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最近読んだ「社会」を考え直す4冊。ULMR small work3

「ULMR small work」 とは、編集長のおかふじによる本の紹介を中心とした断想集です。

『日本衆愚社会』と『愚民文明の暴走』を読む。
どちらも民主主義に異を唱えているので、アレルギー的に嫌悪感を持つ人も多いだろうけど、食わず嫌いはよくない。あれよあれと雑多で痛快な語りに引き込まれていく。

まずこの本、というか両方の著者である呉智英は、民主主義よりも一部のエリートによる統治を求める。

簡単にその主張をまとめると「三権分立のうち、司法と行政にはそれぞれ司法・公務員試験という試験があるのにも関わらず、どうして立法だけ試験がなく皆が無条件に投票権を持っているのか」と問う。
恐らく誰も答えられない。

細かい政治学の話は置いておくとして、とにかく基本的には「政治について全然知らない人が投票したって、危なくて仕方がないでしょ?」という態度が貫かれている。 たとえば、義務教育過程が終了した程度の試験を課し、それをクリアしたら選挙権がゲットできるシステムの提言は大変面白い。

当たり前のように、民主主義という言葉を素晴らしいものとして考えがちだか、実はその根拠はそんなに無い。大きな戦争の裏側には大衆の暴走があるように、むしろ無防備な民主主義は危険である。

とはいえ、仮にエリートによる統治が進んだところで、そのエリートたちにもダウンサイドのリスクを背負わせるシステムがないと、いずれ腐敗するだけだろう。 免許を持っていても事故を起こせば免許の剥奪、賠償、逮捕は有り得る、という状況まで作らないと、エリートと非エリートがフェアじゃない。



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今西錦司全集、第五巻を読む。 『人間以前の社会』『生物社会と人間社会』『人間社会の形成』が収録。 生物の生態という観点から社会学を考えることで、より大きな時間軸の上に近・現代を置けるんじゃないかと思って読んだら、自分の問題意識と共鳴するところが随所にあったので、紹介がてらメモ。

さて、今西錦司という人が、特にわかりやすく面白いのは、彼が観ているその社会観だ。 まず、著者が大分県や宮崎県でニホンザルの調査をした時のおもしろエピソードを紹介する。

なんやかんやあって、遂に調査隊が猿の群れを発見する。すると、その群れの中で一番大きな猿が調査隊を威嚇をしてきた。その間、他の小さな猿は沈黙している。

しばらくすると、さらにカラダの大きな猿が来て、さっきまで威嚇していたら猿と交代して威嚇を始めた。そして、最初に威嚇していた猿は、今度は沈黙状態になったという。 くわえて、また別のエピソードを紹介する。

高崎山の調査にて。調査隊が、小猿のグループを発見する。すると小猿のグループが、威嚇とは違う鳴き声で騒ぎ立てた。 あとでわかったことだが、実は近くで中ザルグループがタケノコを取っていたので、小猿グループは見張り役をしていた。

威嚇とは違う鳴き声で騒いでいたのは、「人間が来たぞ」ということを中ザルグループに知らせていたのだ。 さて私たちは、この猿たちに観察されるような、生物が群れの中での秩序を持ち合わせるということを根拠にして「社会的な動物だ」と考えがちだ。

けれども、そういった定義に留まらず、もっと広い枠組みで社会を考えるのが、今西錦司の面白いところである。

生物学主義の立場からいえば、社会とはこういうことになる。簡単にいうならそれは、同種類の生物の個体が、その働きあい(interaction)をとおして成りたたせている、一つの生活のオーガニゼーションである。(57頁)

ついつい私たちは「社会」を考えるときに、個体の「集中」、つまり群れを重視してしまう。その群れを過剰に重視することに対して、今西は疑問を投げかけているのだ。

むしろ、一見すると「分散」しているように見える生き物たちであっても、たとえば有性生殖を営む生物であれば、繁殖が不可能になるほどちりじりにならないのだから、一見するとバラバラに生きているようであっても、要所要所で個体同士は交わっている。

また、個体同士が分散してバラバラな日常を送っているようにみえるということは、逆説的に、その個体同士がそれぞれのテリトリーを持っているということであり、ヤクザのシマのように、それらは互いに影響しあっている。分散しているようであっても、そこに社会は見いだせるのだ…

…というのが、まだ途中までしか読んでない俺なりの雑な今西錦司社会観の要約だ。個人的に、今西錦司のこの社会観は、かなりアナキズムと親和性が高いように思う。『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』的な感じがあって大変面白い。

全集の付録で、関係者による今西錦司のエピソードも面白く、エピソードからは総じて「山や生物が大好きな学者らしくないおじさん」という印象を受ける。

調べると、ダーウィンに対抗した今西錦司の進化論はなかなか学問的には厳しい評価をされているようだが、そんなことは在野の俺にとってはどうでもいいことで、とにかく今西錦司は俺の中で「たのしい生き物の話をしてくれるおじさん」という位置づけになった。また他の本も読んでいこう。



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柳父章の『翻訳語成立事情』を読む。 「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」といった言葉は、幕末から明治にかけて新しく作られた造語である。 たとえば、社会を表す「Society」の訳の意味の変遷が面白い。

「交ル・集マル」→「侶伴」→「寄合又集会」→「仲間、交リ、一致」→「仲間、組、連中」……となっており、最初はどれも小さな範囲での人間関係を表していた。

なぜ現在使われているような「もっと広い範囲での個人の結びつきや集合体」を表す意味が不足していたかというと、そもそもその頃の日本には「国」や「藩」といった身分に基づく人間関係はあったが、個人の広い人間関係というそのものがなかったからだ。

その後、もっと広い人間関係を表せるように福沢諭吉が「人間交際」と訳してみたり、当時の流行語であった「社」が使われたりしていくなかで、次第に「社会」が定着していった。

面白いのは、どうして「社会」が訳語として生き残ったのかというその理由。 それが「Society」 の翻訳ために作られた新造語だから、元々の「社」や「会」の語感が乏しく、だからこそ逆説的に生き残ったのではないかと柳父章はいう。

そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分からなくても、ことばじたいが深遠な意味を持っているかのごとくみなされる。分からないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈絡が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。(22頁)

デジタルトランスフォーメーションの略でDXと言われる昨今、良いDXや悪いDXやらが論じられ、バズワードになってたりするけど、得意げにDXという言葉を使う大人に「そもそもDXってなに?」と聞いて答えられる人は少ないだろう。単なるデジタル化となにが違うのか、ほとんど明言されていないし、誰かが明言していたとしても、それが広く共有されていない。だからこそ、流行る。

最近英語をちょこちょこ勉強しているので、貪るように読めた。「我思う故に我あり」は英語だと「I think therefore I am.」と紹介してあったけど、なんか英語の方がわかりやすい気がする。訳語はゴテゴテした漢字が使われることが多いので難しさや単純な視認性の悪さがあるけど、わかるようになったら、昔の訳書とかは意外と英語の方が読みやすいかもしれない。



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森 元斎『アナキズム入門』を読む。 アナキズムと聞くと、理想のためには躊躇なく暴力を行使するような野蛮なイメージが強いかもしれないが、基本的には「それぞれ自律して、協力しながら自由に生きていこうぜ」という精神の構えがアナキズムである。

だからこそ、その自由を権力から守るために最終的な手段として暴力がある。 個人的には、大なり小なり人は皆アナキズム的な素養を持ち合わせていると思う。 たとえば、ぼくの周りには、前時代的な家父長制は嫌だけど、かといってポリコレ的な規範も息苦しくて気持ち悪いという人が多い。

それって要するに、父権的なものや、どこかの誰かに勝手に決められた規範といった「権力」が嫌なわけでしょう? あなたのその感覚、アナキストの片鱗じゃね?(笑)。 他にもとたとえば、シェアリングエコノミーやDIYも、単純に新品を買う消費に比べれば、十分にアナキズム的な行為である。

抽象的な概念でも商品でも、それらを他人やシステムに任せるのではなく、まずは自分や仲間たちの手元に手繰り寄せること。その喜びはアナキズムへと通じている。

本書のはじめにも書いたが、鶴見俊輔のアナキズムの定義が、とてもわかりやすい。「アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」だ。つまり「相互扶助」であるのは言うまでもない。クロポトキンが示していた通り、こうした相互扶助は以前からもあったし、これからもあり得ることだ。そこに私は少なくとも救われる思いがする。 (254.255頁)


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