチャート」「オルタナティブを発見するチャート」が十分条件となっている。そのため糸川さんは、訳者まえがきでは必要条件だけを語り、2つのチャートに該当する部分は、著者であるニーレンバーグ氏オリジナルなものになっているというのがこの著作になる。

1984年『ヒューマン・ブレイン』プレジデント社

 この著作は英国BBCの教養番組で連続放送されたテレビ番組を書籍にしたものだが、英国の経済雑誌『ザ・エコノミスト』の書評欄に取り上げられた。それを読んだ糸川さんが、日本への出版をプレジデント社に持ち込んだことで翻訳され出版されたものだ。
 脳科学と人間社会を結びつけた時実利彦博士の功績(たとえば『人間であること』岩波書店)が日本にはあるが、世界的には第2次脳ブームである右脳・左脳人間論を経て、脳科学と心理学と行動科学がどんどん距離を広げてしまったのが1980年代だった。この距離をなくすため、心のメカニズムを脳科学の先端研究室への取材から導き出そうとしたのがこの著作だ。
 ここで紹介されたオーストラリアの原住民に対する実験が、1995年に発売された『糸川英夫の人類生存の大法則』で紹介したベングリオン大学のベドウィン族、デルフト大学のマサイ族、アリゾナ大学のショショーニ族(アメリカインディアン部族の一つ)のレポートの理論的な根拠の一つとなっているのだ。
 その理論とは、ウェスタン・オーストラリア大学の心理学者ジュディス・キュリンズが調査したオーストラリアの未開の奥地に住む原住民の記憶様式についてのものだ。原住民はオーストラリア大陸の未開の荒野で道に迷うことはないという驚異的な能力があるにもかかわらず、原住民の子どもたちが学校で行うIQテストの成績は悪い。ここには矛盾があるとジュディスは考えたのだ。そこで6歳から16歳の子どもを対象に次のようなテストを行った。 
 このテストでは10から20に区切られた4つのトレイを使い、一つ目のトレイには、白人の子どものなじみ深い消しゴム、指抜く、指輪、ハサミなどの人工のものを入れる。二つ目のトレイには、原住民の子どもになじみ深い羽根、岩、木の葉、小さな頭蓋骨などを入れる。三つ目のトレイには、単に形や色だけが異なる小さな石を入れる。四つ目のトレイには、似かよった1セットの小さなビン類で、白人の子どもにはなじみが深いが区別しにくいものを入れる。それぞれのトレイを対象の子どもたちに見せ、次に目かくしをしてそれぞれのトレイの品物をごちゃまぜにする。そのごちゃまぜにした品物を子どもたちにもとどおりの場所に並び替えさせたのだ。するとこのテストでは、原住民の子どもたちの方が、白人の子どもたちよりよくでき、白人の子どもの10歳と原住民の7歳の子どもの達成度が同じだったのだ。このテストからオーストラリアの原住民は、空間的記憶力については白人をはるかにしのぐことがわかった。しかも、白人の子どもたちはテスト中にブツブツつぶやいているのに対し、原住民の子どもたちは静かなのだ。このことをジュディスは、 ‶名前をつけて覚える″ことと‶目で見て覚える″の違いにあると考え、IQテストはユニバーサル(普遍的)なものではないと結論づけた。原住民は視覚を中心にして言語を介在させない独自の知覚能力を発展させてきたが、それは白人が言語を中心にした知覚=知能システムとは違うのだ。
 そして糸川さんはこのテスト結果から、他の種族の価値観で、特定のライフスタイルとそれにもとづいた文化をもつ種族を測ることはできない。もし、その種族に他の種族の価値観を押しつけ、ライフスタイルを変更させると、その種族は堕落し、物質的な腐敗(Substational Corruption)が起きる、というベドウィンの法則を導きだした。この著作は当時の脳科学の研究成果をまとめたもので、オーストラリアの原住民のテストが、10年後に生みだしたベドウィンの法則の理論的な根拠の一つとなったのである。驚きの偶然だ。

1984年『女性人生読本』角川文庫

 『逆転の発想』シリーズは会社の経営者、管理職、社会人を対象に書かれたものだが、120万部以上のミリオンセラーになった理由に多くの女性読者の存在があったという。そのため糸川さんは『チャーミング奥様』『奥様ニュース』などのTV番組にレギュラー出演することになった。その後、女性雑誌で『糸川英夫のマイルドマインド・エッセイ』という連載されることになり、この著作はそれをまとめて書籍化したものだ。その後、1984年に角川書店で文庫化された。
 日本の男性が世の中に自分の個性なり能力なり主張なりを通そうとすると、腹をくくるために「退路を断つ」必要性がでてくる。しかし女性はどうだろうか。娘時代には「親元」があり、結婚すると「家庭」という退路がいつもある。男性は父から子へ、先輩から後輩へ、友人から友人へと「いかにして社会で生きるか」についての情報や経験などのノウハウが伝承されているが、女性にはそれが少ないのではないかという仮説から、糸川さんの経験を女性に向けて語っているのがこの著作だ。たとえば、中島飛行機から東京大学第二工学部に移るとき、糸川さんは6月(この著作には6月とあるが、経歴書では8月になっている。中島飛行機に辞表を出したのは6月から8月の間なのだろう)に会社に辞表出し東京に引っ越した。しかし、会社は辞表を受理しなかった。当然、会社に在籍のままだと東大側は受入れの発令もできず、その年(1941年)の11月までの収入はゼロになったという。辞表を受け取らない会社側は、出社しないことを理由に給与を支払わず、発令できない大学側は給料を支払えないという兵糧攻めにあったのだ。したがって、糸川さんの経歴は次のようになっている。

・1941年(昭和16年)8月 中島飛行機(株)退社
・1941年(昭和16年)11月 東京大学工学部航空学科助教授に就任
・1941年(昭和16年)12月 真珠湾攻撃

 この経歴にあるように1941年6月、もしくは8月から11月までが空白になっている。実際に辞表が受理されたのは11月で、東大の助教授任命の発令は11月26日なので、10日後が真珠湾攻撃になる。糸川さんは辞表を出し自ら退路を断ったのだが、辞表の受理が遅れ、あと10日東大側の発令が遅れれば戦時による現地徴用令で会社に釘づけになっていたことになる。
 この経験からの糸川さんの女性へのアドバイスは、行き詰った人生の道に立ちふさがっている扉をあけるための鍵をもっている人(糸川さんの場合は谷一郎先生だった)が一人はいる。その人はあなたの人生行路を横切る無数の人たちの中のたった一人の人だ。その人だけが、あなたに転機のチャンスを与えてくれる。その人を尊敬し、敬愛しあこがれ好きになることが、あなたに鍵を渡せるモーメントをつくる。扉の鍵があなたの手に渡されたと思ったら、後ろをふり返ってはいけない。退路を断つべきだ。これによって一個の独立した社会人として自分の才能を開花させ、自分のあらゆる可能性を世に問う、という挑戦を成功に導くことができるとしている。また、女性が社会に進出するとき、女であることを武器にする。女性の特権で勝負するという路線は、Creative Organized Technologyでいうとシード理論になる。性別に関係なく、いまの世の中これからの世の中で、何が困っているのか、何が求められているのか、どんな人を必要としているかを見極めて、その路線で職業を選択するのがニード理論になる。糸川さんが女性にすすめるのはこのニード理論で、そのニードの見つけ方までを紹介している。このようにこの著作は極めて論理的に書かれているので、「当時のコトバ」を変更すれば、いまの時代にも十分役立つのではないだろうか。

1984年『私の履歴書 文化人19』日本経済新聞社

 1974年11月に日本経済新聞に連載された糸川さんの『私の履歴書』が、他の文化人とまとめて出版されたものになる。糸川さんの連載は、①はじめに、②‶電気砲″プラン、③‶液体磁石″、④原油海底備蓄計画、⑤日曜学校、⑥房州の海の家、⑦まむしの傷、⑧関東大震災、⑨市立一中、⑩「小さい」悩み、⑪進路、⑫左翼運動の波、⑬東大航空学科入学、⑭技術将校試験、⑮中島飛行機に入社、⑯空力設計室、⑰東大第二工学部助教授に、⑱第二工学部廃止、⑲米国を回る、⑳ロケット博士、㉑カッパ6号型打ち上げ、㉒ロケット計画、㉓宇宙航空研究所、㉔未踏環境へ挑戦と24日間続いた。
 この連載の最後に、1974年(昭和49年)11月に『未踏環境へのガイド』という書籍を組織工学研究所から非売品として出版したとある。この本はCreative Organized Technologyの技法が一つ一つマンガで解説してあり、非常にわかりやすいものだ。

1984年『独創的発想法』プレジデント社

 1980年代は、独創性、創造性というテーマは官民あげて、あこがれ、願望、目標化していた時代だったと冒頭にあるように、この著作のタイトルにも「独創」という言葉が使われている。この著作では日本民族が独創力をつける方法は、評価能力を身につけることだとしている。この著作の提言は、これからの日本民族は、新聞でも本を読んでも、テレビやラジオ、あるいは他人から話を聞く場合にも、つねに評価能力を養う訓練をすることが必要だ。その話がほかの話と比べてどうなのか、どちらが正しか、どちらが未来に近いのかを積極的に評価し、できれば口に出してその考えは間違っている、自分はこう思う、といった意見をもつべきだ。独創力をもつかもたないかは、まず評価能力があるかどうかにかかっていて、その評価がプラスであれ、マイナスであれ、評価がないよりはるかに有意義だとしている。日本人の共通の問題として、日本人が評価能力をもっていないことを第一のハードルとすると、次のハードルとして、海外で評価されるまでには高い壁があるため、それを乗り越える努力も同時に必要になる。糸川さんは、評価能力と国際性が日本人に要求される大きな宿題だと、この著作では語っている。

1985年『日本はこうなる』講談社

 編集者の影響からか講談社からは、「Creative Organized Technologyフローチャート」の環境研究に絞った本を4冊出版している。環境研究とは世相の研究を通じた未来予測につながるものだが、まさにこの著作のタイトルどおり、日本の未来を予測したものになっている。1985年の発売なので日本がバブル経済に突入する時代のものになる。当時の日本人は商人として世界中にモノを売りまくっていた。24時間働く時代だ。諸悪の根源は日本人だという海外の報道をベースに、無頓着な日本人を糸川さんは批判する。なぜ欧米人から日本人が嫌われるかについては、サイエンスに対する日本の貢献がなく、テクノロジーだけで儲けていることなどを指摘し、欧米のような宗教基盤のない日本には哲学が必要だと主張をする。また、種族工学(Applied Ethnology)の視点から、ベトナム戦争、ソ連のアフガン侵攻、中国のウイグル自治区、あるいは日本の戦前の朝鮮・台湾政策の根本的な欠陥などが解説されている。最後には、宗教に立ちもどりサイエンスを志向する時代だとし、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要があるとしている。

1987年『糸川英夫の頭を良くする法』KKロングセラーズ

 米国からの留学生が、米国の学校は多くの天才と文盲をつくり、日本の学校は多くの平均的人間を作り出すという話からはじまり、これからの日本に必要なのは、学習力の強さのみでなく、学習したものを飛び越えて、創造性の世界に飛び込める人材だとしている。
 この著作で糸川さんが強調しているのは、異質なものを結合する訓練が必要だということだ。19世紀の有名なフランスの数学者、物理学者のポアンカレは、『科学と方法』という本で、それまで人類が行ってきた大発明、大発見などの秘密がどこにあるかを綿密に考察している。独創的なアイデアが生まれる法則は非常に単純で、新しいアイデアは必ず二つの異なったものの結合から生まれるのである。独創的発想=異質の結合、これを糸川さんは「ポアンカレの法則」と名づけた。そのために日本人は、異分野の人との交流を増やし、異質な人とペアで仕事をすることだとしている。これを糸川さんはペアシステムと呼んだ。相手とのコミュニケーションによって、自分の思考の中心がずれる(デセンター)効果が期待でき、柔らかい頭脳をつくることにつながるのだ。

1987年『日本が危ない』講談社

 講談社シリーズの2冊目だ。バブルが膨らんできた1987年に発売されているこの著作には「ゴキブリ日本人の繁栄ボケ」という章まで用意され、世界を荒らしまわる日本の金融力など、当時の日本人の浮かれた状況を客観的にまとめている。かつての大英帝国のように、世界中に経済進出している日本は、地球全体を制覇したかのようだが、結局は日本に帰ってくる。極度の逆境を知らない日本人は脆い。まだバブルが崩壊していない日本に対しての警告は続く。
 世界中のどこでも異教徒として扱われるユダヤ人と日本人は、非キリスト教徒という点で、嫌われる構図が似ているということから、イスラエルの数々の特徴が紹介されている。すでにこの段階では、イスラエルの5つの研究所とのアライアンスがはじまっている段階だ。
 当時の日本はハイテク(半導体)一辺倒だったのか、ハイテクは一点凝縮のケンカからつまずくと予測している。エンジニアはテクノロジーのことしか頭になく、それが社会のニードとかけ離れたものであろうと、相手が256キロバイトならこっちは1メガバイトだという具合に、競争相手より数字を多くすることしか考えない。財務専門家は儲けることしか頭にない。双方ともそれぞれの道で一点凝縮におちいり、全体を見渡すだけの視野をなくしてしまう。そのため全体を見渡す役割のCreative Organized TechnologyのPM論からペアシステムを語った後に、イスラエルがペアシステムの相手として最適だとしめくくっている。

1988年『土壇場の発想』講談社

 バブル景気が絶頂期に発売されたものになる。当時、パックス・アメリカーナ(米国が世界の主導的役割をする時代)に代わって、日本の登壇を期待する風潮が世界にあった。しかし、日本には軍事力がなく、アジア周辺地域との関係からも、パックス・ジャポニカは実現困難だ。しかし世界では、イラン・イラク戦争、英国のIRAの独立運動、イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人の対立、インド・パンジャブ州や中国・チベット自治区、スリーランカなどで発生している宗教絡みの内乱、あるいはフィリピン、アフガニスタン、ニカアグラなどでの政府軍と反政府軍との内戦、朝鮮半島の南北問題、ベトナムとカンボジアの紛争、南アフリカの人種問題、パナマ国内の不安定な情勢と、米国との関係の険悪化などの紛争が多発している。
 日本の国際的役割は、パックス・ジャポニカではなく、これらの世界が困っている問題に率先して尽力することだとしている。糸川さんは1981年に種族工学研究所を設立した。種族工学研究所の英語名はApplied Ethnology Instituteだ。「Applied」とは、(実地に)適用された、応用の、を意味し、「Ethnology」は 民族学を意味するので、「Applied Ethnology」は種族や民族を研究する民族学や文化人類学ではなく、種族と種族がお互いに補完し合いながら共存共栄がはかれる道を探る研究所だ。つまり、モデレータジャパン構想は種族工学(Applied Ethnology)からの提唱になる。糸川さんはこの構想を第2のペンシルロケットの発射実験と位置づけていた。
 1991年に種族工学研究所は閉鎖されたが、イスラエルのベングリオン大学の砂漠研究所とだけは関係を続け、種族工学的な研究を続けていた。そこで生まれたのが、ベドウィンの法則だ。第1のペンシルロケットの発射実験からロケット方程式を生み出したように、第2のペンシルロケットの発射実験として16回ほど行われた「産業人イスラエルハイテク視察ツアー」においてベドウィンの法則が生まれたのだ。そしてこれは、糸川さんが入院する前の最後の仕事となった。その後糸川さんは海外に行くことはできなくなり、長野の上田市に移住し、アースクラブの設立になっていくのである。

1988年『しごとが面白くなる平賀源内』ダイヤモンド社

 ダイヤモンド社の「仕事が面白くなるシリーズ」の一つとして、現代のマルチ人間の糸川さんが、江戸時代のマルチ人間である平賀源内を分析したものだ。平賀源内に欠けていたものは、人間の組織をいかにつくるか、そしてそれをいかに上手に維持していくか、ということに徹底的に無自覚だったことだ。対人関係をみると、自分が必要な時はとことんつき合うが、それが済むとつき合うことを一切しないところがあり、源内は人間関係のつくりかたが絶望的に下手だった。
源内は12歳のころ、17歳の親戚の女の子にいつもかわいがられていた。ところがある日、お寺の裏でよその男と交わっている彼女を見てしまったのだ。そのとき彼女から、罵倒するように「子どものくせになにを見ているの」と怒られてしまって以来、源内は女性を避けるようになってしまったという。糸川さんは、女性とうまくやれるくらいでないと、あるいはその苦労を知っていないと組織の中で上手にやっていけないという。源内は宇宙の半分である女性を理解できなかったことが、自分のまわりに組織をつくり、維持することができなかったことにつながり、孤高の天才として、才能の切り売りをするしかなかったのだと分析している。
 結論として、組織の中でもっとも重要な役割をもっているのが、嫉妬と怨念という持続性の強い情緒の部分であって、平賀源内は現在の私たちのそのことを教えてくれる反面教師だとしている。

1989年『荒野に挑む』ミルトス

 イスラエルの5つの研究機関とのアライアンス(日本テクニオン協会、日本ヘブライ大学協会、日本産業人テルアビブ大学協会、日本ワイツマン協会、日本ベングリオン大学フレンズ)のきっかけから、ネゲブ砂漠のベングリオン大学について紹介したものだ。
 ベングリオン大学とは、イスラエルの初代首相のダビッド・ベングリオン引退後のビジョンを実現するためにできた大学だ。彼のビジョンは、次の一文に尽きる。

「我々の国土の60%は砂漠である。また全世界の陸地の三分の一は砂漠である。我々は月へ行くことより、この砂漠を開発することが大切である」

 海水を脱塩してネゲブ砂漠に導入する、ネゲブ砂漠の豊かなエネルギーを利用するなど、ベングリオン大学の研究は砂漠開発に焦点があてられている。ベングリオンは1970年に政界を引退した83歳のときにネゲブ砂漠のスデーボケルに移住した。その志を引き継いだベングリオン大学では、砂漠を魅力的なところに変えるための数々の研究が行われている。同じように糸川さんは、83歳(1995年)のときに長野県上田市の山の中に移住した。日本列島は山岳、森林に大部分の国土を覆われている。少ない面積の平地部に集まるから土地神話が生まれ地価高騰現象が起きてしまう。鹿児島の内之浦宇宙空間観測所のように発想を大逆転し、山岳と森林に快適な生活の場を創造することで、全世界の山岳と森林をもつ人たちに福音を届けることができると、自らが信州の山の中に移住したのである。移住は組織工学研究会(東京)を閉鎖した翌年のことだった。
 ダビッド・ベングリオンには、砂漠開発の志が引き継がれたベングリオン大学というイノベーションを生み出す組織がある。しかし糸川さんには、山岳と森林地帯開発という志はあるが、それを実現するためにイノベーションを生み出す組織が、いまのところない。一方、山岳と森林地帯の地域創生にはイノベーションを行える人材がいない。イノベーションがないとマーケティングと結合した顧客創造ができない。顧客創造ができないと地域創生は行政の掛け声で終わってしまう。

1991年『新解釈“空”の宇宙論』青春出版社

 糸川さんの本の中で仏教について書かれた唯一の1冊だ。仏教の中でも『般若心経』をテーマにしている。『般若心経』は600巻もの『大般若経』を262文字に圧縮したものだ。これによって多くの人が読めるようになり、その解釈が多様になるところにこそ真髄があるというのが糸川さんの発想だ。糸川さんの独自の解釈は、「色即是空、空即是色」は「正即是負、負即是正」(プラスとマイナスは同じ)と同じで、これは『逆転の発想』のルーツでもある。プラスは誰でも目につくが、マイナスを人はみようとしない。そこでマイナスを直視すれば、もう一つマイナスをつくって逆転し、新しいプラスが生まれるという。もう一つの独自の解釈は「動即是静、静即是動」(運動と静止は同じ)だ。人は一条の光とともに宇宙の根源‶空″に帰っていくと、物理学の正物質と反物質と対比させながら、自らの死生観を語っているのが、この著作の中心的な内容になる。
 最後の結論として、西洋に根差しているユダヤ・キリスト教的(イスラームも加えて)を参考にしつつ、日本文化の特色と特異性や、日本の古典の中に断片的に存在している普遍的な原理などを体系化し、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要があるとしている。

1990年『独創力で日本を救え!』PHP研究所

 科学雑誌『Omni』の1988年から1989年までの連載を本にしたものだ。当時は世界的なジャパン・バッシングが高まり、日米半導体摩擦や農産物自由化が問題になっている時代だった。ここでは、日本はケンブリッジ大学の精神である「誰が最初に考えたか」というプライオリティーの認識がないことが、ジャパン・バッシングの原因だということを指摘している。日本は品質のよい製品を低コストでつくるだけでなく、オリジナルなアイデアも出せる国と評価されるようになるより道はないとしている。
 この著書にはイスラエルの「こびとの1週間」の習慣も紹介され、イスラエル人の独創力の源泉となっているシャバットなども紹介されている。シャバットとは、金曜日の日没から土曜日の日没までの24時間をいっさいの仕事をしない安息日(シャバット)を指す。火を使うことも仕事になるので、前もってつくった覚めた料理が出される。タクシーも、バスや鉄道などの公共機関も動かない。シャバットには頭の針をゼロに戻す効果があるため、7年に1度いままでの専門領域から離れ、1年間のシャバットを送るサバティカルという習慣もある。
 この著作でも糸川さんは、テクノエコノミーからの脱却をめずそうと提言している。
 テクノエコノミーとは、テクノロジーとエコノミーをくっつけた造語だ。もともとサイエンスは哲学の隣にあるベーシックな学問だ。サイエンスの成果が実際に応用されるとテクノロジーになり、経済と結びつく。つまり、サイエンスの左手は哲学と組んでいて、右手はテクノロジーと組んでいる。
テクノロジーは右手を経済と組んでいることで、テクノロジーの成否は経済効果を社会にもたらしたかどうかになってしまう。そのためテクノエコノミー社会では、根本的な哲学がなく貧富の差は人間の悪だとか、それを是正しようという考えが全く欠如した社会になってしまう。このようなテクノエコノミー社会の呪縛を断ち切り、新たな価値観をもった社会を構築するためには、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要があるとしている。

1990年『発想力読本』ガイア

 糸川さんが監修した発想を生み出すハウツー本だ。この著作ではクリエイティブなライフスタイルを生み出す方法の一つとして書く力をつけることが大切だとある。書くことは自分の頭の中にあるものを外に出すことだ。つまり、自分を客観視することができるのだ。誰でも自分にテーマをもちそれに好奇心をもって5年も10年も追いかけていると、1冊の本が書けるともある。たとえば「日本はなぜ戦争に負けたのか」というような大上段にふるかぶったものでなく、「子ども服に描かれた絵柄の変遷」といったような小さな人がやっていないテーマを選ぶと情報感度が抜群に高まる。ものごとに注意深くなるからだ。最終的に本を書かなくとも、そのプロセスが脳への効果的な刺激となる。

1990年『日本創生論』講談社

 バブル崩壊直前の1990年に売り出されたこの本は、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要があるということを徹底的にまとめたものになる。最初はナルキッソスの報いとして、ルーマニアのチャウシェスク大統領、ルイ王朝、アイドルの時代などから、自らの利益のことしか考えず、普遍的原理をもたず、西欧人の理解を超えた異様で不気味な経済大国日本が、現代のナルキッソスにならない保証はどこにもないとしている。科学者の視点で考えると、半導体の基盤は量子物理学だ。基礎科学を突き詰めていくと、哲学・宗教に行きつく。そこでDNAの二重構造を発見したジェームス・ワトソンの日経新聞の次のインタービューを紹介している。

「日本は豊かだが、日本の科学は豊かではない。自前の研究計画を発足させるわけでも、国際研究機関のHUGO(ヒト遺伝子解析機構)に資金協力するわけでもない。日本は基礎科学の発展に決して貢献しようとしない不快感が米国にある。(中略) 日本はある意味で貧しい。日本が豊かになり余裕が出てくれば世界はより多くを期待する。私が日本に対して強調したいのは、いっしょに働き甲斐のある科学をやろうということだ」

 次にケンブリッジ大学の高貴なる精神を紹介している。日本人は静かなる思索と対話から、拝金主義と訣別し、西洋に根差しているユダヤ・キリスト教的(イスラームも加えて)を参考にしつつ、日本文化の特色と特異性や、日本の古典の中に断片的に存在している普遍的な原理などを体系化し、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要があるとしている。

1991年『少年時代 糸川英夫』講談社

 嵐山光三郎が編者、松本零士が画を描いた糸川さんの少年時代の伝記だ。
 内容は幼少時代と父親、南山小学校と母親、第一東京市立中学・東京高校とリンドバーグまでの物語になる。
 編者の嵐山光三郎氏は、一回や二回の失敗を恐れず何度もチャレンジする勇気を読みとって欲しいとしている。松本零士氏にとって糸川博士はあこがれだったようだ。太平洋戦争のあと、大空への夢を失いがちな日本人に、カッパ型、ラムダ型など、あいつぐ国産ロケットの成功は、大きな希望を与えた。少年のころの糸川さんの夢や努力の道は、自分自身の夢を描いたものでもあるとしている。

1992年『八十歳のアリア』文芸春秋

 人生24時間法とは、1日のうちの切れ端の時間を有効に使って、階段を無理なく継続的に登り続け、他人を巻き込み発表の場をつくる方法だ。62歳のときの糸川さんはこの方法で『ロメオとジュリエット』において、モンタギュー伯爵として出演した。
 敗戦後に開発したバイオリンの開発物語は『バイオリンの製作に関する研究』(糸川英夫、熊谷千尋)という論文になったのは1952年(昭和27年)9月のことだ。安いニスをバイオリンに塗って、ここで一旦製作は終わり、糸川さんは米国に渡米した。実はその後も、バイオリンは人生24時間法で日々改良し続け、45年後の糸川さんの満80歳の誕生日に、『音楽による逆転の発想』と題したサントリーホールでのコンサートで披露された。この著作はヒデオ・イトカワ号というバイオリンをつくり出してから披露するまでの45年間の物語をまとめたものになる。

1992年『大予測 10年後の人間環境』経済界

 糸川さんが監修した1992年から10年後の人間環境を予測した本だ。
 もし人工知能が普及したら離婚率が上昇する、もし風力発電の導入に本格的に取り組めば原子力は過去の遺物になる、もし富士山が噴火したら宝永噴火を超える大爆発になる、もし次に関東で大地震が起こるなら震源地は小田原になる、といった点の切り口からの未来予測が50個掲載されている。
監修の糸川さんは「はじめに」で、サイエンスそのものが非常に細分化してしまったため、自分の専門領域以外の分野については何をやっているのかがわからなくなっている。いまのサイエンスはニュートンやガリレオやコペルニクスの時代のように、横につないで、新しい原理や大法則を生み出しにくくなっている。なぜなら、最初は本当かどうかわからないけど、筋書きを作ってみて、その筋書きどおりに各場面が合えば、結論が出せるようになるという、サイエンスのストーリーをつくる人が現代はあまり尊重されていないからだ。どんなサイエンスも最初はみんなおとぎ話で、そのストーリーが正しいかどうかはみんなで検証すればいいのである。いまのサイエンスにはそれが必要なのだとしている。そしてこの著作には、いろいろな分野の科学者がどんな研究をやって、それがわれわれの将来にどんな影響を及ぼすかというシナリオがたくさん書いてあるので、読者がそれらを横につないでイマジネーションを膨らませ、それぞれのストーリーを考えるのが一番いい読み方だとしている。また、テクノロジーは経済成長を目的に進歩を遂げたが、今後は人間をこれ以上豊かにするのではなく、精神的に豊かにするというものが出てくるはずだとしている。

1992年『逆転の知恵』同文書院

 宇宙論のスティーブン・ホーキング、利己的遺伝子のリチャード・ドーキンスとともに、世界のスーパーサイエンティストの一人としてあげられるジェームズ・ラブロックのガイア仮説を、ラブロックの来日に合わせて紹介したものだ。
 ロケット開発、宇宙開発に携わってきた張本人である糸川さんとラブロックが、コスモスに地球外生物はいないと断定する理由から、地球のホメオスタシス(恒常性)を保つ藻の話まで、地球全体をホリステック(全体・関連・つながり・バランス)にとらえるべきだという話におよぶものだ。特に注目すべきは、「Creative Organized Technologyのフローチャート」におけるインサイトの対象が、いままで人間という前提だったのが、この著作ではガイアを構成する重要な珪藻類においていることだ。珪藻同士はコミュニケーションできるし、人間同士はコミュニケーションできる。しかし、人間と珪藻類はコミュニケーションできないため、たとえば「人間が炭酸ガスをたくさん排出したがまだ大丈夫、太陽エネルギーは十分きているので、われわれはまだ100年ぐらいは何とかやっていける」というような珪藻類とのコミュニケーションができないのが現在だ。エジソンの電話機のイノベーションが遠くの人と人とのコミュニケーションを生み出したように、人と珪藻類にコミュニケーションを拡張する必要がある。Creative Organized Technologyのインサイトを、ガイアを構成するすべての生物に拡張するというスタンスが明示されたはじめての書籍だとも言える。

1992年『復活の超発想』徳間書店

 この本から徳間書店とのつながりができ、糸川さんの最後の『21世紀の遺言』までの4冊が出版されることになる。この著作では『逆転の知恵』におけるインサイトを、ガイアを構成するすべての生物に拡張するというスタンスをトランスエージェント(TA)とし、より詳しく解説したものになっている。
 この著作では、人間以外のガイアを構成する生物とのコミュニケーションを段階的に解説している。まずは沖縄慶良間諸島のクジラだ。糸川さんは、クジラ同士のコミュニケーション手段である鳴き声(クジラの歌)を採取し、ヤマハ研究所で分析してもらった。その結果、クジラの鳴き声を編曲すれば、バイオリンやチェロで演奏することができることがわかったという。TAのトランスとは、10万ボルトの電気を家庭で使えるように変換するトランスフォーマー(変圧器)のトランスを指す。それをガイアの生物と人間社会との伝達に置き換えて、TAという言葉を造語した。
 現在の人類は、共存しなければならないガイアの生物の間に、TA(相互受容)が存在しない状態だ。名もなき草木虫魚、すべての命あるものの生命の歌を、しっかりと聞ける精度の高いセンサーを私たちは一人ひとりが身につけなければならない。そのためにはサイエンスがまず、人とガイアの声をつなぐTAをつくり出さなければならない。そこに巨大なイノベーションの可能性(インサイト)が眠っているというのが、この著作の主張だ。

1993年『セオリーゲームからの脱出』青春出版

 この著作が発行されたのは、1993年でバブルが完全に崩壊し、日本経済が不況のときだ。そこから脱出するためには、いまでのセオリーを脱出する必要がある。それができなければ、米国の『タイム』『ニューズウィーク』、英国の『エコノミスト』の予測のように日本の‶長期停滞″は避けられない。
 習慣というのは、朝起きると自分で考えないでもバス停のところに足が向いているとか、部屋に入ると自動的にスイッチを入れるとか、ほとんど考えないで身についている行動だ。人間は行動を習慣化することでエネルギーを節約している。これはたいへん便利だが、人間の能力の減衰させる障害でもある。逆境におちいるとことで、創造性、クリエイティビティ―が脱出手段となり、こういう習慣を人類は打ち破ってきた。バブル崩壊後の長期経済停滞という逆境は、創造性、クリエイティビティで脱出することができるということを、さまざまな例で紹介しているのがこの著作だ。しかし日本は、バブル崩壊後の長期経済停滞においても、いままでのセオリーゲーム(習慣)を変えることなく、失われた30年となってしまったのである。そういう意味ではこの著作で書かれていることは、非正規雇用を増やしてやり過ごした当時の日本には響かなかったのだろう。

1993年『私と戦闘機 隼』文春ノンフィクションビデオ

 この動画は1993年にビデオで発売され、2006年にDVDとなり『私と戦闘機 隼』(コニービデオ)として再び発売されている。九七戦闘機、隼、鍾馗の一直線の翼を生み出すことになった背景や、他国の飛行機に対する糸川さんのコメント、最後にインターセプターの使命が果たせなかったことなど、戦闘機の設計者から太平洋戦争の歴史証言を聴くことができる貴重なものだ。ビデオやDVDが記録媒体のため、再現が難しい場合もあると思うが、これを視聴していただくと、当時の糸川さんの感覚が実にリアルに伝わるおススメのノンフィクション動画だ。

1993年『糸川英夫の創造性組織工学講座』プレジデント社

 糸川英夫著作の中で1冊を選べと言われたら、私は躊躇なくこの1冊と補助教材として『私と戦闘機 隼』の視聴をおススメする。この著書は主に、Creative Organized Technologyの全体のインサイトから使命分析、イノベーションの中で「組み合わせ」の位置にあるシステム合成/システム分析、それに続く「試す」の位置にある失敗研究、決定、実行、フィードバックが解説してある。「Creative Organized Technologyのフローチャート」「オルタナティブを発見するチャート」の2枚を印刷し壁にでも貼って、この著作を一読していただくとより理解が深まると思う。
 この著作にある「人間学 情緒工学序説」では、Creative Organized Technologyが、「人間=A+BX」(常数項Aは本能や情緒、変数項BXは後天的環境からの学習や理性)を基本方程式としていることからはじまる。特に常数項の「A」の中にある情緒的な要素が重要だと考え、それを探ることはサイエンスだとしている。情緒のうち喜怒哀楽は持続しないが、嫉妬は死ぬまで(一世代だけ)持続し、怨念は世代を超えて残る。民族紛争の背景にあるのはこの怨念であるとしていることからも、Applied Ethnology(種族工学研究所は1991年に閉鎖されたが)は、Creative Organized Technologyの人間学(情緒工学序説)に結合していることがわかる。また、情緒工学序説はCreative Organized Technologyから派生したものだが、いまの段階では双方が混然としているので、ボーダレス化した世界での相互理解を深めるうえでも、相手の深層心理を知る必要性(種族工学的な民族紛争だけでなく)はいっそう高まるとし、理論体系の整理と発展を促している。

1993年『えっ!糸川英夫が万葉集にいどむ』同文書院

 糸川さんはさまざまな著作で、西洋に根差しているユダヤ・キリスト教的(イスラームも加えて)を参考にしつつ、日本文化の特色と特異性や、日本の古典の中に断片的に存在している普遍的な原理などを体系化し、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要があるとしている。このことを具体的に実現するために、日本語のルーツとも言われる日本の古典万葉集を選び、ユダヤ・キリスト教的(イスラームも加えて)を参考にするという意味で、旧約聖書との対比を試みているのがこの著作だ。
 糸川さんの行動を表面的にしか見ないと突拍子もなく感じてしまうが、スタンスは一貫しているのである。『糸川英夫の創造性組織工学講座』の最後では、未来予測に関してのみいえば、これから日本が抱えるインサイトの一つは国際化を実現するシステムの開発だとし、「万葉集からのメッセージ」を準備中だとある。つまり、日本が国際化していく中で、世界に示せるもの(哲学)が必要で、万葉集にそのヒントがあると言っているのだ。
 万葉集の山上憶良と旧約聖書の箴言を比較し、貧富の格差の問題と、物質的な富と精神的な正しさとは正比例しない。貧しい人の方が富んでいる人よりも精神的に豊かになる、という宇宙の大法則を、万葉集と箴言の両方が言っていることがわかる。ならば、山上憶良の歌を全部英訳し、フランス語やドイツ語で全世界に知らせることで、1000年前の日本でも、資本主義自由主義の一つの欠陥を看破していたことを伝えることができ、日本人の哲学とユダヤ・キリスト教の哲学がお互い理解し共感共鳴することができるとしている。また、人間が人間を愛することは、男女だけでなく、男同士、女同士、日本人と英国人、日本人とフランス人でも、誰でも生じることで、聖書では新約のテーマになるが、万葉集はその表現の深さにおいて、多くの例が見つけられるともある。
 ここでは糸川さんの国際化の経験として、英国人とフランス人との二人の交友を紹介している。一人はジェーム・ラブロックで、彼のガイア仮説と民族紛争の法則を科学的に法則化した糸川さんのベドウィンの法則を、お互いが共感し理解できた。もう一人は、ブラジル生まれのマルティーヌ・ウーという女性で、アウシュビッツでの600万人のユダヤ人虐殺を風化させないようなセンターをつくる、というプロジェクトを立ち上げた人とお互いが共感し理解できた。つまり言葉ではなく、この二人との関係のような、お互いの思いやりや共感や共鳴が国際化のあるべき姿で、スタートラインであると同時に終点でもあるという。

1993年『一日一発想366日』講談社

 この著作は糸川さんが毎日一発想を行った内容を列挙したものだ。一つ一つの発想が参考になるが、最後の12月31日は次の発想となっている。

「結局のところ、日本人はどうしたらいいのだろうか。ジェームス・ワトソンはいかにもキリスト教の思想『汝、自らを愛するがごとく、隣人を愛せよ』をバックボーンにもつ人らしく、寛容にも、その答えをきちんと明示してくれている。DNAの構造を解明したワトソンの科学はある意味で人類の未来を左右するだろう。ワトソンはいう。『日本はある意味で貧しい。日本が豊かになり、余裕が出てくれば、世界はより多くを期待する。私が日本に強調したいのは、一緒に働き甲斐のある科学をやろうということだ』」

 このように糸川さんの本の最後は、西洋に根差しているユダヤ・キリスト教的(イスラームも加えて)を参考にしつつ、日本文化の特色と特異性や、日本の古典の中に断片的に存在している普遍的な原理などを体系化し、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要性につながる話が多いのである。

1994年『人類は21世紀に滅亡する!?』徳間書店

 糸川さんは1994年1月1日にものにつまずいて倒れてしまったことで、2週間ほど昏睡状態になった。その後、長野の自宅近くの長野県の丸子中央病院に入院することになり、そこで書かれたのがこの著作だ。
 タイトルが刺激的だが、1990年に東京大学出版会から出版された『世界の人口』(河野稠果著)の「世界人口増加の長期的推移」から、世界の食糧と人口の関係がどうなっていくのかを問題提起としたものだ。世界人類は紀元前8000年前(いまから1万年ぐらい前)に地上に散開して以来ほとんどゼロ増加に近い状態だった。しかし、1750年前後に上昇をはじめ、2000年あたりから垂直に近いかたちで上昇し、21世紀の前半には総人口が100億人を超えてしまうという。はたして地球は100億の人類を乗せることができるのか。環境問題や食糧問題、地域紛争は大丈夫だろうか。このような現実の中、糸川さんは日本人がなすべきことを、次のように考え、ロジックを発展させている。

「世界全体の富の配分を、旧共産国のように国家に集中するものでなく、資本主義社会のように企業群にもつのでもなく、『個人を中心とした文化センター』にもつような社会システムへとシフトしておくべきだ」

 1994年に発売されていることから、バブル崩壊後の平成不況と資本主義の欠点などをまとめ、未来のイノベーションへの話になり、戦後の世界的好景気をつくったのは、半導体、レーザー、デジタル技術の3つだとしている。しかしその後は、画期的なイノベーションが表れておらず、たとえばマイクロアルジェ(微細藻類)を使った新しい農業、ガイアの生物とのコミュニケーションなどをイノベーションの例として示している。また、個人を中心とした文化センターをもつために、ポピュレーションセオリーが必要だとしている。
 最後に自身のスタンスは科学者だとし、日本はサイエンスとテクノロジーが混同していることが問題だと指摘している。自身のサイエンスの実績として、偏微分方程式の境界値問題、音響インピーダンス理論を例とし、日本の科学と技術についての論考を書く予定だと最後に一文があるが、残念ながらそれは出版されることはなかった。

1995年『糸川英夫の人類生存の大法則』徳間書店

 1993年7月から1年半にわたって、雑誌『サンサーラ』(徳間書店)の連載を書籍化したものだ。ベドウィンの法則が生まれた経緯であるイスラエルのベングリオン大学、オランダのデルフト大学、米国のアリゾナ大学の共同レポートを紹介している。そのレポートは、ベングリオン大学がベドウィン族、デルフト大学がマサイ族、アリゾナ大学がショショーニ族(アメリカインディアン部族の一つ)のマジョリティによる定住化政策の影響を調べたものだ。いずれの種族も物質的な腐敗(Substational Corruption)が起き、ついには種族全体が絶滅の危機に瀕する。なぜ遊牧民を定住化させるとこのようなことが起きるのか。糸川さんはその原因をリーダーシップの不在と考え、ベドウィンの法則を科学的な法則としてうち立てたのである。
 英国がオーストラリアを占領してから先住民のアボリジナル(アオボリジニとオリジナルの造語)をアリススプリングスという地域に押し込めて、一日一人あたり10ドルぐらいの補助金を支給してその地に定住させた。するとすぐに、物質的な腐敗(Substational Corruption)がはじまったという。このように、ベドウィンやアボリジナルのライフスタイルを都市型に変えると、それまでの知識や知能は役立たたなくなり、知識の体系をつくり直さなければならない。同じように、いままでのリーダーシップのほとんども役立たなくなってしまう。遊牧民は、人々をリードする資質をもつ人を必ずリーダーとして選び、そのリーダーの指示にしたがって安全に移動しているのだ。古くは旧約聖書のモーゼがそうだった。砂漠の中では、みんなが助け合わないと死んでしまう。したがって、ベドウィンのテントには東西南北に入り口があり、旅人が疲れていたらどこからでも入ることができる。リーダーは危険を予知し種族を守る。そういうベドウィンの中では犯罪はなかった。困った人は助けるというモラルがあるからだ。またこの著作では、ベドウィンだけでなく、アボリジナルのIQテストの詳細からも、民族自決の法則(第1法則)と自発的リーダーシップの法則(第2法則)というベドウィンの法則を論証し、さらに日本の明治維新と現在のロシアをベドウィンの法則で説明している。後半は資本主義から科学主義として不況の克服方法に話は移るが、この著作は糸川さんの本の中で、ベドウィンの法則がもっとも詳しく解説された1冊になる。

1995年『逆転発想のビジネス哲学』チクマ秀版社

 糸川さんはビジネスの基本をセールスと考えている。
 この著作は営業のための人生論と言ってもいいだろう。実はこの著作は、「Creative Organized Technologyのフローチャート」の現状分析を使って書かれている。現状分析とは、対象のものの構成要素を調べることを指す。たとえば時計を現状分析すると、時間軸を決めるもの、時間の表示装置、使うエネルギー、エネルギー源という4つの構成要素に分類できる。糸川さんは営業という仕事を、第1章知ること、第2章分析すること、第3章創りだすこと、第4章行動することの4つの構成要素に分類した。このように本をつくることにもCreative Organized Technologyは役立つ。
 第1章の知ることででは、売る相手を一人に絞り込んで知ること、第2章の分析することでは、何を誰のために売るのかを分析すること、第3章の創りだすことでは、モノにはそれに合った売る方があること、第4章の行動することでは、良き営業になりたければ師匠を探せという話から、Creative Organized Technologyのプロフェッショナル・マネージャーのようなゼネラリスト的な発想が、営業にも必要だ、という結論にいたる。
 途中、日本文化の特色と特異性や、日本の古典の中に断片的に存在している普遍的な原理などを体系化し、日本の哲学をスタートライン(根っこ)にして、サイエンス、テクノロジー、そしてエコノミーという流れでとらえ直す必要がある話も当然でてくる。

1995年『糸川英夫の人生に消しゴムはいらない』中経出版

 糸川さんにバイオリンの製作を依頼した大学院生の熊谷千尋氏は、この本を読んだ後の私との会話で、本の中に「消しゴム」の話がないのに、タイトルは「人生に消しゴムはいらない」となっていると笑っていたことを思い出す。この本は、師をもつことの重要性を語っている点に特徴がある。いい師は人生最大の収穫になるというのだ。糸川さんにとって師の存在は大きかった。人生の師は、ただだまっていたって永遠にみつからない。幸運は決して無為無策の人間に微笑みを与えてくれない。問題意識を研ぎ澄まして、自分にとってもっとも必要とする人生の師の存在を積極的に探していく姿勢が必要だとしている。ここで紹介しいている糸川さんの師は、フランス文学者の渡辺一夫氏と谷一郎先生の二人だ。また、自分が師となった例として、バイオリンつくりのSさんと破天荒なAさん、若き日の本田宗一郎氏を挙げている。
 糸川さんによると、若き日の本田宗一郎氏は、オートバイや自動車をつくる上でもっとも重要な燃焼理論について学びたいと、糸川さんのところをたびたび訪れていたようだ。そのとき糸川さんは、仕事は良きパートナーを見つけること、決して一人でしないこと、とアドバイスしたという。本田宗一郎氏が、燃焼理論の師を求めて浜松高等工業(現、静岡大学工学部)の聴講生になる前の話だ。糸川さんと本田宗一郎氏とのこのときの出会いは、1936年から1941年ごろ(1942年6月か8月に糸川さんは中島飛行機に辞表を出している)と推測できる。中島飛行機でバリバリの飛行機設計者だった糸川さんと、東海精機重工業株式会社時代の本田宗一郎氏は出会っていたのだ。(まず、本田宗一郎。はじめから『つくる喜びの人』。いつも『やらまいか』の人 1936年

 糸川さんはこの著作で、本田宗一郎氏(1906年生まれ)は小学生のときに浜松の練兵場での飛行機ショーに大きな感動を覚えたという話から、オートバイ、自動車に続いて飛行機をつくろうとしていたのではないかと書いている。偶然だが、糸川さんの4歳とときの青山練兵場での経験と同じく、1917年(大正6年)10歳の本田宗一郎氏は、浜松の和地山練兵場でアート・スミスの曲芸飛行を松の木によじ登って見ていたのだ。同じアート・スミスの飛行大会がきっかけになり、糸川さんは飛行機屋になり、本田宗一郎氏と出会い、その弟子たちがジェットエンジンによるHondaJetを生み出したのだとしたら、なんと感動的な物語だろうか。この物語は、企業という枠を超えて、日本でイノベーションに格闘している人たちに語り継ぎたいものだ。(物語共有の法則)

1996年『21世紀への遺言』徳間書店

 糸川さんの最後の1冊がこの本だ。
 1994年に発売された『人類は21世紀に滅亡する!?』の続編がこの著作になる。この著作はポピュレーションセオリーを解説したものだが、田中一氏のソフトマティリアル・パスという考え方も紹介している。田中一氏は、京都大学で湯川秀樹博士の助手を長くつとめた後、1958年に北海道大学理学部の教授に就任、1979年には北海道大学情報処理研究センターの所長になっている。このソフトマティリアル・パスという考えは、北海道大学の十数人の研究者が集まって議論した中から出てきたものだという。
 まず田中一氏は、自然の構造を無機的自然(主系列)、生物(2次系列)、人間(3次系列の3つに分けている。

・無機的自然(主系列):生命のない世界、ビックバンからはじまった生命のない物質の系列。宇宙―銀河系―天体―マクロな物資―原子分子―原子核―核子―基本物質
・生物(2次系列):主系列から生命が出て、DNA、RNAを持った生命系が出現した世界。バクテリアからはじまって植物など、さらに動物などを中心とした有機体の系列。生物―種―個体―細胞
・人間(3次系列):2次系列の有機体の中でも、知識をもって著しく運動性が激しい人類という系列。生物系を知性体(人類)と人類でないものに分離

 1次系列でなく2次系列に新しい科学技術を求めれば、資源枯渇と環境汚染を防げるのではないか、特に植物の糖合成を検討することが重要だとするのが田中一氏の考え方だ。従来の主系列の鉱物などの材料(ハードマティリアル)と重工業と比較し、2次系列の植物の糖合成から得られるような有機物を材料(ソフトマティリアル)とした社会への転換をソフトマティリアル・パスとしている。タンパク質の種類は多く、生産設備をタンパク質(ソフトマティリアル)で構成することも可能だ。このように植物の光合成から学んだ技術が、資源というものの概念をすべて塗り替えてしまうのではないか。従来の重化学工業が生み出す素材とは違うタンパク質と太陽エネルギーによる文明では地球のエントロピー収支も崩れない。これが自然のあり方に沿った新しい科学技術の方向になるのがソフトマティリアル・パスだ。
 しかし糸川さんはソフトマティリアル・パスが、バイオテクノロジーが主役になってしまい、生命の本質に人間が手をふれることだけは避けた方がいいしている。なぜなら、生命系が一つの安定した種に到達するまでには、何万世代もかかって環境と自分の適応する部分をみつけて自然淘汰は行われているのだから、その自然淘汰の途中をカットすることは危険だという考えがあるからだ。バイオテクノロジーに頼り切らないソフトマティリアル・パスを築くのがいい、というのが、糸川さんの主張になる。

 以上の57冊にプラスして、1974年11月に非売品として組織工学研究所から出版された『未踏環境へのガイド』(Creative Organized Technologyの技法が一つ一つマンガで解説してあり、非常にわかりやすい)が加わった58冊がすべての著作一覧だ。
 こうして一覧にしてレビューを読み直してみると、改めて糸川さんが伝えたかったことが浮かびあがり、最後の遺言として『日本の科学と技術についての論考』を出版したかったという気持ちが、痛いほど伝わってくる。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。