自由は不自由や

朝ドラをまんぷくからずっと見ている。独身時代は全然観なかったが、妻の付き合いで見始めてはや3作目となる。今はスカーレットをほぼ毎日追いかけている。

自由は不自由や!

西川貴教演じる芸術家ジョージ富士川が「自由は不自由や!」というフレーズで一世を風靡したという話がある。言葉通りに受け止めると「なんやそれ、どういうこっちゃ」となるし、わかったように「うんうん、そうだよなあ」ということもできる。なので自分なりに「自由」ということについて考えてみた。

自由がほしい

学生時代や若い頃はなんでもまあ大層に語りたがる傾向があるので、「人生に疲れた」とか「本当の自分に出会う」とか言いがちで考えがちだ。実際に自分も言ってたしね(はずい)。その中の一つとして「自由になりたい」「自由が欲しい」というものがある。自由とは学校のルールや家から自由になりたいのか、はたまた会社や自分の置かれた状況から自由になりたいのか、状況や年齢によって変わってくる。が、基本的には「今自分が置かれている状況から抜け出したい」という意味であることが多い。置かれた状況に何らかの不満があって、楽しくない、つらい、しんどい状況から逃げたいという意味合いが強い。要するに現状を変えたいということだ。

その先に何があるか

ここでの問題は抜け出す方法も、抜け出した先のイメージも全くなく言われている場合がほぼすべてであるということ。要するに「自分は大変なの、同情して」という発言である。だから別に自由になりたいわけでもなんでもなく、現状が不満で、つらくて、我慢してる自分に同情してほしい、あわよくばほめてもらいたい、という承認欲求の成れの果てである。若い頃あるあるである(ない?)。

じゃあそもそも自由って何なのか

自由(じゆう)とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。哲学用語。(Wikipedia 自由 の項目)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1

だそうです。はい。この時点で自由になることは無理。人間で今この世界に生まれてきた以上は他からの強制・拘束・支配を受けないことは不可能な話だ。なので、ここでは他からの強制・拘束・支配を「限定的に」受けない状態と定義する。というか、そのことをみんな言うよね?

まあこれはよく言われていることだが、基本的に人間(特にこの現代の日本に生まれてきた人)は自由だ。生きる上で結果は別問題として、学校に行かないことも会社を辞めることも自分の意志で決めることができる。自らの意志に従って生きることは普通にできること。なのに自由が欲しいという。これって何なんですかね。

結局、不自由な自分が楽

何もないゼロの状態から、自分で一つ一つ選択し、決定し、行動することは大変なこと。とてつもなく。これができる人は稀だと思う(だからそういう人が成功するんだけど)。

ただ怖いだけなんだ 不自由じゃなくなるのが(please)forgive /BUMP OF CHICKEN

結局のところ、不自由を理由にして、自由になるという超怖いことを避けているだけなんだと。なんでかって言うと、怖いことしたくないし、大変なことしたくないし。楽なほうがいいよね、ってことで自分を納得させている。

あー自由怖い。

ではまた。

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