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【倫理哲学】十代の若者よ、恋愛しなさい。

 ふと小学校、中学校時代を思い出すことがある。小学校の頃は好きな人がいてもからかわれるだけだし、恋愛をすることはみんなから笑われるだけのことだった。しかし、クラスのスクールカースト上位の人達はこっそりと恋愛していることを、私は知っていた。「誰かと誰かが付き合っている」という噂は、その秘匿さ故に広まるものの、当の本人たちをからかう者は誰もいない。からかったらいじめの対象ともなりかねない。そんな小学校を過ごした。

 中学校になり、性を気にする年頃に入った。本音を言えば、好きな人はたくさんいたし、性欲なども初めて気にした時期だった。この性欲のままに、誰かを好きになってそのまま大人になって、子どもをつくって、家庭を守るために、人はきついながらも働くのだろうな、とぼんやりと考えていた。それが人生の正解のように思っていた。都会の進学校は別として、田舎の普通の小中学校は共学である。強制的に男女が同じ建物内で半日を過ごし、お互いを知っていく。この時期に好きな人ができない人はいないだろうと考えてしまう。しかし、私はある意味「おバカキャラ」を演じていたというか、《《おバカキャラでいたほうが楽だから》》という感じで、恋愛からは遠く離れた存在になっていた。

 好きな人はたくさんいた。しかし、私は友人程度にしか過ごせなかった。単に「付き合う」と言っても、まだ未成年で、親の小遣い程度でしか遊べない。そして私は塾に通っていた。勉強をして、いい高校に入ることで何か意味があるのか、正直わかっていなかったが、親の熱心な教育指導もあり、中体連が終わった後にはずっと塾に行っていた。勉強する意味など何もわからずに。

 中学校時代に好きだった人に、徹底的に告白でもすればよかったと今なら思う。強制的に男女が入り混じる状態というのは、高校までの教育機関の中でしか行われないのだ。

 地区が同じで、同じ世代なら、同じ小中学校に入る。そこで知り合った好きな人と、自然と遊ぶ。これは不道徳なことかもしれないが、性についても、ぎこちなく学んでいく、そしてその人が大切な人になる。それが普通だったのかもしれないと、今なら振り返って思う。

 高校では勉強が忙しくなった。勉強するのが当たり前の高校に入り、好きな人もできたし告白もしたが「告白した後にどうやりすごせばいいのだろう?」という疑問も付きまとった。要は自立した人生を送っていなかっただけだった。それを見透かされたか、ふられた。相手も頭が良かったのだろう。告白した、その先は? と悩んでいたことを見透かされた。その後、その女性のブログには「重苦しい朝が明けた」と書かれており、何も考えずに告白して、傷つけてしまったことを思い知った。

 バレンタインデーの本命のチョコレートだって貰ったこともある。逆に心臓がバクバクして貰ってすぐに制服の内側に隠した。小学生の頃だったが。

 部活の後輩のマネージャーに、帰りの電車の中「和音先輩! 第二ボタンをください!」と言われ手渡したこともある。高校の卒業式が終わった後のことだった。

 大学受験の現役の時の、受験が終わった帰りのタクシーの中、友達だと思っていた女性に、「メールアドレスを教えてほしい」と震える声で言われた。当然オーケーを出して、メールアドレスを交換したが、私が大学に落ちてしまい、浪人生になり携帯電話を持たなくなり、連絡することはついぞ無かった。

 女性から慕われる瞬間は、充分にあったのだ。なのになぜ、今は一人なのだろうと考える。恐らく受験勉強をしすぎた。そして講師を始め、人間を疑うようになった。小中高と、一生付き合っていける女性はたくさんいたはずだった。親しみを持って接することのできる女性にはたくさん会ってきた。だが、私は自分が自立していなかったために、十代の最大のチャンスを逃し続けた。だから、今、小学校、中学校、高校に通う人に心の底から大声で叫びたい。

 好きな人がいたら告白しなさい。何人でもいい。告白しなさい。友人から茶化されても、冷やかされてもいい。十代という、強制的に男女が入り混じる空間にいる間に、最高のパートナーと繋がりなさい。その繋がりは、あなたを一生支えていくものだから。

 哲学とは言い難い締めとなってしまった。しかし長ったらしい演説も嫌われるであろう。十代の若者よ、生きたいままに生きなさい。勉強なんかいつだってできるから。

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