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『キリスト教の本質』宗教をシステムでとらえる(世界の歴史)

 キリスト教を理解することは、西洋文明を理解することに密接に結びついている。しかし、キリスト教を教えとして理解するだけでなく、システムとして理解することが、その本質の理解につながるとしているのが本書だ。

 キリスト教には無数の宗派、分派がある。それぞれが互いに異なり、「なすべきこと」を指導者になりたい者たちが人集めのために工夫する。すべての宗派において「なすべきこと」を宣伝して宗教団体を作り出すというところが共通のシステムで、これがキリスト教の本質だという。

 このことをパウロを例に解説すると、「コリントス人への手紙第一」において、ギリシア商業都市コリントスでの教会の問題は、「私はパウロにつく」「私はアポロスにつく」「私はケファ(ペテロ)につく」「私はクリストスにつく」(一章十二節)と分派が生じていることだった。ここでパウロは、神につながることを防ぐため、「神につく」という選択肢を否定しやすくするために他の選択肢を並べるというテクニックを指導において使っている。さらに「神格化したイエス」は処刑されていないことを「私たちの主イエス・キリストの現れ(アポカリュプシス)を私たちは待ち望んでいる」(一章七節)と表し、不在状態にしている。このように不在である神(イエス)をダシにして、自分に従う宗教集団を作り出し指導者になっているという宗教ビジネスマンなのだ。これこそがキリスト教の本質だと筆者はいう。

 さらにパウロは、イエスについての情報を区分して、一部だけを尊重し、残りを無視するという差別的な扱いをする。これは「パウロが決断した」ということは、他に説明は必要ないことを意味する。パウロはイエスのどの面が神で、どの面が神でないかを有効に判断できる位置づけとなり、神のあり方を捌くという神以上のものになる。つまり、概念ないしイメージしかない神について、社会的に魅力あるようにうまくあげつらうことができる者が、大きな規模の宗教団体の指導者になれるのだ。

 このようにキリスト教は、「神なし領域」「救われていない者たちの領域」で展開した宗教運動である。実は他の宗教もすべてこの2つの前提条件があるからこそ出現する。

 ローマ帝国の社会は、人間が上下の2層に区別されている。上層が自由な貴族、下層が隷属的な一般人だ。同じようにキリスト教も、上部には指導者(聖職者)がいて、下層に一般信者がいる。ローマ帝国がキリスト教を国教とすることは、ローマ帝国のメンバー全員が信者になることを意味する。その結果、キリスト教的なローマ帝国の文明社会ができあがる。下層の内部には、「貴族の信者」と「一般人の信者」という上下2層ができる。

 西洋近代の動きは、このようなキリスト教の支配からいかに逃げるかの工夫になっていると考えるとわかりやすい。たとえばロマン主義は、「人間中心で、人間が素晴らしいと思うものはどれもそれなりに素晴らしい主義」だ。人間中心とは、教会の権威に屈しないことを意味する。

 宗教と約されている「religion」は、「人集め」という意味と「(神などに)繋がっている」という意味があるとされていると考えると、キリスト教の本質が理解しやすくなる。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。