ふとした日常の幸せを残すこと
あれはどれぐらい前だったろうか。
必死に塾講師のアルバイトの冬期講習で働いて、貯めたお金でOLYMPUSのPEN Liteを購入した。
当時宮崎あおいがCMをしていたことと、もともときれいな写真を撮ってみたいと思っていたこともあって奮発して購入した。
そんな僕が、最近になってもう一度写真を撮りたいなと思うようになった。
「非日常」を切り取っていた僕
当時の僕はこのOLYMPUSのPEN Liteをたずさえて、いろんなところに行って写真を撮った。
今思い出しても写真を撮ることも、どこかにいくことも、すごく楽しかった。
京都が好きだから、そこでの綺麗だなと思ったものの写真を撮ったりした。
きっと当時の僕は、そこにある「非日常」を撮ることが嬉しかったのだろう。
楽しかったし、綺麗に写真が撮れた時は嬉しいし、それはそれで素敵な時間の過ごし方をしていたんだろうなと思う。
もし僕が今から同じ時間に戻ってもきっと「非日常」を切り取るのだろう。
きっと当時の僕は、「非日常」を切り取ることに快楽を覚えていたんだと思う。そして、だれかと話したり、笑ったり、悲しんだりする「日常」が当たり前で撮るにたりないものだったのだろう。
そういう意味では当時は僕も精神的にまだまだ幼かったんだろうなと思う(笑)
そこにある「日常」の大切さ
行ったことがなかったところに行ったときの感動も、見たことがなかった景色への感性も、すこしずつ薄れて、鈍くなってきているからなのかもしれないな、なんて最近は思う。
もしくは、それなりに大人になったことで「非日常」という刺激的なものを感じなくなってきたのかもしれない。
そして、きっと決定的だったのは、適応障害になったことでいろいろなことを感じたことだと思う。(適応障害の時の話は下のnoteで)
「非日常」を切り取っていた頃は、「自分は普通に生きて、普通に幸せになるんだ」と漠然と考えていたのかもしれない。
でも、適応障害になって「生きるのをやめたい」と思ったことや生きることをやめようととった行動をして、考え方が変わったように思う。
「僕は、世間一般でいう健康的な状態ではないし、いつまた以前と同じようになるのかもわからない」
そんな風に思うようになった。これは別に人生をあきらめているとかではなくて、自分の実際の状況を冷静に考え直した結果だ。
僕が今まで「日常」だと思っていたことですら、今は「日常」ではなくなってしまった。もはやその「日常」を取り戻すためにちょっと頑張らないといけないようなレベルだ。
でも、そんなこんなで今まで当たり前に存在した「日常」がいかに大切で尊いものか、ほんの少しだけわかった気がする。
たしかな「日常」を残す
「日常」の大切さがわかった今、改めて思うことがある。
「今、目の前にある日常を写真で残していきたい」
別に現在進行形で生きるのをやめたいとは思っていないけど、それでも「日常」を残していきたいなと思うようになった。
「非日常」を切り取ることも素敵なことだけど、僕が今見ている「日常」を、僕が今生きている「日常」を残していくために、もう一度写真を撮りたいなと思う。
僕の「日常」を残すこと、だれかの「日常」を残すこと、そんなことをしながら、意識を張り巡らせても、目をこらしても、耳をすませても、簡単には気づけない「日常」の中にある幸せを、写真という形で積み重ねていけたらなと思う。
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