見出し画像

そろそろなにがこんなに苦しいのか考えてみようぜ その1

最近考えてたことなので、まあ日記っちゃ日記。
今日はプラの配信みて電音部のリリースに震え、NHKオンデマでトヨタの犬を見ておびえました(日記の部分)

●下記のあらすじ
恋愛がわからないので苦しんでいたが、ロマンティックラブイデオロギーの考え方で少し助かったの回

●まとめ
なんでこんなに苦しいのかは分解すると以下の二つの感情
・旧時代の価値観に合わせた決めつけへの抵抗感
・楽しそうにしている人たちの輪に自分が加われない嫉妬心

●対策
決めつけには定期的な発信。
恋愛が普遍的ないいものであるという思い込みを外し、人間関係のある状況として自分の中で置き直す。
嫉妬であるということを理解する。
自己肯定感が低いのでその辺はもうすこし考える。

●近況となぜそういう考えに至ったのか。
姪が生まれ、疫病のあれこれでまさかの無茶苦茶世界になってしまい、数か月経って先日やっと田舎から私の父母も出てきてお宮参りが開催された。
疫病が落ち着いたわけでもないので心配だったが、まあその辺に関しては弟夫婦の判断ですから、とし、親と数日共に行動を共にしたわけである。

私も妙齢の女性であるので、となるとやはり親からの「赤子、かわいいでしょう(あなたもいかがですかという圧力、無自覚)」等の発言、視線がやってくるのである。
私自身は子供の頃から筋金入の子供は持ちたくないタイプなので、親には一応話をし、一応納得もしてもらってはいるのだがやはり口ほどにものをいう目まではどうすることも出来ずに別れ、その後結構な体調不良がいろいろと出ている。身体は正直……。

この話はこの話として、結婚もしていないのでその件もいろいろ言いたいところがあるらしく、さらに自営業という"博打"をやっている私を父親などは完全に落伍者として扱っている。赤子には「この人のようになってはいけない」と語りかけていた。
自分なりに頑張っているつもりなので残念だが、「家庭を持ち勤め、子供をつくって一人前」というクラシックな考えが根底にあるようだ。あとそういうことされるからこっちはなけなしの自己肯定が傷つくので今後はしっかり怒るぞの決意を新たにする。

子供を産みたくないのは産みたくないからなのだが、結婚はパートナーもおらず、とくに必要を感じなかったので探していない。今後必要を感じたらしてもいいとは思う。してなくても特に問題はないとも。
あと、こういうことを書くとオリンピックくらいの頻度で「私、結婚してるんですけど」と謎のマウンティングを始める知らない人が出てくるが、結婚してないことはそこまで悪いとは思ってないので、「お前の字は無茶苦茶汚い、郵便局のひとも毎回困っている。」などと言ってもらったほうが申し訳ない気はする。

別に重きを置いていないだけで今後結婚する可能性も0ではないかな、と思う。限りなく0に近いな、という気持ちもあるが。自分の決定に自信がないのでいつでも撤回する余地は欲しいのである。
日記で何回か書いたように作業場を合同で使っている人間も何人かいるため、日々コミュニケーションはそちらでとっているし、人間と共有スペースを使うという経験もそれなりに楽しんでやっている。食事を共にすることもある。
ルールがある程度決まっており、話し合いで解決できるなら人と暮らすのに抵抗ないほうだと思う。
しかしなぜ結婚してないのかと聞かれると、パートナーがいないからで、なぜいないかというと積極的に探さなかったからと、恋愛をしなかったからである。

恋愛。

恋愛はなんだかとにかく特別視されている。

古典的なストーリーには恋愛が組み込まれていることが多い、神話にもあまた一目ぼれなどの恋が語られ、源氏物語に、円卓の騎士にと中世になっても恋愛のあれこれは物語を進めていく動機になる。人間が愚かな選択肢をとったとき「愛する人のために」なんてのはよく語られている。私が子供の時だって、セレニティとエンディミオンの恋なんかを筆頭にりぼん、なかよしには様々な恋愛があふれていたし、ジャンプにだってポップとマァムの恋愛があった。
人間の関係には恋愛というものがあり、それは友愛や、隣人愛、などよりも強く、上にくるものとされる。私も幼い時はそれに疑問を持たず、子供の頃には誰が好きかと聞かれ適当に目立つ人間の名前を答えたこともある。(今思うと単純に顔の好み)

ただ思春期を半ばを過ぎ、それなりにいろいろな友達や知り合いができたりしたところでやっと、この世で言われている恋などは全くしていないなと気が付いた。「面白い人だ! もっとお話ししたいな!」とか「気が合うな! お話をしていて気楽で楽しい」行っても「この素晴らしい人の助けになることをわたしは何かできるだろうか?」と友達全般に思う。
「こんなことまでできるなんてすごい、私もこれぐらい何かができれば…」という嫉妬や、「私のために時間を使ってくれ」などの執着もあったけど、それはそれだ。
「絶対にこの人の一番になりたい!」とか「この人が笑ってくれるなら何でもできる!」とか「他の友達とは全く違う特別」も「この人と絶対にお付き合いしたい!」も「この人と絶対にセックスしたい!」も全くなかった。
もちろん恋愛がいいものというすりこみもあり、やったことのないことへの興味はもちろんあったし、いくつかはできたのでやってみたが、いわゆる恋愛については今でも理解できていない。習うより慣れろで飛び込んでみたらどうにかなるのでは!?と思ったが、ただ徒労が残るのみだった。
ある程度の数の人間はそれでもなんとなく誰かから思いを告げられたりして一緒に居ることを選んだりするのだろうが、私は内心がまろび出ていたのか、それともただ単に非モテだったからか、だれとも一緒になることもなくすくすくと成人し、ゆかいなマンガやかっこいい音楽にかまけながら小説を書いたり服をたまに作ったり就職をして仕事をしたりして暮らしてきた。

そうなるとこんどは「いい年して恋人一つも出来ない不良人間」となって、それはそれでいろいろあったり親に泣かれたたりして、そういうことなどもあり親元を離れ、たまたまのラッキーによって東京まで来たりした。
恋愛感情がない人間としてアセクシュアルなどの概念も得たが、私は何につけても自分のことが一番信じられないため、本当にそれで一生固定されるのか?と言われると死ぬ十日前に一生分の恋に急に落ちて悶えて終わることもあるかもしれないとは思っている。ただ今のところ恋愛が全く分からないのは本当だし、暫定的にはアセクということなんだろう。
恋というのは、特に最初期は大体脳からご機嫌な物質が出てるらしいという話もあるので、多分このへんの出が悪いか、多数派とは別のところにスイッチがあるのだろうな、という理解をしている。人と違うことを障害というのならそうなのかもしれないが、別に迷惑をかけなければ個性の一環だろう。
あとはまあ自分自身を愛していないから、その分人に向けることも出来ないというのがあって、これはこんど自己肯定感がクッソ低い件をゆっくり考えてみるべきだとは思う。生きていて許されたな、と思ったことなんて一度もない。365日、消えたいか死にたいかめちゃくちゃ死にたいかのどれかが続く。

しかし恋愛は今でも人間の大きなテーマであり、人によっては非モテが辛すぎて死んだりするレベルらしいし、恋愛をしていることは一人前の市民の証左みたいな感覚はいまこの世界にもたしかにある。なんだかそれは他人のことを考えられる人間的成熟のガワだけ見てるんちゃうか、という気も若干あるけどそこは確証ない。

解らん解らんとわめいていると、友達がいろいろコメントをくれたり、一緒に考えてくれたりした。
それと最近ロマンティック・ラブ・イデオロギーということばを知って、なるほどなあという気持ちになった。内容については私自身も先日改めて意識をしてまだ本なども読んでないので各自探ってほしいが、まあ「恋愛」と「結婚」と「子供を産んで育てる」をセットでいかがですかという話らしい。
言うても人間の歴史でそんなことが普通に、たくさんの人ができるようになったのは早いところでも19世紀、日本ではせいぜい戦後からなので(それ以前は見合い婚に類するようなもの)恋愛はそんなに重要視されてこなかった。しかし近代になって今までの封建社会へのカウンターとして「自由意志」のある人間は「自由恋愛」して「自由結婚」するものとしてもてはやされた。さらに時代が流れて現代となり、かつてのカウンターはイデオロギーとなり、時に我々の前に立ちはだかったり、内面化して苦しんだりするらしい。と、この辺は友達に教えてもらった。

そうかーと思った。
「自由恋愛」してない私は上の世代には「自由意志」が無いように思えるのか~という気づきがあり、それと「家庭を持ち子供をつくって一人前」というもうすこし古めの概念が一緒になってやってきてたんだな~なるほどーとなった。
私は「意思のない、一人前ではない」人間だと思われることが、たとえそれが本当にそうであるとしても、恋愛をせず、子供を欲さないというただ、そうは思わなかった、ただ、向いていなかったことでジャッジされるのが苦しいんだな、というところまでわかってきた。

そうは言っても楽しそうに恋愛に耽る人たちは、楽しそうなのでうらやましい。隣の芝は青く見える。しかしいざ隣の庭に行ってみても、結局それになじめないので、さっきまで燃えるように青かった芝は急に枯れはてて、楽しそうにパーティをしていた人たちは私のことを異物を見る目をしていぶかしんだり、憐れんだりし、なんなら急に落とし穴が発生して落ちて苦しむ羽目になる。
これは要するに恋愛を楽しめる人間への嫉妬心で、なぜことさらそんなに楽しそうに思えるのかというと、やっぱり特別いいもんですよという刷り込みが関係しているのではと思う。あと自己肯定感の低さ。私は結構嫉妬深い人間なのだがこれは自己肯定感がバリバリのバリクソにないことが原因と思われる。自分が嫌いだから他者も尊重できない。これは何にしても良くない。姪にはぜひ定期的に会い褒めていきたい。

結局、恋をする人が多いのは確実で、だけどわからないしわかったフリをするもの辛そうなので、このイデオロギーのことは、そこにありますよ。私は合わない人間で、そういうのもいるんですと、一生言っていくしかないんだろうな、とは思う。
せいぜい自分の庭の手入れをして暮らしていくべきで、今の世の中の変化のスピードなら、この間生まれた姪が大人になる頃にはそういうのもあるよねと、「恋愛、したければしたらいいし、したくなければそれでいい。してないおばちゃんも、それなりの庭を持ってるし。」になっておいてくれないかな。

恋愛を辞書でひくと「〘名〙 特定の異性に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、その状態。こい。愛恋。(精選版 日本国語大辞典 アプリ版)」とあるが、この異性、という表現は表現はたぶん次の版かその次の版にはなくなるだろう。そのくらいのことは私にも分かる。その次の次ぐらいには、なんとか。

苦しいことを、苦しい!と叫ぶことに、意味がないとは思わない。吹けば飛ぶような絶望でも、なんかの足しにはなるだろうし。なぜ苦しいのか分かったら、苦しまずにすむ方法もあるだろう。

苦しみ、恋愛わからない編をお送りしました。
今後は以下のどれかです
ルッキズム内面化苦しみ編
自己肯定感終わり編
自他の境界曖昧編

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?