好き好き大好き(という情動が音楽ドキュメンタリー作品に与える若干以上の影響について)


・数週間前、クロソウスキーの『かくも不吉な欲望』の日本語訳がどこから出てるか調べるうちに河出書房新社のサイトにアクセスし、「あっマズい、新書を出しはじめてから一気に終わった出版社の新刊案内なんか見てしまったら私は」と思いつつも(というか、その欲望を自覚していたために案の定)スクロールしてしまったのですが、そこに表示されていたのがロナルド・ディヴィッド・レインの詩集2点だったのですね。まあ、今レインの詩集がああいう表紙画(気になった方はご検索を)で出てしまう必然性自体は(仕方ないよなあ、という意味合いで)解りすぎるほどなんですけども、やっぱりデジタル画像データで目にしてさえキツいものがありましたねえ。

・私は『好き? 好き? 大好き?』所収のものを数編読んで溜息とともに書架に戻しただけなので、知ったような評言などありませんけども、レインの詩はおぎやはぎのコントで使われるくらいが適切な収まりどころだと思います。小木博明さんがあの声と所作で「ねえ、僕の頭知りませんか? 探しても見つからないんです」みたいにやってくれたら順当に笑えるでしょ。クスっと笑って済ませるだけの物事を珍重して神経質に扱っちゃってるのがレインの詩なので、おぎやはぎに救ってもらうくらいがちょうどいいですよ。しかし先述の通り、西暦2020年代の世相は相変わらずの軽症ニューロ耽溺みたいな方向に行っちゃってるわけでね、蒸発してますよねえ当然流れてるべき時間=歴史性の存在が。

・今こそ『好き? 好き? 大好き?』がみすず書房から最初に邦訳刊行された際の表紙画を見直していただきたいんですが、あれこそが批評性というものですよ。ハートの模様が刻印されたカラフルな錠剤がズラーっと並んでるの。90年代のクラブカルチャーをご存知の方なら、あれが所謂 E(cstasy) のパッケージを模したものだと瞬時に解るでしょう。つまりレインが扱ってる題材自体が、Eの錠剤で享受されるような(往々にして対人的かつ即物的な)嗜癖そのものであると表紙画自体が言い当てちゃってるのね。それが90年代的なレイン耽溺(エヴァやLain云々の話はしませんよ、野火ノビタにうっかり萌えちゃった斎藤環の痛々しさについてはちょっと触れたいけど)への最良の批評になってるの。さすが現今の日本国で存続を許されるべき唯一の出版社ことみすず書房の仕事。現在の河出が纏綿してるどうしようもなさとの差が鮮やかに際立ちますよねえ。

・私自身は『好き? 好き? 大好き?』が名邦題だとは思いませんけども、試しにこのタイトルからクエスチョンマークを抜いてみましょう。『好き好き大好き』ってこれエイミー・ワインハウスよね。彼女の精確な伝記本がいま出たらこのタイトル以外に無いでしょ。エイミーのヤバさの片鱗に触れたかったら、 Amazon Prime で配信されてる 007 の歴代音楽ドキュメンタリーを観るといいですよ。そこで一瞬だけエイミー(主題歌の話は頓挫した)の話が出てくるんだけど、もうそれだけで全部持っていっちゃうの。彼女が主題歌のコンセプトについて熱心にノートを取ってるのかと思ったら、そこに書かれていたのは……って話。最初に観たときは頭抱えましたよ、こんな細切れのエピソードに猛毒を盛ってしまう(生前の)エイミーの凄まじさって何なんだよと。もうレイン耽溺者が弄ぶような対人嗜癖の薄寒さなんて欠片もないのね、ただ『好き好き大好き』で、その愛でしかない情動がどれだけ彼女の命脈を短くして・かつ音楽業を素晴らしくしてしまったかを一発で説得されるのよ。



〔後略〕


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