見出し画像

京育ちに聴く vol.1 地名の由来に見る京都の暮らし

この「京育ちに聴く」は、子供の頃から京都で育った方にインタビューしていくシリーズです。今回は上御霊神社の近くで京料理店を営まれている方に聞いた京都の地名のお話です。

京極


昔の京都は、現在の京都市より狭かったらしい。当時の京都の東の端だったから、文字通り京の極端で「京極」。反対に、西の端は「西京極」。

河原町


京極が端だったから、今の河原町付近は文字通り「河原」だった。現在は一番賑わっている地域が、昔はどんな風景で、どんな印象を持たれていた場所だったのだろう。

荒神口


京の町は木造の建物が密集していたため、火が出ると都全体が燃えてしまうことも少なくなかった。京が焼けたとき、御所の天皇専用の非常口となったのが、この「荒神口」。天皇が鴨川を渡って現在の京大病院の方に逃げるための通路だったらしく、非常時には一般庶民は通行を禁止された。

鞍馬口


京都の中心であった上京区の北端が鞍馬口。鞍馬とは遠いのに、なぜこのような駅名なのかというのが疑問だったが、鞍馬など山への入り口、ということで街との境目というイメージらしい。

小川通


応仁の乱の時、上御霊神社のある地域、小川通の小川を境に、西の陣と東の陣が向かい合った。西は山名、東は細川。一説によると、大文字はこの時の多数の死者を悼んで作られた。「大」の字が、御所ではなく、少し北を向いているのはこのためとも考えられる。

相国寺


室町幕府3代将軍・足利義満は、毎日のように嵯峨までお参りに行っていた。しかし、往復で丸一日かかる嵯峨へ頻繁に足を運ぶことは、政に差し支えるため、近所に相国寺を建てたという。

出町柳


海や山から特産品を運んできた人々が、売っていた場所。京都の町の中に入るのは怖かったらしく、河原の方に少しはみ出た「出町」が商売の場となった。

寺町通


五条から鞍馬口まで、寺院の並ぶ寺町通。この通りは秀吉の治世に作られた。
秀吉がここに寺を並べたのは、三つの利点からだという。
・寺には土塀があるため、鴨川が氾濫した時の堤防になる。
・非常時には寺に自分の軍隊を駐屯させ、京都を守ることができる。
・京の中心部から寺を追いやってその権力を奪う


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?