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瞑想のプロに教わったマインドフルネスの方法と誤解。みんな自分に対して厳しい。

NewsPicksで「瞑想のプロに教わるマインドフルネス。マインドフルネスの世界を体験しよう。」というライブ配信があったので見てみた。そして僕は、瞑想やマインドフルネスというものを、どうやら誤解していたことを知った。

講師は、川上全龍さん。

大本山妙心寺塔頭 春光院 副住職 アリゾナ州立大学で宗教学を学ぶ。その後、宮城県・瑞巌寺専門道場で修行。2006年より英語による坐禅体験を春光院にて開始。2007年に同寺の副住職に就任。トヨタ自動車の海外支社向けのカスタマーセントリシティ―講座 TDPとBRiTプログラムの講師。禅を元とした「セルフカルティベーション(自己修養)プログラム」を米国のブラウン大学、MITやマイクロソフト社、英国のイートン校をはじめとする国内外の大学や企業で指導。Mind & Life Institute、ICCやTEDxKyotoなどのイベントでも登壇多数。著書に「世界中のトップエリートが集う禅の教室」(KADOKAWA)。またCNN、BBCやNHK Worldといった国内外のメディアにも多数出演。

なかなか異色の経歴。

NewsPicksの「配信メモ」の前に、先にこの動画を見てもらうといいかと思います。配信を見た後に、川上全龍さんをググったら出てきた、マインドフルネスの誤解について語られている動画。

マインドフルネスの誤解と本質(ICC KYOTO 2017)

※下記に、この動画の内容を一部抜粋して紹介。

自分がどう考えているか、どう行動しているのか気づいていく。

よく言われる「ネガティブではなく、ポジティブになりましょう」という言葉があるが、ネガティブな感情を押さえ込もうとすることはおすすめしない。

「ポジティブな感情」にも「ネガティブな部分」があり、

「ネガティブな感情」にも「ポジティブな部分」がある。

例えば、ポジティブ感情の状態のときは、「楽観的」になるので「注意深さ」がなくなる。「不安」になるというのは、生存本能。生き残るために「注意深く」なっている。

瞑想によって、自分のことを俯瞰してみる時間を持ってみてほしい。コンディショニングを整えられる。

以上、上記の動画のメモ。


 ここからは、NewsPicks配信のメモ。

皆、自分に対して厳しい。

自分の大切な人が悲しんでいたらどうしますか?

「大丈夫?」と声をかけてあげたり、静かに横にいてあげたりしますよね。悲しんでいるのを見て、いっしょに寄り添ってあげたりしますよね。

でも「自分自身」に対しては寄り添うのではなく、すぐに現状をなんとかしようとする。解決策を見つけて、いかに早く、どうすればこの状態を抜け出せるだろうかと考えてしまう。

痛みを避けようとすることでサイトカイニンという物質が体内で出て、炎症が余計にひどくなってしまうという研究結果がある。なんとかして悲しみや嫌なことを避けようとジタバタすることで、余計にひどくなってしまうこともあるかもしれない。

何を感じているのか?観察していく

ストレスを感じたときに、理論的に考えていくことよりも先に、まず「自分がいま何を感じているのか」を冷静に見ていく。ストレスを感じているときは、視野が狭くなっている。感じているストレスを俯瞰していくには、まず「今どう感じているのか?」を見ていく。

「慈悲」を英語に訳すと「セルフコンパッション」。自分への慈しみ。自分への思いやり。

コンパッションを分解すると、「コン」は「一緒に」。「パッション」はこの場合「苦しむ」という意味になる。「一緒に感じて、一緒に苦しむ」。

自分自身に寄り添って、いっしょに「この感情はなんだろう、苦しいってなんだろう」と観察していく。「落ち込んでいるんだな、悲しいんだな」と自己と共に感じる。

まずは、自分自身の状態を観察することで「俯瞰している状態」にしていく。例えば「怒り」という感情も、いろいろなグラデーションがある。怒りというものを観察していくことで、どんな怒りなのか?何に怒っているのか?グラデーションの中のどういう怒りなのか?

徐々に俯瞰できる状態になっていく。時間をかけて観察していく。

Q:瞑想はどれぐらい時間をかけるもの?

A:最初は15分が目安。15分ぐらいで気持ちよくなってくる。でも実は、その15分を過ぎて気持ちよくなってきたところの先が本当の瞑想。なので、25分〜40分ぐらいやっていただくといい。

Q:欧米のメディテーションと日本の瞑想の差異は?

仏教というのは実は理論的で科学とも寄り添えるもの。欧米はセラピー的な意味合いが強い。「悪い状態を良くしていく」ということにフォーカスされている。

日本の瞑想は、いまこの感じている感情を観察していき、いまこの状態や感情はなんなんだろうか?と見ていく。ダルマ=真理を探っていくもの。

人間は「物体」ではなく「状態」

禅で追求するものは、
自分とは「誰か?」ではなく、
自分とは「何か?」ということ。

ここにある「自分」というものは
「物体」なのか?

人間は「物体」ではなく、
実は「状態」

人間の「ここにあるもの」は
川の流れの一部。

川というのは「物体」ではない。
流れているという「状態」。

川の水を手ですくって見たら、
そこにあるのは「水」。
それは「川」ではない。

流れているという「状態」が川。

人間も「物体」ではなく、
川の流れの一部のような「状態」。

いまここにある「自分」という
「状態」ってなんなんだろう?と
見ていくのが瞑想。

あきらめる=あきらかに見て、受け入れる。

自分とはこういうものだ。
健康とはこういうものだ。
成功とはこういうものだ。

それをキープしなくてはいけないと思っているが、年齢の変化や、季節の変化で、変わっていくもの。「あ、こういうものなんだな」と受け入れていく。

「あきらめる」という言葉は、「あきらめないで」という使われ方をすることが多いが、実は「あきらかに見る」という意味。

流動性の中で朽ちていくことを、あきらかに見て、受け入れていく。自分というものは「川の流れの一部」なんだなと受け入れていく。

「わからない」を楽しむ

現代社会では、「わからないとダメだ、わかっていないのは不安」だという風潮がある。しかし、「わかる」というのは、昔の経験に似ているものに当てはめて自分の知っているパターンの範囲で「わかる」と言っていることもある。

「わかる」と言っていても、自分が認識できていない部分があるかもしれない。そういう意味では「わかる」とは言っているが、それは本当の意味では「わかっていないこと」もあるかもしれない。

「こうしなければ、ああしなければ」というのは「わかっている」という前提がある。でも、「わからない」というのが当たり前の状態。自然な状態。わからないことだらけの世の中。

不安な状態、わからない状態というのは、実は楽しいんだと好奇心を持って見ていく。「謙虚さ」と「好奇心」が大切。「あきらめて楽しむ」のが大切。

土曜の朝にオンライン坐禅会

このNewsPicksの配信で、土曜日の朝にオンライン坐禅会があるということを知り、実際に参加してみた。参加されていたのは25名ほど。誘導ありの瞑想と、誘導なしの瞑想。そして、瞑想の合間には気になる点を相談したり、講話を聞く時間もあった。

いままでは瞑想というものをやってみても、「これで合っているんだろうか?」という感覚がずっとあった。今回も、そうだった。しかし、正直にその感覚を全龍さんに伝えてみると、そこには瞑想というものへの誤解があったことを知った。

マインドフルネスという言葉が流行り、瞑想という言葉が市民権を得るようになった。マインドフルネスと聞くと「瞑想をしてスッキリする。ストレスが魔法のように消えてなくなる。」のようなイメージを持っている人も多いのではないかと思うが、

全龍さんからは意外な言葉が返ってきた。

「マインドフルネス・瞑想というものをすればスッキリする、ストレスが解消される、というイメージが強いですが、メディアや書籍の影響もあってか、そういうイメージが先行しすぎている部分があるように思う。

実は瞑想をして、自分自身を観察していくとモヤモヤしてくる。この感覚、この感情は、いったいなんなんだろうか?と。でも、それでいいんです。

そうして、自分自身を観察していくこと、俯瞰していくこと。そういう時間を持つことが大切なことなんです。」

といった返答だった。(記憶ベースなので少し曖昧だが、だいたい上記のようなことを言われていた)

僕が「瞑想中にこんなふうに感じていました。こんな感覚がありました。」と伝えた話に対して、「聞いている限り、それで大丈夫です。それが瞑想できている状態ですよ。」との返答。

なるほど、これでいいのか。静かな時間に心を落ち着けることはできた。しかし、いろいろなことが頭に浮かぶ。それも含めて自分を観察していき、そういった自分を俯瞰する時間を持つことこそ、マインドフルネスであり、瞑想なのだということを知ることができた土曜の朝。

いまのところ毎週、土曜の朝にオンライン坐禅会をされているようです。僕も、自分でやりながら、またタイミングを見て参加しようと思います。

合掌。

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