あなたと見た10年前も、今も、花火は綺麗です
きっとあれは、ちょうど10年前の8月だ。
当時高校3年生の僕は、受験勉強の合間になんとか当時の彼女と電車に乗って家から少し離れたところの花火大会を見にいった。
当時の僕は花火が見たいというよりは、「彼女と一緒にどこかにいって、なにかしたい」ということぐらいしか考えていなかったんだと思う。
今の僕からは想像もつかない普通の高校3年生だった。
花火が見える場所を探す彼女と僕
花火を見にいくと言っても、山が多い場所だったからどこで見るかはかなり重要だった。
場所を間違えるとわざわざ近くの駅までいったのに地形的に花火を見ることすらできない。
そういうわけもあって、彼女と僕は駅から歩き始めた。
歩いたのはどれぐらいだったろうか。15分か20分ぐらいだったような気がするが、記憶の彼方にいってしまった。
きっと道中も僕は彼女と話すことが、一緒にいれることが、楽しくて、嬉しくて夢中だったんだろう。
そして、坂を登ったり、下ったりしながら、ようやく見放しのいい場所にたどりついてほっとしたことを覚えている。
きっと僕は汗だくで、彼女といるにはあまり適した状態だったとは言えなかったと思う。
泥だらけの足で、二人で見た花火
その見晴らしのいい場所は暗くてよく見えなかったが、使っていない畑か田んぼだった。
「ここならきっと綺麗に見えるよね」
他にもたくさんの人がいたこともあって、僕たちはそんな話をしながら花火を見る場所を決めた。
そんな楽しい会話をしながら少し移動している時に、二人同時に気づいた。
足になにかがまとわりつく感覚がある。暗くてよく見えない中で、目を凝らして見てみると、二人とも足が泥だらけになっている。
ちょうど直前に降った夕立で彼女と僕が選んだ場所はぬかるんでいた。
しかし、そんなことに気づいたところでもう遅い。打ち上がるまで時間がほとんどない。
仕方なく二人仲良く泥だらけの足で花火を見た。
そんな状態でも、きっと花火は彼女と僕の目には綺麗に映ったんだったんだろう。
そして、そんな泥だらけの足のことすら、楽しく思えて、そんな状態でも一緒にいられることが嬉しくなるぐらいの年頃が高校生なのかもしれない。
ハプニングすら当時の僕にとっては、思い出の一部にできてしまった。
大人の僕があの日、あの時を思う
その日の花火で、他にうっすら記憶に残っているのは、帰り際に彼女と話したことぐらいだ。
「花火、綺麗だったね。」
なんてことのないありふれた感想だ。
あとは、帰りの公園の水道で他愛もない会話をしつつ、二人で泥だらけになった足を洗ったことぐらいだ。
結局、僕はその数年後に彼女とはうまくいかなくなって別れてしまった。
そして、それから紆余曲折あって、気づけば10年もたってしまった。
光陰矢の如しとはこのことだ。
「花火を一緒に見たあの日、あの時に戻れたらなにをするか」
そんなことは今はもう考えることもできないぐらい記憶が薄れてしまっている。
でも恋人ではなくなった今の僕と今の彼女が花火を見るならどうするかは考えられる。
「この10年間どんなことがあった?」
当たり障りのない、漠然とした質問を僕はするんだろう。
きっと10年前は飲めなかったお酒なんて飲みながら、酔いでバツの悪さを隠しながら。
そして、きっと恋人という関係ではなくなってしまった現在の僕はお酒で恥ずかしさをごまかしながら言うんだろう。
「花火、綺麗だったね。」
10年前とは変わってしまった今の僕でも、きっとそう言うんだろう。
そんなことを僕は夏の終わりに考えている。
そして、10年前と同じ花火をまた大切なだれかと見られたらいいなと思う。そして、また同じことを言うんだろう。
「花火、綺麗だったね。」
10年たった今の僕には、世の中も、景色も違って見えるけれど、僕は違うことを感じながら同じことを大切なだれかに言うのだろう。
そして、今度はバツの悪さや恥ずかしさを隠すためにではなく、日常にある幸せを噛みしめるためにお酒でも飲みながら、この言葉を言うのだろう。
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