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『アイカツスターズ!』の二次創作品を Pixiv に再掲して得られた知見について(および、現今の映画広告におけるファンアート利用にまつわる総論)


 西暦2023年時点における良心的な映画の観客であれば、「もう日本の配給会社とは距離を置こう」と思わざるを得なかった契機を必ず経ていると思うのだが、筆者にとっては2018-2019年がその時期に相当した。当該年間に(世評では絶賛されていたため、期待とともに)観た映画は、期待外れどころの話ではなく、もしソフトが出ていたならば30秒単位で停止して瑕疵を指摘したくなるほどの出来であった。それも「映画館で観てしまったことを心底から後悔せざるを得ない映画」という全く同じ類例に3本連続で当たった(それらは所謂ジャンルや制作国や配給規模などの質がすべて異なっていたにも拘らず、薄ら寒いほどの欠点を膨大に供えている点で共通していた)ため、私は現在に至るまで映画館に足を運んで作品を観る習わしと完全に手を切るに至った。

(もちろん、新作自体は観続けている。以前にも紹介したが、BBC制作のパンクレーベル映画『グッド・ヴァイブレーションズ』はすべての Amazon Prime Video 契約者に鑑賞をお勧めしたい。さらに近所のゲオで借りて観た映画のなかでは、ケネス・ブラナー『ベルファスト』の副音声の内容がちょっと面白かった以外では、ポール・トーマス・アンダーソン『リコリス・ピザ』が群を抜いて素晴らしかった。『インヒアレント・ヴァイス』と『ファントム・スレッド』で完全にダメになってしまったとばかり思っていたPTAがこんなに良い映画を作ったとは! まさか西暦2023年にもなってレンズフレア入りの映像を美しく思わされてしまうとは! 極め付けには、もう──アメリカが自家薬籠中の物にしてしまった鬱性によって──絶対に取り戻せないだろうとばかり思っていた「カーテンコール式エンドロール」が、それも『ブギーナイツ』の頃からPTAが執着していた先達である『アメリカの夜』と同格のすがしさと爽やかさで結実しているのを見せられては、完全に脱帽せざるを得なかった。「おれ、この映画に出てくる全員をそれぞれ別様に好きだよ」と言いたくなる映画が『リコリス・ピザ』であったし、まさかPTAの新作としてここまで明るく・年相応に成熟した映画を観せられるとは思いもしなかったのである。他にも『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』や『コーダ』など忘れ難い作品にも数多く出会っており、つまり「新作だからといって無条件に忌避しているわけではない」ことを念押ししたいがためにこの括弧は書かれた。)

 前述の期間に最も甚だしい腐敗として感じられたのは、「映画公式サイトにおけるファンアートの広告使用」である。この「ファンアート」とは、もちろん配給会社が報酬を払って描かせた作家による所産が第一に該当する。が、「公式サイト内に(市井のソーシャルメディア利用者によって、無償で、自発的に描かれた)ファンアート専用のハッシュタグを検出するウィンドウを設け、その表示をもって広告代わりとする」ような例が登場し、瞬く間に定着を見たのだ。筆者が記憶している限りでは、『燃ゆる女の肖像』(←前述の「映画館で観てしまったことを心底から後悔せざるを得ない映画」の中の一本。無限の瑕疵が蔵されたこの映画を敢えて一言で評すると、「フェミニズムの皮を被った敗北主義映画」)の時点では、既にファンアート(プロ/アマ問わず)の広告利用はさも当然の習わしであるかのようにその場所を占めていた。

 前段落までの経緯を見せられるに及び、筆者は思ったものだ。「ああ、いやしくも “公式” の名で事に臨むべき人々が、ついに “素人” と組み始めた。すでに日本国の映画配給会社の内部者に確かな審美眼など期待すべくもなかったが、こともあろうに自分が何に欲情し・何に興奮しているかさえ不覚な “素人” が分泌した体液にも等しいファンアートが “公式” の広告に供される、そんな時代が来てしまった」と。言うまでもなく、同様の傾向は西暦2023年の時勢において完全に定着した。ちょっと「話題作」の公式サイトを検索してみれば、映画評者としての単著など一本も出していない・さらには特定の表現にまつわるプロフェッションを発揮しているわけでもないツイッターセレブが、「公式コメント」として何か気の利いたことでも言っているかのような醜態さえ容易に観測できるだろう。もちろんその醜態は、 “素人” と組むことにした “公式” 、双方の愚かさと馴れ馴れしさが結託した結果の産物である。

 そして今夏、満を持して例の #Barbenheimer が来たわけだ。主にアメリカ合衆国に発する、「コロナ禍でいろいろあったけど、もう普通に映画館いけるようになったね! この夏には『オッペンハイマー』と『バービー』が同時公開されるって! すごい両極端な取り合わせだなあ! よーしみんなでこの2本ハシゴして落ち込んでる映画界を元気づけようよ!」という善意みなぎるポジティヴィティがネット空間に接続され、「ねえねえこの2作を合わせたファンアート作ったら面白いんじゃない? バービーの後ろでドカーンってキノコ雲が上がってる絵だったらチョー面白いよねマッドマックスみたい! キノコ雲ってポップだし『バービー』的な配色で合わせたらいいよ! 日本人監督の映画で『HOUSE』とか『太陽を盗んだ男』とかあったじゃん、あれの原爆表現だって超ポップだったし。文句言うひといないでしょ。ヤバーいどうしよ世界的にバズっちゃったら」と、文字通り核分裂的に愚かさが増幅され、既にうんざりするほど見聞きした例の延焼にまで発展したわけだ。

 既述の経緯は、いわゆる「抑圧されたモノの(再加工された形での)回帰」ですらない。筆者が『燃ゆる女の肖像』を契機として見出す事になった「ファンアート性善説」と、 #Barbenheimer 的な「ファンアート性悪説」は、ネット(とくにソーシャルメディア)上で流通する情緒の露出形態として全く同質のモノでしかないのだから。西暦2010年代の中盤以降、おそらくは形成されたのだ、「映画のような表現形態を盛り上げるには、 “公式” の人たちだけじゃなくてファンたちも協力していかなきゃいけないよね」という集合的な合意が。それは「描画を表現手段とするプロのアーティストたちに(広告用のイラストレーションを)依頼する」という本分から、瞬く間に「ハッシュタグで可視化されるバズりによる法悦感」の低みへと流れはじめ、ついには慢性化した鬱と恐慌への予期不安でボロボロのアメリカ合衆国人ががんばって捻り出したユーモア #Barbenheimer として結実した。これらはすべて当然の帰趨である。 “公式” が “素人” と組むことにした時点から、フェティシズム由来のエネルギー暴発( “素人” はフェティシズムに基づいて反応する以外の行動原理を持たず、その幼児性は “素人” の定義そのものでもある)を止める手立ては既に失われていた。「映画の力」を取り戻したいがために、あれらの人々は制御棒無しでの原子力発電に同意したのである。大事故が起こって当然だろう。むしろ #Barbenheimer が流布されはじめてから憤慨したり落胆したり慨嘆したりしていた者たちは、今まで一体何を見てきたのだろうか? 既に大事故の予兆は各映画の公式サイトを見るだけで明らかであったというのに、なぜ事が起こった後でしか反応できなかったのだろうか? 「迷路というものがある。ふつう、迷路から出るまでの過程で壁にぶつかる。しかし、一度も壁にぶつからず外に出てしまえることがある。それが事故である」と事故分析家:柳田邦男の知見でも引いておこうか? あるいは「選択的非注意」というサリヴァンの術語でも?

 さて上述のとおり、今となっては「映画鑑賞」それ自体よりも、「ある特定の作品(とくに視覚表現:映画やアニメ)のファンダムに属する者たちの生態から得られる知見」のほうがよっぽど面白い時世になってしまった(既述のとおり、『リコリス・ピザ』的な傑作は例外。むしろ『リコリス・ピザ』に関しては、いわゆる「レビューサイト」に寄せられた日本語圏人たちによる感想の「見えてなさ」を検分することに面白みがある。「もはやアメリカ的な鬱性に纏綿することをやめた」PTAの転向──もしくは症状の寛解──は、不倫だのいじめだの婚約破棄だのリベンジポルノだの化学物質まみれのスパイス無しでは何も感じられなくなってしまった大多数の日本語圏人の舌によっては賞味不可能な代物であった、という事実が明らかにされているからだ)。筆者本人も、(未だにソーシャルメディアのアカウントを公民権か何かと勘違いしているかのような)ファンダムから寄せられる無数の症例から、同時代的な病の所在を学ばせていただいている。

 その一環として、今年5月、以下のような試みをしてみた。




 上記2作は、西暦2016年の夏に筆者が執筆した、アニメ『アイカツスターズ!』にまつわる二次創作物である。あわせて、筆者の Twitter アカウント完全削除が2017年晩夏であったことも確認しておきたい。これらの二次創作物を出した時点では、私もまた “公式” と “素人” との癒着によって何か善性の効果がもたらされうると信じる無邪気な者であった。しかし Twitter に典型的な同時代の病巣・およびそれが及ぼす害悪に気づき、アカウントを削除したのち、『アイカツスターズ!』の放送終了直後から己自身の作品に取り組み始め、いくつもの具体的な成果物を得た(西暦2019年3月に音楽アルバム『癲』、2020年末に長編小説『χορός』、そして2021年6月から現在に至るまで続行している音楽プロジェクト Parvāne)ことなど、幣チャンネルの有料サポーター諸氏におかれてはすでにご存知であろう。

 その私が、なぜ今になって過去の二次創作物を? と問われて当然だが、まず第一には、既述のファンアートをめぐる情緒の経済が、西暦2016年当初と比べてどのように変わっているか? を知るための実験台としてうってつけであったためである。第二には、単に Evernote のアカウントを整理していたら昔の二次創作物の原稿データがそのまま発掘され、ちょっと面白かった(Apple 製品のクラウドと同様に、外したファイルは数週間後に完全削除されるとばかり思っていた)ためでもある。今年の5月15日、筆者は興味本位で前掲の2作を自身の Pixiv アカウント(かつて所持していたものではなく、フォロワーは皆無=何か投稿したとしてもそれを歓迎するであろう層は確保されていない状態にある)にアップロードし、本日にいたるまで漠然と待った。なぜこのタイミングで取り上げようと思ったかというと、昨晩に「いいね」と「ブックマーク」の反応がなぜか2作に共通して寄せられ(おそらく夏コミで交流したユーザーたちが「この二次創作いいですよ」と紹介したか、あるいは所謂「夏休み」で暇になった者が読んだかのいずれかであろう)、そこから改めて Pixiv のプラットフォームを検分するにつれ、新たに得られた興味深い事例を並べて論じるべき機が熟したと判断したためである。

 まず本論に入る前に、『Skin and Bones』と題された作品にのみ注釈しておこう。西暦2016年に書いた時点で自覚していたが、この小説は所謂「ベトナム帰還兵モノ」の骨子で書かれている。私による「ベトナム帰還兵モノ」の定義については、かつての私が公開していた「2016年の映画ベスト10」リスト(←ああ、いかにもダメな若々しさの発露……)内のコラムから引用しておくのが一番早いだろう。

 ベトナム帰還兵モノ
 というジャンルがあると思うんです。『ランボー』一作目のこと? と思われたかもしれませんが、むしろ『ローリング・サンダー』や『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』のほうです。

 特徴をまとめると、

◎過去のできごとによって消えない傷を残された人々が出てくる
◎精神的・肉体的に、壊れてしまった・壊してしまったこと、自分がしてしまった・されてしまったことをめぐる
◎捏造されがちな過去とその語り直しによって進行する
◎贖罪(不)可能性と救済が賭けられている作品

 ということになるんですが。こうして特徴を書き出してみると、『聲の形』は王道のベトナム帰還兵モノだったなあと。あの学校空間はちょっとした差異をあげつらって人間を虐待し、それによって生まれる「虐待した者」の差異によって今度は虐待される側に立たされるという、非人間的なダメージを生産し続ける場所でした。小・中学校でしてしまったことされてしまったことが直接回帰して傷だらけになるのが『聲の形』でしたが、この「小・中学校」を「ベトナム」に、「高校」を「療養所」に置き換えるとそのまま『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』になることがおわかりいただけると思います。そこには「捏造された過去」のサイコドラマと贖いが賭けられていたことも。
 ベトナム帰還兵モノの特徴として、「誰も正しい方途を知っているわけではない」というのがあるんですが(『トゥインクル〜』収容者たちの狂気に対する適切な治療法を誰も知っていなかったように)、『聲の形』の学校空間も、生徒たちはもちろん親権者や教師たちでさえ学校という非人間的空間での正しい振舞い方を知っているわけではなかった。だからこそ川井は都合よく捏造された過去に縋ったりするし、植野はその欺瞞を冷徹に切り捨てたりするわけです。過去の行いとその贖いに向き合うたびに増えてゆく傷、傷、傷、傷。『トゥインクル〜』の終盤以降の展開を思い出していただければわかるように、「贖えなさ」は傷として刻印されてゆきます。
(そういえば『Xミッション』もベトナム帰還兵モノです。というか、あの映画は『トゥインクル〜』のリメイクかと思うくらい筋書きが似ています。ユタは過去の行いのせいで親友の死という消えない傷を負っていますし、ボーディの最期が単なる別離ではなくユタの救済という意味が加えられている点も『ハート・ブルー』にはなかった要素です。『シビルウォー』ももちろんベトナム帰還兵モノで、「自分がしてしまった・されてしまった」過去をめぐる贖いの話でした。じつは『アイカツスターズ!』の本編もベトナム帰還兵モノとしてひじょうに精度が高いのです。「声を喪ってしまうかもしれない」という謎の呪いへの正しい対処法を誰も知っていない、だからこそ諸星も白鳥も虹野も生存のために賭けるしかない、そしてその賭けには過去に姉を救えなかった諸星自身の贖罪が賭けられている……ちなみに私は以前ベトナム帰還兵モノのマナーに則って如月ツバサ×芦田有莉の二次創作を書いてみたことが、云々)

 ここまで書いておわかり頂けたと思うんですが、私はベトナム帰還兵モノに出てくる人々の「正しくなさ」を尊びます。なぜならその人たちは誰も正しい方途を知っているわけではないから。それでも自分の過去を贖わなければならないのだとしたら、それは不可能性をめぐる賭け、あるいは自らを犠牲に捧げることに(『トゥインクル〜』のラストシーンがまさにそうだったように)ならざるを得ない。そういう正しくない人々の贖罪の賭け、の容態を見せられると、人間だよな、人間ってこうだよな、という思いにさせられる。「ベトナム帰還兵モノ」という歴史的事実を冠したネーミングなので逆説的ですが、これってフィクションのなかでしか試みられないことだと思うんですね。『トゥインクル〜』の収容者たちが自身の狂気に向き合うためにサイコドラマが必要とされたように、演じ演じられるものとしてのフィクション、それを見ることによるショック療法、です。

 だから『聲の形』(や『シビルウォー』)の特定のキャラクターの行動を正しくない間違ってるとムキになって指弾してる人を見るとね、ちょっと、何様のつもりなんだろうと思ってしまうんですね。ここでは「自分がしてしまった・されてしまった」ことをそれでも贖おうとする不可能性が賭けられているんだ、それはフィクションでしかできないことなんだ、それを見せられてムキになってるお前はあれか自分ならあの状況で絶対に正しい振舞いができたとでも言うつもりか、とかね、思ってしまうんですね。
「正しくなさ」「向き合えなさ」「贖えなさ」にそれでもケリをつけようとする人間たちの容態、それが『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』であり『聲の形』であり『シビルウォー』であり『アイカツスターズ!』本編だと思うのです。そういう作品たちは痛みとともに生存を続ける(あるいは自分の行いによって誰かを辛うじて救う)しかない、ということを見せてくれる。だから私は「ベトナム帰還兵モノ」ジャンルの粗描をここに残しておこうと思ったのです。

『2016年映画ベスト10(と感想)』(現在は非公開)


 まだ(Twitter アカウント削除後に)自身の文体を磨き直す前に書かれた内容なので、いま読み直すと忸怩たるものはあるが、まあ内容に関してはとくに加えるべきこともない。

 つまりこういうことだ。『Skin and Bones』における如月と八千草の役割は、『ランボー』第1作目におけるランボーとトラウトマンにそのまま相当する。ランボー=如月は「ある特殊な環境での経験により、カタギの生活に戻った後でも心身の外傷的余波を引きずり続けている “帰還兵”」であり、八千草は「その “帰還兵” に必要だった技芸を仕込み、特殊な環境内での生存を可能たらしめたが、それでも “帰還兵” にとって最も困難な傷だけは治療不可のまま別れてしまった “上官”」である。これら「ベトナム帰還兵モノ」の類型として用意された登場人物たちとその前史が、「“帰還兵” の異常な仕事ぶりを見せられるだけの “市井の人”」こと芦田の視点によって観測される、という構えで『Skin and Bones』は成り立っている。もちろん芦田と如月は同じ芸能学校に通っていたので、同じ小隊の中で(それぞれの資質の違いによって)異なる苦艱を経過した “帰還兵” 同士、とも言いうる。

・特殊な環境での経験により、すでに壊れていた “帰還兵”
・↑の自滅だけは防いだが、最も困難な傷を治すことだけはできなかった “上官”
・↑との関係を経過して市井の暮らしに戻ってきた “帰還兵” は、困難な傷の効果によって凌げているにすぎない異常な仕事に身を置き続け、たまさかに “帰還兵” と交わった “市井の人” は、その懸絶を踏み越えることはできなくとも、お互いの愛を捧げながらの「ショック療法」を試みる

 と、『Skin and Bones』のストーリーアークは以上のように要約されうるだろう。この類型はもちろん『ランボー』シリーズよりもウィリアム・ピーター・ブラッティの『The Ninth Configuration(日本語題:トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン)』に近いのだが、詳述はすまい。なぜここまで長々と筆者による二次創作品の構造分析などを披瀝したかというと、上述された作品の特性を、他の『アイカツスターズ!』二次創作物と如何に同じで/如何に異なっているか についての分析に供するためである(後述)。

 さて、『Skin and Bones』ともう1作を Pixiv 空間上に放流した直後の反応は、以下の2アカウントに要約される。
(もちろん私は Pixiv に作品や登場人物名のタグをつけて公開したのみで、ツイートによる告知など行えるはずもない。にも拘らず一定の読み手がついてしまう、この「既存作品名にタダ乗りした売名感覚」は、久々に慄えるほどの気持ち悪さを筆者に与えてくれた。ここ4年間ほど「自分の名による自分の作品」しか発表していなかったため、「自分が出したものを無条件に歓迎してくれる人々がいてしまう」という状態の既得権益感は、現在の筆者をして「うわぁ、こんなモンの供給を受けて何か成し遂げた気になってたのか」という懸絶を感じさせて剰り有るものだった。有り体に言ってしまえば、「既存作品の有名性によって確保される消費者数」など粗悪な “作家” どもの万能感を増幅させるための粗悪ドラッグであり、この気持ちよさから離れられない者どもが夏コミだのオンリーイベントだのに群れ集って新しいヤクを求め続けるのだろう、というメカニズムまでもが明瞭に把握された。)


 この ulu 某については、私がかつて Twitter や別の Pixiv アカウントを所持していた頃から知っていた。そもそもアイコンの絵柄が如月ツバサであったし、その一方でツイートの内容がやけに下品かつ無恥であったためである。「こんな輩からも褒められなきゃいけないんだな、私の二次創作物は」と思ったことを明瞭に記憶しているが、それはどうでもよい。どうでもよくないのは、この ulu 某が、ハッシュタグ等による流行りのセルフカテゴライズによって自身のことを “✨🏳️‍🌈💖 𝑰'𝒎 𝒂 𝒉𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒍𝒆𝒔𝒃𝒊𝒂𝒏💖🏳️‍🌈✨” と認識しているらしいことである。

 この ulu 某のツイートを少し追ってみるだけで明らかなのだが、この者は持ち前の若々しさ・または愚かさによって「セクシュアルマイノリティ=性に関して放埒」でなければならないと勘違いしており、韓国や中国出身の(もちろん肉体的に実在する)アイドルや、アニメまたはアプリゲーム等に登場する人物、それらへの愛着によって分泌された自らの体液を直接ツイートに変換したかのような、まさに「中二的性欲」としか呼びようのない痴態を曝す嗜癖を常態化させている。言うまでもなくこのような態度は「レズビアンによるレズビアニズムの面汚し」であり、もっと言えば「女性の麻生太郎化」の典型例でもある。「女性の麻生太郎化」または「麻生太郎化した女性」とは21世紀初頭から顕在化しはじめた傾向で、「男性の下品さをそのままコピーした女性の姿」、「“じゃねえ”・ “っつうか” のように荒っぽい口語体をひけらかしたがる、“ジェンダーフリー” と “ユニセックス” の意味を完全に錯誤した態度」等の諸様体をとって表出する。つまり、「異性愛的なライフスタイルには適応できないが、しかし(歴史的・文化的な教養が皆無なため)同性愛的なライフスタイルが如何なるものかさえ想像できず、とりあえず急拵えに男性の下品な態度=オッサン臭さを自身のパーソナリティに適用するようになってしまった女性」という事例が、こともあろうに自称レズビアンの間に見出されるようになってしまったのだ。 繰り返しになるが、具体例を見せろと言うならば ulu 某のツイート欄を追ってみればよい。そこには麻生太郎の親戚のような下品さ・無神経さ・異性も同性も問わず品定めして消費したがる愚劣さが、一糸纏わぬ姿で文字列化されているのだから。そしてこのような痴態を明らかにしているのは自称レズビアンであり、さらには私の「ベトナム帰還兵モノ」こと『Skin and Bones』をかつて好意的に読み・現在においても読めることに感激しているかのような女性なのである。

(『The Ninth Configuration』を観れば明らかなように、「ベトナム帰還兵モノ」は「閉じ込められた場所」のモチーフをとることが多い。言うまでもなく、彼らの「治療」に際しては精神医学的な審級が召喚されざるを得ないためであり、その外的環境の効果によって「ベトナム帰還兵モノ」は必ず政治的・制度的な裁定とその妥当性が問題とされざるを得ない。これはフーコーの読者であれば注釈なしに理解できることだ。そこで展開されるのは「規格外」とされた者たちが記録・矯正・適合化される諸制度の内部における様体であり、 “その閉じ込められた身体の中に闘いの轟きを聞かねばならない” のである。よって「ベトナム帰還兵モノ」は同性愛者をも含んだ、「規格外」と見做された者たちが生存するための闘いを不可避的に含まざるを得ない。私の『Skin and Bones』も、上述したような社会的・制度的なゲイライツの内部にあるものとして書かれているのだ。にも拘らずこの二次創作品をなにか気の利いたポルノのようにしか消費できず・また他のあらゆる作品に対しても同様に接している ulu 某は、まさにその態度自体によって自らが「麻生太郎化した女性」であり「レズビアンによるレズビアニズムの面汚し」でしかない事実を証明している。)

 まあ、だから何だという話だ。以上の文章によっては、もう西暦2023年にもなるというのに未だに Twitter アカウントを保持し続け、そこで文字上の嬌声を垂れ流し続けることに何か意味が宿りうるとでも思っている童子、そのなかでもとくに醜悪な一例が可視化されただけだ。まさにこのような者こそ、「既存作品の有名性によって確保される消費者数」を相手にして万能感を享受する痴態=二次創作の主要客層にふさわしい。翻って私は今、このような輩から仮初の声援を受けることなしに自らの作品に取り組み続け・なおかつ有償の支持を寄せてくれるサポーター諸氏も存在する現状を、衷心より幸いに思う。

 あと kusare_gamer とかいう、いかにもモブキャラっぽい卑賎の徒はどうでもよい。ヴィデオゲームのポータルサイトなどに提灯記事を納品して日銭を稼いでいるような輩に、一体どのような審美眼を期待せよというのか。こいつの書いたものを読んでみたとて欠片ほどの面白さも得られない。そして、そもそも面白くないものしか書けない輩に「この人の作品は面白い」と言われる鬱陶しさに勝るものは無い。



8月27日追記:
↑本稿執筆時点ではこの程度の扱いにとどめた kusare_gamer だが、2週間も空けずに彼が発表した「お仕事」の記事で一線を超えてくれた。

 筆者の主観としては、「ドヤ顔でスベり芸を披露することで筆者を楽しませてくれていた深夜枠の芸人が、いきなりフェミニズムを侮辱する芸を打ちはじめた」ような気分である。上掲記事にすべて書かれているので補足などしないが、これによって彼は「Twitter上でジョセイノミカタづらをしている男が、論理的レベルでは ”女性が被っている経済的不均衡に対して適用されるべきケア” についてすら理解していない」という、ジェンダーギャップ指数125位の国に生きる男性として平均的な知性・品性をありのままに披露してくれた結果となった。ある意味、 kusare_gamer は上掲記事を発表したことによって、筆者にとって初めて「面白い」書き手になってくれたと言えなくもない。



 面白いのはここからだ。私は昨晩、改めて Pixiv 上のハッシュタグ #如月ツバサ を検索してみた。『Skin and Bones』の “帰還兵” である彼女を取り扱った二次創作品は、やはりイラストものが大多数だが、「小説」タブには見知らぬ新規作品が並んでいた。どうやら如月ツバサの誕生日が7月末で、そのタイミングで二次創作品を発表してみようというファンダムの動きがあったのだろう。以下の2作品はいずれも今年の7月24-25日、もちろん私が2作を再掲載した2ヶ月以上後に発表されたものである。



 これら2作は、奇妙なほどに似通った内容を持っている(←じつは、何も奇妙なことなどない。これら2作を執筆した男女が Twitter 上の相互フォロワーだからだ)。以下のとおり要約しよう。


・主人公は如月ツバサと同じ芸能学校に属していたが、現在では芸の道を諦め、俗に流れている
・かつて主人公と同じ学校に通っていた如月ツバサは、現在においても技術と才能に磨きをかけ、世人には及びもつかない輝きを得ている
・そんな「有名人」との懸絶を、諦めたような・または「有名人」の才能と自分の凡才との差をオカズにして陰鬱に萌え狂っているかのような主人公の独白自体で小説が成立している


「あれえ? これ、な〜んかに似てますよねえ? Pixiv に先んじて投稿されてたさあ、あの如月ツバサ二次創作の小説に、そ〜っくりな内容じゃなぁ〜い? ね〜え?」などと筆者は言うまい。そもそもが同じ二次創作なのだ、そこで流通する情念の質も似通うだろう。しかし、あくまで事実として、これら如月ツバサ誕生日記念の二次創作品を出した男の方である tunacan 某は、私の『Skin and Bones』を紹介した ulu 某のツイートに対して「リツイート」と「お気に入り」の両方を押していたことを踏まえておこう(2 Reposts / 5 Likes:西暦2023年8月13日23時の閲覧。 tunacan_nZk はこの両方の数値の1つとしてカウントされている。もし読者がいま閲覧して数が減っていたり tunacan_nZk のアイコンだけ消えたりしていたとすれば、彼が慌てて取り消したのだろう)。つまり、この tunacan 某が私の『Skin and Bones』を読んでいたと覚しい証拠は、正確な時制によって記録されているのである。

 それにしたって、もちろんどうでもいいことだ。何度でも強調するが、西暦2023年にもなっていまさら二次創作品を出したがるようなセンスがそもそもダメなのである。どうでもよくないのは、前掲の両作品と私の先行作品の質を比較した際に浮かび上がる差異についてだ。


↓私の
・特殊な環境での経験により、すでに壊れていた “帰還兵”
・↑の自滅だけは防いだが、最も困難な傷を治すことだけはできなかった “上官”
・↑との関係を経過して市井の暮らしに戻ってきた “帰還兵” は、困難な傷の効果によって凌げているにすぎない異常な仕事に身を置き続け、偶さかに “帰還兵” と交わった “市井の人” は、その懸絶を踏み越えることはできなくとも、お互いの愛を捧げながらの「ショック療法」を試みる


↓連中の
・主人公は如月ツバサと同じ芸能学校に属していたが、現在では芸の道を諦め、俗に流れている
・かつて主人公と同じ学校に通っていた如月ツバサは、現在においても技術と才能に磨きをかけ、世人には及びもつかない輝きを得ている
・そんな「有名人」との懸絶を、諦めたような・または「有名人」の才能と自分の凡才との差をオカズにして陰鬱に萌え狂っているかのような主人公の独白自体で小説が成立している


 最も大きな質的差異は何か? と問うまでもないだろう。まずは、

⑴如月ツバサをここまで異質たらしめた事由=外的環境への認識の有無(私の作品には有り、連中のには無い)

 そして、

⑵非凡な如月ツバサと別れた主人公(=凡人。私の小説内では芦田有莉、連中のでは単なる「主話者」)に負わされた役割の違い(私の小説内では “帰還兵” でない “市井の人” でしか担えない役割があり、それを負った芦田が如月の傷を癒そうと試みる──『The Ninth Configuration』における「ショック療法」などいまさら思い起こすまでもない──。が、連中の小説で単なる「平凡な自分」としての役割のみを担った「主話者」は、理想化された憧れの存在にメソメソと恋着するのみで、実は如月ツバサ自身にも外界からの助けが必要な欠損が蔵されているなどとは思いもしない)


 上述の差異を取り出した時点で明らかになるのは、まず ⑴連中が抱えている、「才能」なるものへの盲信 である。連中の二次創作品において、如月ツバサは絶対的に無瑕の宝石でなくてはならず、その完璧性によって凡才との差を常に明らかにしなければならない。なぜなら、その構造無くしては「凡人であるがゆえにいつまでも如月ツバサをオカズにメソメソし続けられる自分」の権益が確保されないからだ。私の小説では同じく凡庸な市井の人である芦田有莉が「ショック療法」を果たすことができる唯一の役を担わされていたが、連中にとってはそのような視座などあってはならない。ただひたすらに、連中の「凡人=自分」は芸術的能力と為すべき仕事の不在によって、如月ツバサへの妄執を燃え立たせ続けるだけの者でなくてはならないのだ。なぜなら連中にとっては凡人こそ自分であり、もし自分に果たすべき役目のひとつでも負わされてしまえば、その瞬間に自らが「無能力」である定義が覆されてしまうためである。

 第二に、⑵「自分は永遠に何もしなくてもいい」という、自身の「無能力」への盲信 も挙げておかなくてはなるまい。これは前述の「(如月ツバサの)才能」なるものへの盲信 と唇歯輔車である。そもそも連中にとっては、「二次創作品を出すこと=自分自身の無能力を告白し、そこに安住すること」なのだ。でなければ、どうして「(如月ツバサのような)才能」ある人と住む世界が完全に分かたれてしまったかのような筆致で書くだろうか。私にとっての(2016年時点での)二次創作とは、如月や芦田のようなパーソナリティから「ベトナム帰還兵モノ」との構造的類似または親和性を見出し、ある程度の創意の注入によって貫徹したテーマの作品として結晶させることであった。が、西暦2023年に如月ツバサの誕生日にかこつけて二次創作物を出したがるような連中にとっては、もはや創意やテーマ性など必要ですらないらしい。連中の小説内に充満しているのは「如月ツバサの天才性を照射されることなく日陰にうずくまって自らの身体を撫で回しながら悶えているワタシ」の容態だけであって、そこに夾雑する不純物はすべて取り去られなくてはならなかったのである。

 以上のとおり明らかにされたのは、『Skin and Bones』に類似する連中の二次創作品に含まれているいくつかの絶対的差異である。かわいそうに、連中は知らないのだ。何かを創作して発表することは、自らの欲望の暴露と不可分であることを。たとえ他所の暖簾を借りた二次創作物であろうと、「この程度でいいでしょ」・「だってワタシってそうなんだよね」・「人が作るものって、そもそもこういうことじゃないですか」程度に蔵されている見くびりのすべては、作品自体の内容によって明らかにされてしまうことを。

 私が再掲したのは、あくまで西暦2016年時点で出した2作のみである。前述の通り、私が小説の名において発揮すべき創造性のすべては、 Twitter のアカウントを削除して2年後に突如として書き始めた『χορός』にて出し尽くした。この長編小説はまた、「創作における権力欲への渇仰がどのように悪しき作用を及ぼすか」をテーマにした章も含んでいる。私は他ならぬ「自分の名による自分の作品」を出し続ける人生に軌道を修正したからよいものの、ここで俎上に載せられた2名のような輩どもは、いったい「創作」なるものを通して何を得んとするのだろうか? 二次創作という、「既存作品の有名性によって確保される消費者数」の粗悪ドラッグを打ち続け、連中は「作家」としての階梯を着実に上ってゆくつもりなのだろうか? 他ならぬ『アイカツスターズ!』本編こそが、「誰かのマネや卑小な安逸でなく、自らの仕事に取り組まねばならない」というテーマを2年間にわたり描き続けた傑作だったにも拘らず?

 修辞疑問をこれ以上連ねても益などあるまい。このへんで畳もう。本稿で明らかにされたのは、ファンアートなるものを介して明らかにされる人間の欲望、その浅ましさの諸様体であった。口先では「創造性」らしきものを喋々する人間も、まさに自らの手元の仕事によって、具体的な欠陥を明らかにせざるを得ない。 “心の闇の怖さをわかってない/子供ってやつはいつも幸せだ” 。筆者はもはや、まかり間違ってもファンアートや二次創作になど興じない。その一方で、あらゆる次元で不毛が極まったファンダムが明らかにし続ける同時代の病、その所在については、これからもありがたく勉強させていただくとしよう。





付録:

↑noteで「アイカツ」と検索するだけでこういうのが見つかる。ちなみに筆者は、こいつがとある『アイカツスターズ!』にまつわる「炎上」案件に際して表明していたブログ記事に、「あなたが書いたことは決して間違っていない」という激励のコメントを寄せたことがある。たしか西暦2017年のことだったろうか。しかし、あれから時が流れ、まさかここまで甘え腐った泣き言を垂れ流すだけのガキに成り下がってしまったとは。
 こいつは例の「プリキュアショーの皮をかぶった性犯罪未遂事件」の報道に接してたいへん心を傷めたらしいのだが、過去数年間にわたり飽きもせず Twitter 上にて女児向けアニメの登場人物に関するポルノグラフィックな妄想を垂れ流している * * こいつが、一体どのような合理化の機制によって「ぼくはちゃんとしたプリキュアのファンなんだ」という自認を得ているかについて興味が絶えない。私のように女児アニメのファンダムからとっくに足を洗った人間からすれば、児童ポルノまがいのプリキュアファンアートをRTし続け、あまつさえSSという形式で自身も極小規模の創造性を発揮している時点で、こいつも例のプリキュアショー興業者と全く同程度の(プリキュアファンダムの)面汚しである。


↑本稿では俎上に載せて分析したが、わざわざそんな迂路を取らずとも、 tunacan 某の “自身の「無能力」への盲信” はこのとおり自白されているのだ。中学生の頃の彼は、たかが音楽教師ごときに一体何を期待したのだろうか? ミュージシャンの大多数は学校での音楽教育など一切相手にせず、好きなように自らの表現を身につけるのだが、彼はそのような常識さえ知らなかった(または理解させてくれる表現者が周囲にいなかった)のだろうか?
 このように、自分が何かしらの芸術表現を獲得することさえ怠けた理由を中学教師のせいにしてしまえる tunacan のような人間にとって、「音楽を利用して音楽を侮辱することに関してのみ天性の才能を持っている男」こと山中拓也の作品などは、逃避先としてうってつけの穴蔵なのである。



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↑凄い作品だよ。ブルーレイで毎年観なおしてるけど、未だに新しい発見が尽きない。驚異の泉のような達成。



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