「B29は残念ながらりつぱです」皇太子明仁へ宛てた皇后からの手紙。

『昭和23年冬の暗号』第4章抜粋
 (昭和20年8月、皇太子明仁は奥日光に疎開していた。以下、8月30日、マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つ前の日の出来事…)

 その晩、昭和天皇と良子皇后は寝室で自らの行く末を案じつつ、奥日光にいる十一歳の皇太子明仁が敗戦により巻き込まれるかもしれない困難について話し合い、翌朝、皇后は手紙を書いた。

  このごろは奥日光の方で又 変はつたところでおすごしですね 学生とも一緒に いろいろ していらつしやるのでせう 沼津の時のやうなのでせう
  おひるねも ありますか 昨年はできないで おこまりでしたね
  こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつてゐます B29は残念ながらりつぱです
  お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりません しつきりなしです
  ではくれぐれもお大事に さよなら
  三十日午前九時半 たゝより
  東宮へ

 奥日光では、皇太子明仁の護衛役の高杉中佐が、儀仗隊司令の田中少佐とアメリカ軍が攻めてきたときにどうするか、真剣に対策を立てていた。宇都宮の師団によるクーデターの噂は自然に消えたが、アメリカ軍が皇太子明仁を強制的に拉致するかもしれない。そうなる前に手を打たなければいけない、と不安にかられていた。
 金精峠は自動車では越せない。会津若松方面に出る道も山道であり自動車では無理だ。馬や駕籠はどの程度使えるのか。車馬ともに通行不可能であれば歩いて行くしかない。調べた結果、駕籠と徒歩ならば可能である。夜間の行動も可能である。そう結論が出た。駕籠は儀仗隊の兵隊が交代で担ぐことにした。
 奥日光は栃木県だが、群馬県、福島県の県境に接していた。当初は金精峠を越えて群馬県から長野県の松代(まつしろ)へ向かう計画だったが、福島県側から会津若松へ向かう案が最適とされた。松代には地下トンネルをはりめぐらせた土木工事により大本営が造営されていたが、軽井沢を通れば目立つし、そうでなければ志賀高原を越えなければならない。距離が遠すぎた。会津若松ならば、一晩でいけない距離ではない。
 軍人たちは皇太子明仁を担いで深夜に行動すればよいが、東宮侍従のグループをどうするか。
 高杉中佐は侍従たちに集まってもらい、計画を打ち明けた。
「皇太子殿下をアメリカへ強制拉致する計画があります。よって、殿下を一時、会津若松へご避難遊ばされ時間をかせいで、その間は身代わりの生徒をアメリカ軍に引き渡すことを考えています」
 侍従のひとりが反対した。
「殿下が会津若松へお移りになることはやむを得ない措置だと思いますが、学友をお身代わりにして苦境に立たせ、殿下のご安泰をはかるのは卑怯な行為として後世のそしりを受けるのではないか」
 学習院の同級生を〝影武者〟にするという提案は、もちろん、生徒たちにまだ説明していない。すでに身代わりの生徒の目星はつけてある。必ずしも顔や身長が似ている必要はない。誰もがあの子かと思う、成績が優秀でなにをやってもいちばんという生徒がいた。その生徒は自分が〝影武者〟の第一候補にされていたことにはまったく気づかずにいる。
 高杉はその生徒の名前を挙げ、穂積東宮大夫に向かって、懇請した。
「お身代わりに立つ生徒も、父兄も、君国のためならむしろ一世一代の光栄と存じて進んで希望すると思いますが」
 穂積は、部下の侍従たちを見回してから、同意する考えを明らかにした。
「なにしろ宮内省との連絡が取れない。わたしも着任したばかりで事情もよくわからないのでこの際、軍の意見にしたがって、殿下のご安泰をはかることが第一でしょう。歴史は南北朝の例もあり、お身代わりもわが国民性からしても大丈夫でしょう。皆さん、どう思いますか」
 侍従グループからそれ以上の反対意見は出なかった。
 その後、高杉中佐は頼みの情報の綱である有末中将にようやく連絡が取れた。有末は八月二十八日にアメリカ軍の先遣隊を厚木の飛行場で迎え、さらにマッカーサー連合国軍最高司令官が三十日に到着するのである。高杉中佐のことを忘れていたわけではないが、てんてこ舞いだった有末は、先遣隊の様子からアメリカ軍が皇太子を強制拉致してアメリカへ連れて行くようなことはあるまい、と判断していた。
 奥日光の緊張は解け始めていた。高杉中佐の悲壮な決意は、刻々ともたらされる新しい情報によって安堵へと変化していった。マッカーサーが厚木の飛行場に着いたという情報も入った。ミズーリ号での降伏文書の調印式も終えた。皇太子明仁は、無事に過ごしていることを伝えるために両親に宛て手紙を書いた。
 昭和天皇の返信が残っている。

  手紙をありがたう しつかりした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
  国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ
  我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
  我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
  明治天皇の時には 山縣大山山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです
  戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので
  涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
  穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ
  寒くなるから 心体を大切に勉強なさい
  九月九日  父より
  明仁へ


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