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ついに「鄧小平路線」も否定か? 鄧小平人脈の一掃へ進んだ習近平主席~行き詰まる中米関係を背景に統制強化?


【画像① 軍首脳部など各方面での”粛清”を強行し、権力集中を進める習近平主席は、とうとう自身が党総書記に就任した際、「路線を堅持する」と宣言した鄧小平氏の「改革・開放」路線をも否定していく方向に踏み出したようだ】

◆9月20日に「中国身体障がい者連合会」名誉主席を退任していた鄧小平氏の長男=鄧樸方氏


今日、中華人民共和国が国家の政治・経済体制の基本にしている「改革・開放」路線(市場経済を通じた経済発展を通じて社会主義をめざす)を創始した毛沢東没後の最高指導者、鄧小平氏の長男で、自身が設立した「中国身体障がい者連合会」の名誉主席を35年にわたって務めてきた鄧樸方氏(79)の9月20日にその職を退任していたことが判明した。台湾のメディアなどでは、かねてから習近平氏の執政が「改革・開放」路線に反しているのではないかと示唆する発言を繰り返してきた鄧樸方氏に対して、習指導部が”報復に出たのではないか、と憶測を呼んでいる。

鄧樸方氏は、障がい者福祉の推進で国際的な取り組みでも活躍して海外でも高く評価され、日米を含む西側諸国でも政界、経済界との人脈が広い。共産中国においては珍しく2003年12月に国連人権賞を受賞した他、05年11月に国際パラリンピック委員会から最高名誉賞である「パラリンピック・オーダー」(勲章)を授与されている。


【画像② 1968年、文化大革命のさなかに父・鄧小平氏が「走資派」(資本主義に走る修正主義走狗)と毛沢東盲従派によって追放された煽りで、在学中の北京大学で紅衛兵たちから学内ビルの4階から突き落とされ、脊椎損傷による下半身不随になった鄧樸方氏は、一時失意のどん底に陥り、「自殺未遂も起こした」と筆者は彼の知人から聞いたことがある。父の復権、最高指導者への返り咲きと共に鄧樸方氏は身体障がい者福祉政策の推進役としての立場で、西側諸国との交流の幅を広げる役割を果たしてきた。】

◆文化大革命の”被害者”として共通の土壌を持つ習氏と鄧氏だが…


1950年代末期から60年代はじめにかけての「大躍進」路線による大失政(工業化を焦るあまり農業政策をおざなりにし、無駄な大衆動員による飢餓発生で数千万の餓死者を出した)で、事実上”引退”を余儀なくされようとした毛沢東主席が、1966年に中国革命のための内戦や抗日戦争での同志たちである中共指導者、劉少奇主席や鄧小平氏を批判して自身の復権闘争を開始したことに端を発した文化大革命。これは徹底した毛沢東神格化と既存の学問や知識人批判をもともない、「中国全体を毛沢東思想で染め上げ、世界革命をも指導していく」というとてつもない大粛清を紅衛兵という若者を扇動して作らせた”狂信者集団”の暴力で実施したものだった。

毛沢東に服従しない党や行政の幹部、大学の学者、教師たちは紅衛兵集団によるつるし上げを受け、その暴力行為で死傷する者が多数だった。毛沢東の死去(1976年)で文化大革命は終局したとされ、その後復活した鄧小平氏の指導下、中国共産党は文化大革命による不当な被害を調査したところ、「弾圧され、被害を受けた数は1億人」とされた。

この文化大革命では、習近平氏と鄧樸方氏双方の父、習仲勲氏(中国共産党八大元老のひとり)と鄧小平氏が「修正主義者」「反党分子」として糾弾、弾圧され拘束された。家族、子息も無事では済まず、習近平氏は「思想改造」のために「農村下方」の名目で中国奥地の貧しい農村に送り込まれ、学業もままならない状況におかれた。北京大学在学中だった鄧樸方氏は、紅衛兵による糾弾活動の中で大学構内のビル4階から突き落とされ、脊椎損傷で下半身不随の重傷を受けてしまう不幸に遭遇した。


【画像③ 1967年、文化大革命のさなかに「造反派」と呼ばれる毛沢東盲従グループによって街中に引き立てられ、糾弾される習近平氏の父、習仲勲氏。彼は鄧小平氏が「改革・開放」路線を撃ちだした1978年まで、獄に監禁され続けた。】


そうした中国にとっては「暗黒の歴史」期の体験で共通の土壌を持つ鄧樸方氏に対して、習近平氏側はなぜ排除の挙に出たのか? 中国の各種団体の役員人事は、すべて党の指導と承認なくしてあり得ない。通常は「終身役職」である名誉主席の退任という今回の異例の事態に、習近平党指導部が関与していないことはあり得ない。


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