84°33’

 おれの名前は日という、妙な名前だということは知っている。母はなぜだか子供が生まれたら晶という名前をつけると昔から決めてたようで、まさかその子供が双子だというのをまるで考えていなかったから片方には望み通り晶とつけてもう片方には日とつけた。安直。おれたちの父親の名は柘植といい、ツゲアキラは語呂がいいがツゲニチはどうにも収まりが悪い。音のせいで子供のころはツゲグチと稀にからかわれたが、もともと二分の一な上に晶と日で三分の一、都合六分の一の存在なのでとくになにも思わなかった。おまけの息子、それがおれだった。 おれたちの家は東京の真ん中と端っこの中間にあって、人に言わせるといいところらしかったが、子供には関係のないことだ。おれの家は広くも狭くもない古い二階建ての普通の家で、とくに金持ちなどではなかったが、たしかに周りの家の子供たちは静かに笑っているような人間がやたらと多くて、物心つく前からやれ塾だ、ピアノだという話は普通に聞こえてくるようなところだった。おれは何もしていなかったが晶のほうはエレクトーンをやっていた。おれ自身はなにかをしろなんて言われたことはなかった。放り出されて関与も期待もされずぼんやりとそこに立っている子供。それがおれだった。

 こんなことを言うと恨み節のように思われるかもしれないが、おれ自身にも問題があるということは知っていた。おれと晶がまったく同じタイミングでなにかを始めたとすると、ほぼすべての事柄でかれのほうが先に上達し、習得するのだった。歩くことや、言葉の使い方などという生きていくのに基礎的な事象ですら晶はおれより早く身に着けた。漢字の読み方、縄跳びの仕方、楽器の弾きかたに至るまで一事が万事その調子で、おれが唯一かれより上手に学んだものは諦めだったと思う。

 おれ自身は、晶のことは好きだった。というか、かれにはどこか不思議な魅力があって、それを嫌う人というのは見たことがなかった。それでいて、かれの好ましさについて話すとみな口々に違うことを喋るのだった。まだ歳若いのに人に合わせられる柔軟さがあるという意見があれば、自分をしっかり持っているという人もいた。とにかくやさしい子供だという声もあれば、なかなか猛々しいところがあるというふうに、対極の評価をもらうこともよくあることだった。どこか鏡のように、かけられた期待をそのまま跳ね返すようなところがある子供、それが晶だった。父も母もそれに気がついていないように見えた。かれの本質は鏡であるということを、おれだけが知っていて、おれはそれだけがたよりだった。かれがとても静かな眼差しを持っていることを人は知らない。名前の通り澄んだ水晶のような感情の混ざらない眼差し。覗き込んだものがそのままかえる鉱石の目線。

 かれのことについては、思い出すのは些細なことばかりだ。水を飲むときの喉の動き方だとか、走っていたそのかたちだとか。 小学六年生のときの運動会で、他の子供たちよりすこし早めに伸びた身長にいまひとつ似合わない白い運動服を着て、地面から五センチ浮いたような雰囲気でグラウンドに立っていたかれのことを、おれは多分忘れることはないんだと思う。花形競技の学年対抗リレーだったか。おれとおなじ遺伝子で形作られたなんて思えない、どこかウソみたいな感じで骨の浮いた脚をさらけ出していたこと。それでいてスタートの前にぎゅっと屈伸の動きをしただけで押さえつけられたばねのように目が髪が関節のひとつひとつがぎらり、ぎらりと輝いて、渡されたバトンを握りはじかれたように走っていく、四肢がしなやかに動く。すべての運動がまっすぐ進む力になる。今手元を離れた矢のように滑走していく!

 そのまままっすぐゴールに飛び込んで、すでに出番を終えていたまわりの子供達がわっとかれを取り囲む。かれはにこやかに微笑みながら、すこし照れたようにしていた。おれといえば次の団体競技のためにごちゃっと集められたその他大勢のなかに埋没していて。かれは走るのは早かった。それが好きだったかどうかは知らないし、晶がおれのことをどう思っていたかはわからない。今となっては聞くすべもない。かれは十五歳で死んだ。

 健康でうつくしい子供だったはずの晶が不意に高熱を出したのは十四歳のときだった。夏休みが終わってまだ一月も経っていないのに急に冷え込んだ後、酷く高い熱を出して寝込み、それからは朝には微熱まで下がるが、夜になるとまた高い熱を出すようになった。完全な平熱までは下がらずに、学校をしばらく休んでいた。おれたちはまだ中学校に通っていて、当然のように人気のあった晶の不在はかれのクラスに奇妙なさざなみを起こしているように見えた。双子でややこしいからか、おれと晶は同じクラスになることはなく、四組ほどあったそれが隣同士になることもほぼなかった。ばかげた話だと思う。おれたちはたしかに容貌はよく似ていたが、口を開き立ち振る舞えばまさかおれとかれを間違う人間なんていなかっただろう。最初から半分以下しか持たされていない人間をより多いほうと比べるのはなんとも酷い話だろうから、隔離されていてよかったのかもしれない。おれはバカだったから、とくに気にしてはいなかったが。おれと同じ素材でできているはずなのにおれより整った身体を持ち、静かな瞳を薄いまぶたの裏に隠し、夏の名残の微かな日焼けの跡がある頬を熱のせいでばら色に染めているかれが、二段ベッドの下の段で白いシーツと布団に埋もれながら熱い息を吐いているのは、痛々しさや、哀れさよりも、おれにはただ不思議に思えた。いつもおれよりうんと高いところを飛んでいる鳥が、地に伏しているような違和感。微かに異音が混じる呼気は口から吐き出されてすぐに空気に混ざるが、子供部屋には隠しきれない病の匂いが濃密に漂うようになった。もともとそのベッドの下の段に寝ていたのはおれだったのだが、看病の問題から発熱が三日を越すと上下が入れ替えられることになり、医者に通えど原因がよくわからないまま一週間を越したころには、晶は客間に寝かされることになった。初めて下が空っぽのベッドで眠ったおれは、その日、ものすごく透明なぬるい海で泳ぐ夢を見た。

 浅い海だった。足がついて、砂ではなく丸い石が敷き詰められているので、ああこれはおれたちのいなかだ、母の故郷の島の海だとわかる。おれたちを生んだ母は南のほうの離島の出身で、そこへはたどり着くのに飛行機やら船やらを乗り継いで、かなりの時間をかけてしか行けないので、おれは物心ついてから数回しか行ったことがなかった。おれが行ったのは一家四人で動くときで、母は法事などで一人で帰ることもあったが、小学校の中学年くらいからそのような機会に晶を同行させることが多くなり、かれはおれの倍ほどの回数その島に行っていたかと思う。

 島はいくつかの小さい島がかたまっているようなところで、母の故郷のそこには数千人くらいの人が住んでいるとの事だった。スーパーが一軒しかないようなそこは、都会育ちのおれたちには見るものすべて珍しく、めまいのするほど青い海に毎日出かけていって泳いでいた。晶は遠泳も得意だったので、いつも一人で足のつかない遠くまで泳いでいって、おれはそれをぼんやりと波打ち際から見ていた。浜は干潮時にだけつながる島を持っていて、その近い島影までずうっと泳いでいく晶はとても自由なものに見えた。その島まで延びる橋のような浜を、砂嘴と呼ぶのだというのは晶が教えてくれたことだ。かれは、運動だけではなく賢くてそういったこともよく知っていた。砂のくちばしって、かくんだよ。と言う唇が、日焼けをした肌となじんで、まるでナイフで切りつけた痕のような奇妙な質感に見える。おれは、なにも言えなくてただかれをみていた。逆光が黒い髪にきらきら透けて。きれいだと思った。

 あれはいつの夏休みだったか。晶がまだ元気だったから、小学生のころだ。かれが死んでからおれは海でなんか泳いでいない。

 晶は確実におれなどより家族全員に好かれていた。父母はもちろん、両の祖父母にもヤバいレベルの溺愛を受けていて、かれが島に行ったときには信じられないいなかだというのになにか贈り物をもらって帰ってくることが多かった。おれにはそんなものはないか、たまに一緒に行ったときに思い出したように小遣いをもらえるか、せいぜいそのどちらかだった。さすがに子供でも、金をポンと渡されるとそうですねおれなんかに興味はないですよね、すみません。という気持ちになる。それは別に悪いことではなくて、なぜなら祖父母が考える子供への贈り物というのは大体ずれているので、うらやましくなどはなかったのだ。大体、小学生の子供に図鑑はまだわかるとして、天体望遠鏡や、万年筆などを渡してなにをさせるつもりだったのか。びっくりするほど高い空が夜でもしんしんと透き通って星が零れ落ちて夜の海にまで散らばる南の島ならともかく、東京の空は夜でもぼんやりと明るいし、おれの家から望遠鏡を突き出したとして、見えるものはせいぜい近所のマンションの外壁だ。おれは、天の川の実在をあの島がなければ信じなかったと思う。

 万年筆も万年筆で、大人が使うような黒い軸のものではなく、水のように透き通ったもので、中のインクが見えるところが、まあ若干は子供向けかと思うがそんなものを使う機会もなく、子供部屋に並んだおれたちの机のペン立てに刺されたまま手を触れられたことはなかった。狭い子供部屋に、それでもなんとか突っ込まれた二台の机にだけはおれと晶の不平等はなにひとつなく、まったく同じ形の、棚と椅子までがひとそろえのよくある勉強机で、おれはそれが並んでいるのを見るのが好きだった。それは、晶が死んでからも片付けられることはなくずっと部屋に鎮座していた。

 晶が熱を出してしばらくした後、なかなか下がらないそれに不安になったらしい母が行きつけの病院を見限り、かれを連れ出すことが多くなった。どこかの病院がいいらしいと聞くと車を出してずいぶん遠方まで行ったり、大学病院で検査をして病気がわかったなどの話が出ると紹介状かなにかをとりつけるのにやっきになったり。いつもきちんとされていた家の中は徐々に荒れはじめ、惣菜やコンビニの弁当が食卓に上がることも増えた。おれも父もべつに晶のことが心配でないわけではなかったが、母の変わりようにはすこし怯えていたのかもしれない。それほどのひたむきさをもって彼女は息子の治療に当たった。結局母が納得のいく結果が出たのは一月も先で、おれがいくら聞いても覚えられない長ったらしい名前がその診断だった。それがわかってもおれたちの暮らしにとくに変化はなかった。晶は入院をすることになり、母はその付き添いで忙しかった。なんだかんだで家から電車で一時間くらいかかる病院に入っていたので、毎日行こうとすると暮らしを圧迫する。普通のことだ。しかしさすがに非常事態だ。文句など言えたわけがないのでおれも父もあきらめてコンビニ弁当を食っていたし、洗濯物を干して取り込み掃除機をかけていた。母はどんどんいらいらするようになっていて、半分くらいはおれたちの洗濯物の畳みかたと片付けかたのせいで、もう半分は手をかけたのにちっともよくならない晶が原因だった。わからなくもない、晶は今までかけられたぶんの手間をきっちり結果として反映していたからだ。塾に行かせれば成績が伸び、楽器を習えばメヌエットでもなんでもすぐに弾きこなす。そういうやつだったから、母も初めてで戸惑っていたのだろう。そのことを責めるのも哀れな話だ。

 おれはのろまな人間なので生まれたときから人間の心の機微がすこしわからないようなところがあって、子供のころそれでずいぶん嫌な目に遭うこともあったが、晶のほうはそのようなそぶりを全く見せずに誰のこともわかるような顔をして生きていた。思えばおれの人生というのは人間らしさを獲得するための長い修行のようだった気もする。働きだしてからもずいぶんそれで苦労して仕事はなんとか人並みにこなしているつもりでも、やれ仏頂面しているとか、連絡が遅いだとか気が利かないだとかそんなことをずいぶん言われた。まあ、実際そうだったので仕方ないのだが。

 そのときもおれは母にかれの病状についていらないこと言ってしまい、鼻血がでるほど殴られた。母がおれに手をあげたことはそれが最初で最後だった。彼女が慈悲深い人間だったか、もしくはよい母だったのかはおれは知らない。なんとなく、母については晶のそれであるのはたしかなことだとは思えたが、まさかおれのお母さん、お袋、ママ、そんなものであるとは思うのは難しいことだった。晶と晶の母、おれからはそのように見えた。

 どのくらい経った後だっただろうか、晶が退院することになって、そこでおれは初めてその病院に行った。なぜか設備の整った最新鋭のイメージを持っていたが思ったよりそこはこじんまりしていて、広い敷地にたくさん木が植えられていた。こういうところに入っても人間は生きて帰れるのだな、と思ったが、かれの顔を見てそれは間違いだったとすぐにわかった。健康的にすこし丸いくらいだった頬はすっかり痩せ、おれよりすこし年上にすら見えた。そうか、とおれは思った。ここにいても仕方がないから帰ってくるだけなんだな。

 母は用事があると言っておれと眠ったままの晶を病室に置いて部屋を出て行った。おれはベッドサイドに置かれた丸椅子に座って、かれを見ていた。カーテンが静かにゆれ、こぼれた光が床に複雑な影を描いた。部屋にはいくつかベッドがあったが、思い出せばなぜかどこも空で、痩せた晶の喉がかすかに上下するのを見ていた。枕元には色とりどりの紙で折られた、千羽と言うにはあまりにも数の少ない折鶴の束がかけられていて、これは学校の連中がこしらえたものだった。晶のクラスとは程遠い教室にいるおれのところまで、ちいさなダンボールに入れられてさも尊いものであるように差し上げられたその紙くずのかたまりを持って帰ってきたのはおれ自身だ。他は本が数冊。携帯ゲーム機、テレビのリモコンなんかがベッドサイドにばらばらと置かれていて、おれが持っていないものばかりだな、と思った。ベッドの枕元にひっかけるようにしてお守り袋がかかっているのが目に入った。見慣れないそれには母のふるさとの南の島の名が書かれていて、おれはなんとなくそれを手に取った。たしかに昔遊びに行ったときにちいさな神社があったことは記憶していたが、こんなお守りが売られていたとは知らなかった。おれはしばらくそれを見つめて、なんとなくその固く結ばれた紐を解いた。お守りを開けてしまうのはよくないことだとは知っていたが、おれが持てないものの中身を知る権利くらいはあるとなんとなくそう思ったのだ。中の薄いものを爪ではさんで引っ張り出すとちいさな薄いスポンジのクッションと、紙切れのようなお札と、薄く透明なガラスの破片のようなものが出てきた。指ではさんで光に透かすとハート型がつぶれてゆがんだような妙な形で、ちょうど中心に入った接合部分の細い線の周りが虹色にきらめくのだった。おれはこれがなにかはわからないが、きっとかれは知っているのだろうと、なんとなくそんなことを思って、おれは生きていて初めておれ自身が惨めになった。同じ遺伝子を持っていて入れ替わることすらできそうなのに、おれと晶はなにもかもが違う。すれ違ったナースが振り返るほどおれたちはよく似ているのに、おれは誰にも好かれず、早く走ることもできず、病魔に蝕まれることもないのだ。おれはどうにもいたたまれない気持ちになって、その透明な破片を持って窓へ向かった。ガラス窓はすこしだけ開いていて、そこから吹き込んだ風がさっきからカーテンを揺らしている。ちょうど子供の腕が通るくらいの隙間だった。おれはそれを握ったまま窓の外に差し出し、手をぱっと開いた。外を覗き見ることすらしなかった。そのままベッドのほうに向き直り、お守りの薄い緩衝材とおふだを元の通りに直して、紐もきちんとしてベッドサイドにかけなおした。人がいじったような跡を根こそぎ消して、おれはもう一度丸椅子に座って、そして晶を見た。病んだおれの双子を。

 家に帰ってきた晶は客間に敷かれた布団が定位置になった。トイレや風呂など行っていたと思うのだけど、おれはそれを覚えていない。起きているときすらも、薄い膜が一枚瞳の前に下りたような目つきをして、かすかに開いたかさつく唇とあいまって、おれはもう晶自身は遠くへ行ってしまってここにいるのはかれの抜け殻なんだなと知った。いつの間にかすっかり夏は終わって、秋というにも寒い日が続いて、おれたちの誕生日がやってきた。おれはべつに自分の誕生日にはなんの思い入れもなかったし、もともとそれは毎年かれを祝う人々を傍から見るための日で、もちろんおれの美しい双子が皆からお祝いされまくるのをみていてべつに不服もなにもなかったが、とりあえずおれのための日ではなかった。おれのための日なんて一年のうちどこにもないのだけど。だけど晶は学校にすら行けていないし、そのころには母はいつも泣いているか怒っているか疲れた顔をしてため息をついているかで、父は徐々に家にいることが少なくなっていた。やれ仕事が忙しいだの、どうしても付き合いで出かけなければいけないだのと言っていたが、おれでも自分の妻がこんなふうになったら家にはそりゃ帰りたくないよなあと思うような状態だったので、仕方ないと思っていた。おれ自身は普通に学校へ行っていたので、普通に勉強をして、いるんだかいないんだかというかんじで、定期テストを終わらせ、誕生日と言っても普段と何一つ変わらない時間を過ごした。家に帰っていつものように、すっかりおれの仕事になってしまった洗濯物を取り込み、部屋に掃除機をかけている途中に玄関のチャイムが鳴った。出てみるとなんとなく学校で見覚えのある女の子が立っていた。学校のダサい制服から着替えてしまうとよくわからないが、多分、晶と同じクラスの笑い声がうるさい女の子だったと思う。洗濯物がバリバリになるくらい風が冷たい日だというのに黒いショートパンツに、淡いピンクのカーディガンを着ていてなんとも寒そうに見えた。肩の下辺りまでの髪の毛がやたらとツヤツヤしてんな、と思った。

 あきらくんに、これ、と差し出されたのはカーディガンと同じ色をした紙袋で、おれがぼんやりしているとお見舞いだから、と言って押し付けてくる。中を見ると透明な袋の中に手作りらしいクッキーが入っていて、おれは不意に、喚き散らしたいような、泣き出してしまいたいような気持ちになった。食欲もなくして母が工夫してこしらえたなんだかベチャベチャした飯を皿に半分も食えていないこととか、点滴の痕がすっかり痣になってしまった腕のことなんかを、言っても馬鹿みたいだと思いながら洗いざらいぶちまけたくなったが、この女に罪はないのだと思い直す。彼女はただ走るのが速くて美しくて人を惹きつけるあきらくんのことを、数ヶ月たっても忘れなかっただけだ。おれは二回ほど深い呼吸をした。女の目になんともいえない、侮蔑のような色が見える。晶のことが好きな人におれがたまに向けられていた目だ。素材が同じはずなのになぜおれとかれはまったく違う人間なのかと。そんなの、おれが知ったことではない。

 とにかく菓子が食える状況ではない、ということをおれはどもりながら拙い言葉で、なんとか言った。女はあきらかに不満そうな顔をしていて、おれはだんだんこいつは病気のお友達を見舞うやさしい自分に酔っているだけなのではないかと疑い出した。しばらく話したところで彼女はおれの手から紙袋をひったくるようにして奪い、おじゃましました、と言って踵を返した。おれは嵐のようなそれについていけずに、ボケーッと玄関に立ち尽くした後、掃除が途中だったのを思い出して振り向いた。早くやってしまわなければ、夜にあまり物音を立てると晶に障ると母がうるさい。掃除機を置きっぱなしだった居間に戻ると、母が立っていた。おれは目を合わせることすらしんどくて、まっすぐに掃除機に手を伸ばす。こいつがガーガー言ってくれれば、母もおれに話しかけないはずだ。スイッチを入れる前に彼女が口を開く。

「あの子もおまえが病気になったほうがいいと思っていたんだ」

 ああ、そりゃないよ母さん。おれ、わりと母さんにも父さんにも、晶にも義理立てして生きてきたんだぜ。おれは晶じゃないから、せめてできることは、やったつもりだったよ。スイッチを入れる。おれの代わりに泣いてくれる掃除機はいいやつだなと思った。

 誕生日から一ヶ月も経たなかったと思う。変に暖かい日で、うすぐもりのなか太陽がぐずぐず柿色に燃えていた。おれはそのころにはもう毎日掃除をしなくてもいいと勝手に決めて、その日は学校から帰ってきて一人の子供部屋でひっくり返っていた。二段ベッドはもうどちらで寝ようがかまわないはずなのに、相変わらず上の段を使っていた。西日が部屋に差し込んでいた。壁際に窮屈そうにおしこまれた二つの机と、二段ベッドでぎゅうぎゅうの六畳一間はさみしい色でいっぱいだ。右耳が下になるように寝転がればちょうど窓が見える。日が暮れて型押しガラスが薄青から紺色になって、外のアルミの手すりの影が空の色に溶け込んで見えなくなるまで、おれはそうしていた。さすがに腹が減って、階段をおりて台所に向かう。母が食事の支度をしているかと思ったが、部屋の中は暗く、火の気ひとつなかった。居間にいるかと思えばそこも人気がなく、ただ客間に続くふすまがすこし開いていた。細く開いたそれからさらに細い電気のあかりが挿していて、まっくらな居間に一筋、光の線が斜めに引かれていた。

 母の泣く声が聞こえる。押し殺したような、微かな声だった。掃除機が代わりに泣いてくれない人間はこんな風に泣くんだと思った。おれは居間の隅に置かれていた電話へ向かい、住所録を取り出した。学校の鞄に入れっぱなしだったテレホンカードを抜き出して、ここで電話をかけて母に声が聞かれるのはよくないことだ、そう考えて玄関に向かい、ビニールのクソみたいなサンダルをつっかけて外に出た。おれはそのとき携帯電話を持っていなかったので、公衆電話まで行かなくてはいけなかった。一番近いそれは数分歩いたところの大通り沿いだ。歩くたびにサンダルはさりさりとアスファルトと擦れ、おれの足音を間抜けに強調した。古い家の並ぶうちのある一角からマンションのある人気のない道を通り過ぎて大通りへ、まっすぐ伸びたパイプをそのまま首だけ折り曲げたみたいな街頭が等間隔で並ぶ。地面に投げ出されたおれの影が濃くなって消えて、また現れた。昼間は変に暖かかったのに、夜は冷え込んでいて、すっかり曇った空は月さえ見えなかった。遠くから車の音が聞こえてくるのが、やけに耳につく。しんと静かに明るい電話ボックスで、おれは住所録を広げて、父職場という項目を指で撫でながら受話器をとった。京都の紅葉が印刷されたテレホンカードが微かに震えながら飲み込まれるのを見て、ひとつずつ数字を口の中で転がしながら丸いボタンを押していく。営業時間を過ぎていたからもしかして繋がらないかもと思ったが、運よく若い男の人が電話を取ってくれた。柘植の、息子ですと告げるとなにか察しでもしたのか、ああ、と遠くから響いてくるような声を漏らし、すぐにかわります、と言った。父が電話を受け取ったらしく、おれだ、と言う。電話越しで聞く父の声は、そんな声だったか、どうか。確証がないまま、おれは夜道を歩きながら何度も練習してきた言葉を告げた。たぶん、晶死んだよ。

 父はさすがに慌てて帰ってきて、泣き続ける母にいくつか指示を出したようだった。最初に見限られた医師に連絡が行き、葬儀会社なんかにも電話をしているらしかった。その日はもう寝ろとおれは客間をつまみ出された。飯を食ってない、と言うとかれは冷蔵庫を適当にあさって冷凍のうどんを引っ張り出しフライパンで茹でて、そのあいだに卵をパックごと取り出して賞味期限を見て、雑にお湯を切ってからうどんをどんぶりにいれ、さっきの玉子を割りいれた。醤油を一周かけて、一味の瓶を取り出してぱらぱらとかけて、混ぜて食えよ、と言った。おれは無言で頷いてから箸を取り、卵をぐちゃぐちゃと潰した。そういえば父の作ったものを食べるのは初めてだと思いながら。濃い黄色の卵がうどんに絡んで、なぜだかはわからないが死んでいるみたいだと思った。旨かった。

 眠るのは難しかったが明け方にはうとうととまどろむことができた。階段を下りた先の客間で晶が死んでいるのは不思議な気分だったが、昨日までとなにが違うかというとなにも違わないように思えた。翌日はおれも父も会社や学校を休んで、おれはできる程度の片付けをしたり、相変わらず洗濯物を洗って干したりしていた。父はやってきた医者に頭をさげて、葬儀屋と細かい話をしていた。おまえたちの学校の友達なんかは来るのか、と聞くので、晶の友達はきっと何人か来るだろう、と言った。父はそうか、と言った。母は気が抜けてしまったみたいで、朝に父とすこしだけ話をした後、また寝室に戻って眠っていた。親と言うものはこういうときもっとやることがあるのではないかと思ったが、今までの姿を見ているとおれも父もなにも言えないのだった。葬儀屋は祭壇やら配るものやらといった細かい話をいろいろして、なるほど人の葬式についてはそのような話があるのだなとおれは思った。お水をあげます、と言われてどういうことかと思ったが割り箸の先に布を巻いたようなものが出てきて、ああこれが末期の水というやつか、と納得した。本当に葬式のやつじゃないかとおれは思う。笑えない。

 程なくして葬儀社から若い男の人が二人やってきた。双子のようによく似ていた。もしかして本当にそうだったのかもしれない。ジャケットを脱いだら黒のベストに半袖のシャツで、葬儀自体の打ち合わせをした男とはずいぶん雰囲気が違う。母のたっての希望で湯灌というのを行うのだそうだ。彼らは手際よくビニールのシートを広げ、黒く細長い、風呂桶と言うには浅いそれを運び込んできた。風呂場の場所を尋ねられたので、さすがにまだそこの掃除までしてはなかったのを気まずく思いながら案内する。もちろんジロジロ見られるようなことはなく、蛇口にホースを繋いで、客間でシャワーを使えるようにするのだそうだ。熱いお湯をすこし沸かしてください、と言われてやかんを火にかける。できましたと声をかけるとここに入れてくださいと持ち手のついた木の桶を渡された。なんだか全てが儀式めいていて、ふわふわとした気持ちになった。

 双子の、おれの中では双子ということに決めた葬儀屋たちはお悔やみの語句を言い、それがはじまった。さっき沸かしたお湯に水が加えられて、柄杓を挿した状態で渡される。白くて薄い着物を着せられた晶が桶の中で死んでいる。そこに足の方からお湯をかけてください、と言われ、まず父が、呼ばれて起きてきた母が、そしておれがそれをした。服が湿ってぺっとり肌に貼りつくので、痩せた身体の線が浮き出してしまう。こんなものを見る日が来るなんて思わなかった。それが終わると彼らの仕事がはじまった。先ほど用意したシャワーからお湯を出しながら左足を洗う。泡立てられた石鹸がかれの皮膚の上で滑って、ぬるい湯がかれの身体に馴染む。まるで人間扱いだなと思った。もう死んでいるそれはただの肉の塊なのに。徐々に身体の上の方を洗っていく。服をはだけるときには薄い布団のようなものをかけた。優しい手つき。おれはこんなふうに触られたことはないな、と思った。晶ならおれの知らないだれかにこのように触られたことがあったのだろうか。髪の毛をゆるゆると洗われる。おれと同じ細い髪が男の角ばった手に馴染んだ。泡と水が、深い色をつける。おれたちの髪は昔から細くて雨の日にはぴんぴんと跳ねた。おれの身体の中で一番晶に似ている部分はそこだったかもしれない。そうか、葬式かとおれは思う。この髪も骨ももうじき燃やされてなにもかもなくなってしまうんだな。なぜ死んでいるのはおれじゃないんだろう、本当に、心の底からそう思った。

 顔にかみそりが当てられて、微かな産毛が泡と一緒にごく薄い灰茶色になってそのうえにたまっていった。おれの頬は最近髭の気配がしているというのに晶のそれはあくまできめ細やかで、だが子供の肌と言うにはみっしりとした質感で、まあ、死人のものなのだから仕方ないとおれは思う。死人。死んでしまったおれの双子。遺伝子を同じくするおれの片割れが死んで洗われている。洗う彼らの手つきはあくまで丁寧でなにか壊れ物でも扱うようで。泡が流されて、いかにも柔らかそうな白い布で身体を拭かれている晶はなんだか気持ちよさそうだ。人間が死ぬところをおれは生まれてはじめて見たんだ。だんだんゆっくり死んでいくように見えた。今この瞬間も微かに残った命のかけらのようなものがすこしずつ揮発しているようで。

 身体を清められた次はもう一度布団に寝かせられて、化粧が始まった。今まで一度だってそんなことはしたことがないというのに、筆で顔を撫でられる晶はすこし滑稽だったが、たしかに薄く血色を施されると見違えた。それは、去年までの、学校で人気者だったあきらくんによく似ていたが、もっと、うんと美しかった。痩せてしまった頬に綿など詰め込まれるのではないかと思っていたが、彼らはさすがプロフェッショナルだった。土気色になってしまった顔に、すこしだけ色を乗せて魔法のように眠っているだけの少年を作り上げた。おれも化粧をすればこんな顔になるのだろうか、とふと思ったが、まったく違うだろう、と思い直す。

 一連の作業を終えて桶を片付け、用意された棺に身体を横たえ、ちいさな祭壇や小刀を設えて彼らは去っていった。母は言葉にはしなかったが行われた儀式にいたく感動したらしく、すこし落ち着いた顔をしていた。死体をお湯で洗うだけなのに、たしかになにか感動的なところはあった。葬式というのはよくできた儀式だとおれは感心していた。どうしようもないところにとりあえずやるべき儀式を並べ立てて、こなしていくことで生きている人間の輪郭がすこしずつしっかりしてくるのは、ありがたいことだ。

 涼しくなってきたし、という理由で通夜はその次の日になった。ちょうど土曜だったのでそのほうがいいだろう、という話で、死ぬ日すら上手く調整していくんだなと思うとなんだかおかしかった。おれは普段どおり風呂を洗って沸かしさえした。父に風呂が沸いた旨伝えると先に入れと言われた。母はもう眠ってしまったらしかった。見慣れたはずの風呂場は白く煌々とあかるかった。電気の光を反射して静かにきらめくお湯にすこし違和感があって、そういえばおれは晶の後に入ることが多かったから、微かな人間の脂の皮膜が浮いているのに慣れていて、こんな誰にもまだ触れてない湯につかることはなかったな、と思った。かかり湯をして足先からおそるおそる入るといつもより熱い湯がつま先からけんけんと噛み付いてきて、かれはいつもこんな熱い湯に浸かっていたのかと思った。風呂が熱いからかなんなのか知らないけどおれの目からはぼろぼろ涙がこぼれて、湯船にどんどん混ざって、おれは晶が死んで泣けるのかと驚いた。その日も自分の部屋で眠ったが疲れていたからか思ったよりもちゃんと眠ることができた。夢を見て、いつかの玉砂利の浅瀬で泳いでいる夢だったが、遠くを泳ぐ人はいなかった。夜が明けるすこし前だったろうか、ぬるい海の夢から覚めて、喉がどうしても渇いて台所へおりて行った。蛇口から直にガラスのコップに水を出して、一気に飲み干す。もうすこし飲みたくて、水を注ぎ、冷蔵庫から氷を二つばかり取り出して入れた。台所から居間を越して見える客間の襖はぴたりと閉まっていて、母がいたらどうしようか、と思いながらおれはなんとなく扉を開けた。中には誰もいなかった。おれは居間のちいさな電灯の光を背にして、そのかすかな明かりの中で白い棺が発光するように目立っているのを見た。棺の蓋は閉められていなかったので、人が寝るには窮屈に思える箱の中でそれでも行儀よくかれは眠っているように見えた。棺に背をもたれて、ずるずる床に座る。ドライアイスがつめられたそれは冷たかった。おれの手の中で氷とグラスがからりと音を立てる。ずっとこうしたかったんだと思った、かれの冷たい棺を背にして氷水を飲むこと。おれの人生の最高の瞬間は今だ。グラスを傾けると、氷が唇に触れて、それはしびれるほど冷たかった。

 いつの間にかそのまま眠ってしまっていたようで、カーテンの引かれた隙間からうす青色の朝の光が差し込んでくるのがちょうど顔に当たって目が覚めた。両親に見つかる前でよかったと思いながらおれは身を起こて、すっかり溶けてしまった氷とぬるくなった水を台所のシンクに捨てた。時計を見ると六時過ぎ、そろそろ皆起きて来てもおかしくない時間だ。なるべく物音を立てないように階段を上り、できるだけ静かにベッドに入ってもう一度眠った。

 起きてみると朝と言うには遅い時間で、父はおれに勝手に食事を済ますように言うとなにか書類などの探し物をしているようだった。母も昨日よりは、というかここ数ヶ月のなかでは一番と言っていいくらい元気そうで、いっそ人が死んでしまうことによる諦めのようなものをおれに思わせた。昼前に葬儀社の人間がやってきて、てきぱきと棺を運び出し、おれたち親子三人も用意されたタクシーで葬儀会場へ行った。そこはなんだかがらんとしたつくりのところで、白い壁と白い床をしていた。横に火葬場がありますので、今日と明日はこちらで過ごしていただくことになります、と言われておれたちは控え室のような畳敷きの部屋に通された。実家のまだ近い父方の祖母と祖父が会場に着いて、かれらももちろん晶のことが好きだったので言葉も少なく、沈痛な面持ちをしていた。祖父はわかりやすくおれの顔を見て目を伏した。大丈夫だよおじいちゃん、おれもおれが死んだほうがよかったと思ってるよ。

 通夜の席が始まってしまうともうおれができることはとくになにもなかった。親戚や父の会社の付き合いの人間などがやってきて、学校の人間などは明日に来るようだった。僧侶が念仏をあげるのを並んだ椅子の前のほうに腰掛けて聞いているのがなんだがテレビの中の出来事のようで、すべての事象が目や耳の上をつるつる滑っていくだけだった。お焼香の摘んだざらざらだけが指に突き刺さって、夢じゃないんだと思った。両の祖父母もまだ存命だったのでおれは本当に身近な人間の葬式というのは初めてだった。まず一番最初が自分の双子なんてなかなかないことだと思う。お経と父の挨拶が終わるとおれは本当に手持ち無沙汰になって控え室で出された寿司を食べていた。冷たくて海苔がシナシナになったきゅうり巻きは、すごく、食べ物という感じの味がした。だだっぴろい部屋の隅で無言でのろのろと寿司を食うおれはどうもずいぶん異様だったようで、別室で仮眠でも取るように、と言われた。案内されたのは畳と布団はあったがなぜか三畳ぐらいの窓のない部屋で、たしかに床で寝たこともあって疲れていたおれはとりあえずしわにならないよう制服の上着とズボンをハンガーにかけ、ありがたく眠ることにした。布団はすこし湿っていてひんやりした。自分でもびっくりするくらいコトンと寝てしまって、二時間くらいで目が覚めて、夢も見ないまま布団から出た。通夜はほぼ終わったようで、脚の悪い祖母と祖父は近くの宿を取っているということでもう会場にはいなかった。寝ずの番をしなければいけないということで、家に帰ってもいいと言われたが、一人で帰るのもどうかと思って一緒にいることにした。白々とした斎場におれと、父と母でぼんやりと向き合っているのはなかなか滑稽だった。一応棺の中の晶も数えたら一家全員がそろったことになって、こんなふうに親子みたいに近くにいるのはいっそ不思議だなあと思えた。おれたちは誰も、一言も喋らなかった。渦巻き型の線香から煙は一筋上がって、そして空気に溶けて消えていく。電灯がかすかに音を立てていることに気がつくほど静かな夜だった。おれたちはたまたま晶の母で、晶の父で、そして晶の双子だっただけで、偶然に一緒にいるんだなと思った。この世の大体のことはこういう風に仕方ないことだ。二時をすこし回ったくらいだったか母は頭が痛いと控え室に眠りに行った。父はおれを気遣うようなことを言ったが、なるべく晶に似せる努力をしながら微笑んで、さっき寝たから心配ないよ、と、言った。そうか、とだけ言って彼は押し黙った。煙草の箱を取り出して、一本抜いて唇にくわえる。匂いがつくからベランダで吸ってちょうだいと言われ続けていたそれをとがめる母は今はいない。青い箱から抜き出したそれは白くて、くわえて火をつける父はまるで知らない人間のように見えた。ふーっと煙を吐く動作が、すこしだけ俯いたときの晶に似ていて、おれたちを構成するものの由来がこの人と母にあるのだなと思うと、当然のことなのに不思議なような気がした。

 なあ、と父が口を開いた。おれは相槌を打ちながら、どうか思いとどまって欲しいと思う。

「おまえ、自分が死んだほうがよかったとか思ってるだろ。やめろよ、そういうの」

 なんて残酷。思ってないわけないだろうが。母や祖母やその周りの人間の態度をおれと一緒につぶさに見てきてそれを言うのか。あなたがそれを言うのか。おれは声を出すこともできなくなった。喉の奥が焼けて、弁解さえも許されないのかと思った。これは一体何の罪だろうと考えて、生まれてきたこと自体だと。

 かれの双子に生まれてきたこと自体がおれの罪!

 父の顔を覗き込む。おれの目の形は晶に似ているだろう。父は伏したかたちは近いと思ったけれど、こうやって正面から見るとあまり似てなかった。瞳の下のカーブはむしろ母ゆずりなのだなとおれは知る。まつげの生え方は似ている。長くはないけどみっしりと生えて縁取りみたいにな。晶に似ていない角ばった鼻。薄い唇の上だけがすこし角度がついているようなところは似ている。おれはまばたきも忘れてむさぼるように父を見た。思えばこんなふうにまっすぐ父を見たことなんて今までなかった。人間をこんなにまじまじ見ること自体、まだ子供だったころ、晶と一緒に鏡ごっこをした以来だ。

 晶は本当は左利きで、矯正されたのでその後はほぼ右を使っていたが、たしか幼稚園に上がるまでは絵を描くのもスプーンを持つのも左手だった。おれは気がついたときには右利きで、向き合って食事をするとおれたちは本当に鏡のようになった。それが面白くて、おれたちはよく鏡ごっこをしたのだ。向き合って、片一方が手を上げれば鏡になるように真似る。足踏みをする。身体をひねる。飛び跳ねて回る。おれたちはとてもうまくそれをすることができた。おれは晶が次になにをするのか知っていたし、晶もわかっているようだった。おれたちは仲のいい子供だった。かつては本当にそうだったのだ。昔はおれたちだけにわかる言葉だってあった。それがどんなものだったかおれはもう忘れてしまったけれど。鳥がさえずるみたいなやり方で、呼吸と区切り方にコツがあったことだけは、なんとなく覚えている。幼稚園に入って、晶がはさみが上手く使えないことに気がついたとき、母はそれを矯正しようとした。矯正と言っても彼が左手になにかを持ちかけたとき、それはこっち、とやさしく取り上げて右に持ち直させただけだ。それだけで晶の利き手はあっさりと生まれつきそうだったみたいに右に代わった。たしか、そのあたりから鏡ごっこはなくなった。

 おれと父も似ているところがあるのだから鏡ごっこができるだろうか。右腕を上げてみる。そろそろと、確かめるように。かつてこれが遊びの開始の合図だった。晶はこれに応じて左腕を上げたのだ。もちろん、父は不思議そうな顔をしていた。おれが殴りかかるとでも思ったのか、おい、と不機嫌な声を出す。おれはそのまま伸びをした。やっぱりおれも疲れてるみたい、すこし仮眠してくるよ。と言うと父は納得したように頷いた。

 控え室に布団が敷いてあるということだったが、母の隣で寝るのはどうにも気が重たかったので、通夜のときに使わせてもらった謎の三畳間に向かうと、ありがたいことにそのままだった。おれはしんとつめたい布団に潜り込んで目を閉じた。また夢も見ず、さっきと同じくらいで目が覚めた。這い出して、階下の棺の置いてある部屋に向かうと、父が椅子に座ってまどろんでいたので、交代するよ、と言うと、彼も疲れていたのだろう、ぼやぼやとなにか呟き、頼んだ、と言って部屋を出て行った。蚊取り線香のような渦巻き型の線香はくるくるとそのかたちの灰を落としていて、それでもまだ燃え尽きるまでに時間がかかりそうだった。

 おれは真正面の椅子に座って、ぼんやり祭壇を見ていた。白い棺の周りを白い花が囲って、ああ葬式だなあという木でできた屋根のようなものがついていて、写真が飾ってある。まさか死ぬなんて思っていない十四歳の晶がしずかに笑っている。これはなんの写真だろうなと思う。おれたちの中学校は、当時だんだんと珍しくなってきた詰襟の学生服で、その写真でも晶はそれを着ている。おれが着るとどうにも浮いた芝居の衣装のようだったが、かれが着るとしっくりと似合っていた。黒色がそもそも似合うんだよとまとまりのないことをおれはぼんやり考える。棺の蓋はもう閉められていてこの白い箱の中におれとだいたい同じ分量の肉と骨が詰まっていると考えると小さすぎるようにも思えた。やすっぽい織りでなにかの模様が浮き上がる布の貼られたその箱は棺と言うにはあまりにも薄っぺらだ。でもこの中に晶はいる。昨日見た。そしてもう永遠に起きてくることはない。

 朝が来て、シャワーを浴びて、持ってきていたシャツと下着は替えた。中途半端に眠ったからかぼんやりする頭を抱えてあっちだこっちだ島から出てきた祖父母への挨拶だ今度は叔父が来たとやっているともう葬式が始まる時間になった。葬儀会社から来た人間が司会役をやってくれるようで、おれたちは家族三人で突っ立ってこのたびはご愁傷さまでしたという定型句を延々と聞き続けた。指示に従ってのろのろ席に座るさまは飼われている羊のようだっただろう。父はまだしっかりとしていたが母は明らかにかなしいです、つかれています、という顔をしていた。自慢の息子を亡くしたばかりの母親として当然の態度かもしれないが。昨日よりすこし長い読経とかれをもしかすると知りすらしないような人からきた電報が紹介され、焼香が終わった。摘んだそれは昨日とおなじくらいざらざらしていて、すこしだけ目が覚めるようだった。

 一頻りが終わって顔を上げると知った顔と知らない顔が一対三くらいだった。思ったより学校の連中が少なくて、なんだおまえそんなもんかよとちょっとだけ笑えた。あんなに四六時中誰かに囲まれていたのになあ。女子よりも男子のほうが多いようでこれも意外だった。おれ、おまえの交友関係すらろくに知らないや。最後のお別れを、と言われるとどこから来たのかスーツの人間が増え、祭壇に飾られた花をどんどん抜いて銀のお盆に並べ始めた。これを棺の中に入れてくださいとのことだった。おれはまず近くにいたので渡された白いユリの花と、まあるい菊を一本ずつかれの胸の上に置いた。それが合図だったみたいでたくさんの人がどんどん寄ってきて、どんどん花を置いた。父も、母も、祖父も祖母も、父の仕事の関係の人など今まで晶の人生にとくに関係のなかった人間も、学校の担任も、もうやめてずいぶん経っていたはずのエレクトーンの先生も、 学校の席がたしか隣だった女も、部活の先輩だという男も、隣の家のおばさんも等しく花を置いていった。所定の時間が経ったらしい。いつの間にか晶の顔の上にふわりと布がかけられているが、花が引っかかっておれのほうからは閉じた目が見えた。おまえはおれよりなんでも、名前でもいっぱい持っていたのに、なんでこんなところで死んでいるんだよ。めちゃくちゃ腹立つ、ウソだよそんな気持ちもおれはもうあんまり持ってなくて、死んでいるその顔を見ていた。ユリの花が持ち上げる布越しに死んでいる。とことん死んでいる。今、この瞬間もより深い死に向かっている。

 棺の蓋が閉められてそれも見えなくなった。さらに釘を打って留めるのだという。葬式というのは本当によくできている。人間の存在をすこしずつ絡めて捕ってこの世から削り取るように消していく。金づちでも出てくるのかと思えばすべすべとした手触りの小石を渡されて、ここだと言われてコン、と叩いた。釘はへにゃりと曲がったが、べつにいいらしかった。棺を持ち上げるのだが、父とおじ達と何人かいたからだろうか、ものすごく軽くて正直驚いた。人間一人とあんなにたくさんの花が入っているのに、こんなものかと思うほど軽かった。みなそう思っていたのだろう。叔父など車を見送ってから、軽かったなあ、などと呟いていたから。

 そのままちいさいバスに乗りすぐ横の火葬場まで血縁者だけで移動した。と言っても父母おれに祖父母二組、おじにおばに、いとこたちで三十人くらいはいただろうか。見たことのない顔の人までいて、おれの親戚って案外多かったんだなあとそんなことを思った。車を出て近代的なおおきなビルをテクテク歩き、ホテルのロビーみたいなところですこし待たされてからこちらへと案内された空間はエレベーターがものすごくたくさんあるエレベーターホールみたいだった。横長のその空間をなぜかおれが写真を持たされてまた羊の一群のようにのろのろと歩かされる。遠くで焼かれた骨が飛び出てくるのを横目で見ていた。ドアごとに赤ん坊のいるところ、三人しか人のいないところ。誰もいない閉まったままの扉の裏では今まさに人間の身体が燃えているのだろう。こちらへどうぞと呼ばれて足を止めるともうずいぶん見慣れた例のぺらぺらの棺が待っていた。また念仏が始まり正直一年分聞いたなと思う。焼香は今回も指に突き刺さる。顔を見るのが最後だと促されて疲れていたのもあってすこしだけ笑ってしまった。ぱかっと開いた四角い小窓越しに花に囲まれた顔。おれは今後も鏡を見るたびに似た顔に会い続けるのに。ストレッチャーがレールの上に載って自動でガラガラ釜の中に引き込まれる。天国へ続くエレベーターのドアが閉まる。ごうごう強い火で焼かれればきっと誰だってそのエネルギーで空の上までたどり着ける。そんなことを考えてやっぱり疲れてるなと思った。

 晶がこんがり焼きあがるまでの時間、なにがあるのかと思ったら昼飯だった。悪趣味すぎねえかとちょっとびっくりしたがみな平気な顔をしていたのでそんなものかと思った。日本料理れんげなどという嘗めきった名前の店は火葬屋の斜め向かいでおれは世の中のことを考える。出てきたのは普通の四角い容器に入った料理たちで、普通に刺身はあるしビールの瓶まで置かれている。おれはもうわけがわからなくなった。べたっと死んだ魚のかけらは口に入れてもべたっとしていた。睡眠不足もたたってか不味いせいか食欲もわかなくて、ひじきと豆の煮物みたいなものをものすごくゆっくりすこしずつ食べていたら叔父に見つかって、これからは日くんがしっかりしないといけないのだからちゃんと食べなさいなどと言われて、おれは正直すべてを吐いてしまいそうになったが、なんとかこらえきって生返事をした。叔父はぺらぺらと彼のかわいい双子の息子のことなどを喋り続けている。双子多すぎかとすこし面白くなるが、おれはこの父の年の離れた弟のことがあまり好きではなかった。一時間半ほどそうしていただろうか。大半の人間が皿を空けたあたりでそろそろお時間ですので、と声がかかった。時間って何だっけ、と思ってそうかおれの双子がこんがり焼けたってことか、と考えが至った。またのろのろと羊の集団になったおれたちは促されるままエレベーターのドアの前に並ぶ。ドアが開き出てきたのはまあ、普通に骨だった。なにがあると思ったわけではなかったが普通に骨だった。よっぽどの高熱だったんだろう、白く脆く、焼いたメレンゲみたいで煮込んだ手羽元のそれのほうがまだつるっとして生き物っぽいなと思った。足の骨から入れます。促されるままに骨を拾う。長い箸は使いにくい。焼かれたそれは当然だが熱くて、そばに立っているだけで顔が赤くなりそうだった。順番を代わってください、と言われて後ろに立っていた親戚に箸を渡す。頭蓋骨を入れます。おれの頭の中に入っているのもあの形なんだなと思う。喉仏を拾います。これはこの形が座っている仏様に似ているので、と解説が入る。皆がそれを見る。理科の解剖の授業じゃねえんだぞとおれは喚きたくなる。鯛のタイでも拾っておいてくれ。思ったよりちいさな壷に全部の骨が入ってしまったので、おれはおれが死ぬときにもせいぜいこのぐらいの大きさになるんだなと知った。

 葬式自体はこれで終わりいうことだったが、本当はすこし後にするはずのなにかも一緒にしてしまうらしい。おれたち家族と父方の祖父母だけが一度家に帰るということになった。知った顔と見知らぬ顔がない交ぜの一同と別れ、島に戻るのに難儀をする母方の親戚を見送りおれたちはタクシーに分かれて乗った。父が助手席に座り住所を告げる。おれと母は二人、後部座席に並んでいた。こんな風に母と並んで座った記憶はこの葬式のときだけで、疲れて、苛立っているのがはわかるが、この人は美しいのだなと改めて思った。横顔は本当に晶に似ている。彼女と鏡ごっこができるなんて思うことはないが。

 家に着くとまた僧侶がやってきて、一体何回念仏をあげるのかと思ってしまう。ダメ押しのようなそれに、さらに焼香が着いてくる。こんなに何回もやっていればだいぶさまになっているに違いないと、やっぱりちくちくするそれを摘み上げた。葬儀社の人が用意した白木の簡単な祭壇がかれが眠っていた客間の隅に置かれ、写真と、骨壷の包みと、花を入れる花瓶と、ちょっとちっちゃい線香と焼香のためのセットとほかにもこまごました物が置かれ、僧侶が帰り、ぐったりとしたおれたちを見てなぜか満足げに祖父母も帰って行った。すげえな葬式。悲しむ暇がない。

 さすがに翌日は学校を休んでもいいと言われておれは泥のように眠った。母も父もだるそうにしていたが、父は昼から仕事があると言って出勤していった。おれは父の仕事が忙しいは半分くらい家にいたくないという話ではないかと思っていたが、なるほどある程度は実際に忙しいらしかった。金曜日は父の携帯電話が何度も鳴っているのを見た。子供が死んだ父親にかけてくるというのも大概だが、取引先などには実際関係がないことなのだろう。電話の相手の家の事情なんてわかるほうが妙だ。その次の日は普通に出勤と通学。こんなものかと思うほど普通だった。おれはそもそも学校で親密な人間なんていなかったし、もしいたとしてもだれも声のかけ方なんてわからなかっただろう。兄弟が死ぬというのはそこそこのレアケースで、教師ですらおれをどのように扱えばいいのかわからないようだった。おれはただただぼんやりしていた。中学三年生の秋は皆受験に向けてそれぞれ忙しくて、おれにかまう暇なんてないのだ。本当ならばおれだってそのの準備をしなければいけないのだろうが、おれはすっかり自分の未来についての想像力を失っていて、母はずっと晶のことで手一杯だったし、それからもどうも心の中で生前より美しくなったかれにとりつかれてしまったようだった。父はその後より忙しく働きはじめた。皆、埋まらない空洞がすでにできてしまったのでそれを自分の身体に慣らすまでだれかの心配などをしている暇なんてなかった。晶の病気で今まで止まっていたようなうちの時間は、葬式のあわただしさの後そのまま爆発的速度で動き出して、母はどんどん具合が悪くなり、夜眠ることができないと病院通いまで始めた。父は仕事が大詰めだとかで、夜十時までに帰ってくれば今日は早めだねという状態で、おれにはまあ、好きにすればいいとだけ言って体よく放置を決め込んだ。要するに晶が生きていたときとなにも変わらなかった。母が骨壷を抱いて悔しそうに泣いているのを深夜に帰ってきた父が見つけ、もう早めに納骨してしまうのがいいだろうとなり、おれはてっきり母のふるさとのあの島に埋めに行くのかと思ったが、当然ながら父の方の墓に入れることが決まった。年が明けて、普段なら父母どちらかの実家に行くだろうにそれもせず、今年一番の冷え込みと言う日が三日ほど続いた後、ちょうど四十九日にあわせてそうすることになった。おれたちの家からは電車で一時間半くらいかかる祖父母の家の近くにある小さい寺の小さい墓がそれで、灰色の石には晶という字がすでに彫られていた。近くに住んでいる叔父が車を出してくれて、祖父母と、彼と、おれたちでものすごくあっけなくそれは終わった。帰りの電車の中で母はおれに言った。

「おまえが死ねばよかったんだよ」

「うん、ごめんね。母さん、ほんとにそう」

 おれはべつに悲しいだとかショックだとかはなくて、ただそうだなあ、と思った。その後で父には家を出たい、と言った。彼はそうか、好きにすればいいといつもと変わらない調子で答えた。聞きにくそうに進路のことを聞いてきた教師に就職をして家を出たいのですが、と伝えると彼は複雑そうな顔をして、たくさんのパンフレットをくれた。結局就職先は決まらないままおれは卒業した。卒業式のシーズンは桜の印象があるけれど、まだ固いつぼみは咲く気配すらなくて、その代わりに昼過ぎからものすごくちいさな雪のかけらがひらひら降ってくる日だった。寒くて、おれはマフラーを固く巻いていた。そういえばこれは晶と色違いで去年買ったんだな、そのときにはこんなことがあるなんて思ってなかったもんな、と思った。

 卒業式の後、おれは家にまっすぐに帰って、制服を脱ぎ、灰色のデニムと、黒のパーカーと、すこしだけ色のうすいコートを着た。マフラーと財布の中に入っていた学生証と期限のまだある定期をゴミ箱に捨てて、家を出た。電車に乗って、祖父母の家の最寄まで行き、記憶をたどりながら寺を目指す。冬の陽はすっかり落ちていてあたりは暗くなっていたが、さすがに街中なので真っ暗にはならない。

 寺の門は閉まっていたが、ぐるりと一周すると裏にはちいさな扉があってそちらは開いていた。おれはまっすぐかれの墓まで行き、墓石に掘られた真新しい晶の字を持ってきた金づちでがんと叩いた。力任せに殴って、その一番上の日の字を潰して、ようやく安堵したのだ。

 そのまま駅まで取って返して、ゴミ箱に金づちを捨てて、やって来た電車に乗った。大きな駅に着いたらより遠くまで行きそうな電車に乗り換えて、終点で降りたら今日の電車は終わっていたので、人がいないのを確認してのそのそと改札を乗り越え、駅舎の中の待合室のベンチにねっころがった。青い、プラスチックでできた椅子は硬くて眠ることなんてできなかったが、おれはもうなんでもよかった。月が出ているのか窓の外は妙に明るくて、そのあたりに貼られたポスターの大きな文字くらいは読むことができた。なじみのない地名ばかりで、遠くまでやって来たのだと安堵する。始発が動く時間を確認して、まだほの暗い駅の中を壁伝いに歩き、ホームで電車が来るのを待った。ちいさな駅の周りは薄ぼんやりとした霧でかこまれて、なんだかすべてが青みがかって見えた。遠くから電車の音が微かに聞こえて、ライトが見えると水の加減なのだろうか、光の花が咲いたみたいにそれが膨らんできらきらと光った。きれいな景色だった。きっと晶も気に入るだろうと思ってから、おれは頭を振ってその電車に乗り込んだ。

 今までもらってとくに使うあてのなかった小遣いやお年玉が結構まとまった金額になっていたので、新幹線にだって乗れるのだけど行きたいところがあるわけでもなかったし、実を言えばもう死にたいと思っていた。なぜ家を出たのかというと、おれの死をおれのものだけにしたかったという幼稚な話が近い気もするが、おれ自身もそのときの気持ちを上手く言うことができない。ただ一人で電車に乗って遠くへ行くんだと思うと気分がよかった。電車の中に座っていると冬だから暖房が効きすぎるくらい効いていて、あたまがぼんやりとしてきて、冬特有の灰色の空から、たまにはしごのように光が海や田畑や町に落ちているのが見えた。お昼過ぎのやわらかな光線が、美しく入りこんでくる。電車のための架線を支える鉄柱が移動する縞模様の影になって窓からすうっと投げられているのが誰にでも等しく、やさしかった。おれの黒いスニーカーに結ばれた白い靴紐が濃い影をまとって、毛羽立ちの一つずつがよく見えた。その日も電車を乗り継いで、腹が空けば売店で適当なパンを買って食べ、夕方には大きな駅に着いた。見ると大阪と書いてあり、丸一日電車に乗ると人間は大阪に着くんだなということがわかった。

 たしか大阪にも海はあったんだよなとなんとなく電車を降りて、駅員に切符をなくしたと嘘をついた。乗り込んだときの切符は持っていたけど、昨日の日付の関東の切符なんて出したら怪しまれるのではないかと思ってそうすることにした。どこからかと聞かれたので東京だと言った。時間や席を聞かれて、細かくは覚えていません。と言うと彼は不審そうな顔をしてじろりとこちらをにらみ、所定の額らしい数字を告げた。切符が出てきたら返金できるから。と言われて証明書のようなものを貰った、会釈をして改札を出る。新幹線に乗ったことになっていた。大阪の駅は混んでいて東京となにかが違うかといえばよく判らなかったが、たしかになにかごちゃごちゃとした感じはした。海に行きたかった。玉砂利の浜はないにしろどんな海でも海は海だろう思った。周囲を見渡すとなじみのない名前の電車たちにまざって地下鉄という表示が見えた。これは海に行くだろうか、とその表示をたどって乗り口まで行く。路線図を見ると大阪港、という駅があって港という名前がつくのだから海なんだろう。大して離れていないようで、大阪というのは実は小さい町なのかと思う。乗換駅を確認して行き先までの切符を買った。地下鉄というのはどこも変わらないと思うが、東京よりすこんとぬけているようなところがあって、地上の駅のごちゃごちゃ詰まったような雰囲気よりずいぶんよかった。ホームにはゴミ箱があったので、さっきの証明書をそこに捨てた。乗り換え一回、なんということもなく目的の駅に着き、案内板を見ると一角に大きな水族館と美術館といくつかのお店と観覧車があるほかはとくになにもない土地のようで、海風がびゅうびゅうと吹いていた。冷たい小雨が降っていて、風にまぎれてとても細かいしぶきがおれの顔にかかった。本来の目的を果たそうと海があるらしい方向に歩き始める。道は太くて立派なのに、車はほとんど通っていなかった。すっかり日は暮れていて、あたりは暗く、ぽつぽつと飲食店らしい建物から明かりが漏れている。

 大きな魚の柄の建物が見えて、あれが水族館かと思う。そこらのものがすべて大きくて、階段の一段すら幅が広く、とても大きいもののための住処に迷い込んだようなところだった。水族館の裏側に曲がりこむと、フェリーが着くという船着場があったが、船はひとつもなかった。海を見ながら歩いてると足元が一段低くなっていて、雨で濡れたコンクリートですべって転んでしたたかに頭をぶつけた。そのまま空を見上げると遠く工場の明かりかなにかで灰色にぼおっと光っていた。寝返りを打つように海のほうを向くと夜空よりももっと暗い水が重たい音を立てて揺れているのが見たことのない生き物じみていて、東京の海とも、もちろんあの玉砂利の浜ともまるで違って、だからおれが見たかったものはこれなんだと思った。おれにまったく関係のない海は優しかった。船着場はコンクリートで固められていて、すぱっと気持ちがいい直角でいきなり海になっているのもよかった。もう波打ち際みたいな曖昧なところにいたくはなかった。

 おれは疲れていた。いろいろな事にだ。空気はだんだん、静かに冷たくなっていく。ここで眠ったら調子よく死ねないだろうかと考えてまぶたを閉じた。もうなにもしたくなかった。

 目を覚ますと白くて明るいところだった。もしかしてあの世ってやつかと思って起き上がってみる。白いのは壁だった。窓はあるが畳敷きの狭い部屋で、あの葬儀場の仮眠室に似ていた。腹の上には毛玉まみれの薄い毛布までかけてあり、電気ストーブが静かに光っていた。天国でも地獄でもなんでもいいけどずいぶん俗っぽいところだなと思った。扉は鍵などはかかっておらず、外に出てみるとコンクリートの短い廊下で、履いてきたおれの靴が揃えてきちんと置いてあった。この部屋だけが土足じゃない造りなのか、と思いながらかかとを潰してスニーカーを履き廊下の先に出てみると、廊下と同じコンクリートのたたきの上にべこべこのスチールデスクが置かれており、壁にはシンプルな時計がひとつと周辺のものらしい大きい、細かい地図と指名手配犯のポスターが貼ってあった。夜が明けかかったくらいの時間でアルミサッシの引き戸からはうす青い色の光が漏れてきて、ここはどうも交番なんだなと思い至る。地図を見ると大阪のもので、寝ているあいだに東京に引き戻されているということはないらしい。とりあえずここを出ようと外のほうに向き直ると、おじさんと言うには若く、お兄さんと言うにはすこし老けたくらいの雰囲気の男がひょいと逆側から引き戸を開けた。制服を着ているので警官だとわかる。

「おっ目ェ覚めたか。まあ座り。ほら、これ」

 彼が引っ張ってきたガムテープで座面が補強された灰色の椅子に有無を言わさず座らされる。これまた座り心地が悪い。ああ面倒なことになったなあと思う。

「きみ名前は、どっから来た、まだ高校生くらいやろ、家出か」

 矢継ぎ早に浴びせられる質問になにも言えずにいると、黙っててもわからへんやんか、とちょっとだけ苛立ったような口調で言う。耳慣れない大阪弁のリズムに戸惑うばかりだ。まあええわ、と男は小声で呟き、ぶらさげていたコンビニの袋からオレンジのふたのペットボトルと缶を取り出して並べた。

「これはおにいさんの奢りやから、好きなん取り」

 見るとお茶とホットコーヒーとココアだ。おなかが空いていたので足しになるかなとココアを取ると、ココアって事はやっぱり中学生やんか、家はどこやとまた喚き始める。

「中学生ではないです。家はないです。名前はわからないです」

「あー、家ないか。まあそういうこともあるよな」

 日という名前は正直もう誰にも呼ばれたくなかったし、家には帰りたくなかったので怒られるのも覚悟でそう言うとあっさり認められて肩透かしを食らった。まあそういうてもな世の中には捜索願ってもんがあるから家出やったらわかんねんけどな。で、名前は。わからないです。頭でも打ったか。わからないです。それでしばらく押し問答していると、ほな検査やな病院行くか、記憶喪失、おおごとやないかと一喝され救急車まで呼ばれてしまった。どうも昨日転んで打ったところが瘤になっていたらしく、それを警官に見られてほんまに頭の怪我やんか早よ言えやとさらに怒られて、初めて乗った救急車は思ったよりも狭くてごちゃごちゃとしていて、頭を見られたり血圧を測られたりしながらそれなりに大きい病院に着いてしまった。そのまま、心配ないと思うんですけどと言いながら、ここまで来たら名前もなにもわからないで通し続けて挙句の果てにはレントゲンを撮られたり大きな機械にまで入れられ結局原因不明の記憶喪失患者ということになってしまった。頭の怪我はたいしたことはないんだが、と医者は不思議そうな顔をしているがなにも言えない。結局、検査入院ね、ということでその日は病院に泊まることになってしまった。

 翌日のさまざまな検査でも当たり前だがとくに異常はなく、医者は頭をひねっていた。強いストレスとか、なんとか、と言うが当然なんの結果も出ない。最終的にはカウンセラーまで出てきたが知らないわからないで通しきるしかないと思い話しているとおれはだんだん楽しくなってきた。ここでは誰もおれの名前も出自も知らないのだ。

 次の日はさすがにもうする検査もないのか、医師や看護師達がなにか思い出さないのかと聞いてくるぐらいだった。わあわあとうるさくされるのは好きではないが、大阪弁の心配するときのイントネーションはなかなか好ましいものだなと、このころになるとずいぶんのどかな心持ちだった。病室にいるとひょいという感じでココアをくれた警官がやってきた。おう君、ちょっと話あんねんけどな、と言われるとすこし身構えてしまうが始まったのは思ったより変な話だった。

 彼は、タドコロユウジや、田んぼのタぁに場所のトコロ、裕福のユウにツカサドル、や、よろしくな、と、名前を名乗ってから話を始めた。結局おれ自身についての捜索願は適合するものはなく、記憶もこのまま戻らないのであればどうしようもない。いくらかは手持ちもあるようだがずっと病院にいることもできない。このまま怪我は治って退院ということならホームレスということになる。年齢はわからないと言うが中学生以上だというので、児童養護施設だとか、ホームレスの支援設備みたいなところに身を寄せてもいいが、実は彼の実家が工場をやっていて、今若い職人のなり手を捜している。もしよければそこで住み込みで働かないか、ということだった。給料もちょーっと少ないけど出るし、最近は少ないけど昔は住み込みの人もけっこういはって、寮はもうないけど部屋は手配できるから。と言われて、おれはなんだかおもしろくなりあまり考えもせずぜひお願いします、と言った。

 怪我自体は本当に大したものではなかったし、そんなにゆるくていいのかと思ったが病院の職員に田所さんの知り合いがいたらしく、ものすごく簡単に退院することになった。請求された金額はぎりぎり手持ちで足りる金額だったが、給料からちょっとずつ天引きやで、と言って田所さんが出してくれた。彼は人好きのする笑顔の男で、おれ正直細かいもん作るの苦手やから工場継がへんかってんけどさあ、黒ちゃん器用そうやし向いてると思うでがんばってな、と、おれが黒い服を着ていたから黒ちゃんね、とペットにつけるような気軽さで名前をくれた。

 田所さんの実家は大阪のはずれの工場がとにかく多いところで、なるほどこんなところになら身元不明の人間でもなにか仕事をさせてもらえることもあるのか、と思った。これ黒ちゃんね、とおれは紹介され、最初は記憶喪失と聞いて戸惑った顔をしていた彼の両親たちも、さすが血と言うべきかもともと楽天家なのかおれが普通に日本語を話せて、家でやっていたような掃除も洗濯もある程度できるということがわかるととくに嫌な目に遭うこともなかった。もちろん出自もわからない人間にはじめから職人の仕事を任せるようなことはなく、最初は検品の方法を教わって近所のパートのおばさんと一緒に部品を箱に入れる作業をしていた。田所金属製造という名前だけではよくわからないその工場は主にネジなどの加工をやっているということもその後知り、すこし時間が経ってから機械の操作を教わった。最初はもちろんなにもできなくて迷惑をかけたが、なぜか他の職人の人たちもずいぶんおれによくしてくれた。おれが気がつかないところは叱ったり、初めてのことならきちんと教えてくれたし、研磨の仕事が向いているなどと褒めらることまであって、だれかと逐一比べられることもなく、丁寧にやればその分成果が出る仕事があるなんておれは生まれてはじめて知って夢中になって数年が過ぎていった。

 本格的に仕事を始める段になって、田所さんがいろいろ調べてくれて記憶喪失でも戸籍は作れるということがわかり、おれは新しく黒田春一という名前を手に入れた。黒ちゃん黒ちゃんとおれを呼んでいた人々が皆で考えてくれた名前だった。田所さんの名前から一字頂戴しようと思います、と言ったら彼はとても喜んでくれて、春一って色気もあって、ぴったりの名前やなあ。初めて会ったときもちょうど桜の咲くころやったもんなあ。と言ってニコニコ笑った。春ちゃんみたいなかわいい息子、とそのころにはもう専務と呼んでいたが田所さんのお母さんもそんな風におれを言ってくれた。社長のほうはおれにはそんなに甘いことは言わなかったが、機械の扱いや安全のことについてはきっちりと教えてくれて、まあ、一人の工員としては可愛がってもらえているのではないだろうか、と思うようになった。

 おれは本当に、夢のようにしあわせだった。あの葬式の日にきっとおれも死んでよみがえったのだと、そういう風に思っていた。金属の加工のことも楽しかった。置かれている機械は古いものが多かったが工夫でできることは沢山あったし、特別なものを作ることができる工場だとおれは誇りに思っていた。本当に楽しいと思える仕事をやっていると時間はどんどん過ぎ、おれは気がつくと二十歳を越していた。おれの誕生日は作り直した戸籍では工場にやってきた日、名前の通り桜の咲く春の初めだったので黒ちゃんもやっと酒が呑めるな、と会社のお花見でお祝いをしてもらった。狭い夜の公園はそこかしこに紅白のちょうちんが吊るされて風が吹くとざわざわと花が歌った。おれはすっかり酔っ払ってブルーシートの上にぐにゃんと横たわっている。五年が経ってもうおじさんと呼ぶのに抵抗のなくなった田所さんがおれの頭をわしわしと撫でた。おれはほんとに黒ちゃんのこと弟みたいに思っとるんやで。ありがたいなあ、嬉しい。

「あの時交番に子供が倒れてるって百十番入ってなあ、事件か不良の家出か思て行ったらなんかええ身なりやし、寝てるだけやったからそのまま運んだら朝見たら怪我しとるもん、勝手なことしたかなあ思ってさあ。その後、ほんまに記憶喪失聞いてさあ。こんな綺麗ェな子、親御さん絶対心配してはるわ思って調べても調べてもぜんぜん届けも出てへんしさあ。どうしようかと思ったもん。でも黒ちゃんほんま、どっから来たん。いつかおらんくなるんちゃうの。なあ」

 ずいぶん耳慣れた大阪弁がやさしい。おれずっとここにいたいよ。もし思い出しても、おれはここを選ぶよ、という言葉は上手く口から出せなくてぐずぐずと流れて消えた。

 無事に二十歳も越して一人前と見られることが多くなって、取引先なんかに連れて行ってもらえるようになることも増えた。若い職人さんやねえなどの言葉を先輩方が、家の都合で中卒でやってましてね、もうベテランですわなんて返してくれるのが嬉しかった。今時珍しいたたき上げの職人さん、というのがおれの評判だった。もちろん、おれより後輩の人間もできて、歳は上だけどおれのことを黒ちゃん先輩などと言ってくれるのは正直くすぐったいけど嬉しくて、彼らは立派な大学を出ていたりしたのでいろいろなことを教えてもらうのは勉強になった。プライドが高い年上の人に、ぼく、中卒やからなあ、なんて言うのはすこし恥ずかしかったが、これで仕事がスムーズにいくならいいことだとおれは考えていた。そのうちおれに教えていたのが皆の得意な分野を伝えあう会になって、若い職人のいる工場同士でさらにやり取りをするようになった。だんだん話が大きくなって、数年後には定期的に若手の技術の発表会のようなことをするようになった。他の工場や会社にも知り合いが多くなって、なぜか話の中で黒田に女の子を紹介してやろう、などということになった。おれ自身は別に恋人募集中など言った覚えはないのだが、なんだかんだの後に合コンが開かれることになって、結局全員彼女が欲しかっただけじゃないのかと笑いながらそれに参加した。参加者の一人曰く、若くて腕がよくて顔までかっこいい黒田さんのおかげでレベルの高い女の子が来てくれるんですよ、などと言われて、まあ、おれも聖人じゃないので褒められるのは悪い気がせず、何回かの後、話が弾んだ女の子とたまに出かけるまでになった。まるで普通の人間みたいだとおれは浮かれていて、休みで時間が取れる日には買い物に行ったり、映画を観に行ったりしていた。彼女はあきちゃんという名で、晶とおなじ音を口にすることににおれは若干戸惑いながらも、明るく、おれの目を見ながら朗らかに話すこんな女の子と結婚して子供でも作って、工場でずっと働かせてもらって、勉強をして、新しいことを考えていけたらいいなあなんて思っていた。その日までは。

 その年は新規開拓を課題にしていて、そのせいで慣れない仕事が多く、さらに会社が取っている特許に絡めた特集を、ということでテレビ取材の申し込みまで舞い込んで来て、社長であるところの田所のおじさんが対応すると思っていたらこういうのは若くて綺麗なほうが解説したほうがいいだろうとおれにおはちが回ってきててんやわんやだった。若いと言ってもなんだかんだでもうアラサーってやつですよとおれが正直に言うとベテラン諸氏は楽しそうに笑って小童がなにを言うかとまでおっしゃる。なんとか仕事の山を越えてテレビの収録を終え一息ついたところでデートに行こうと誘われたのは大きな水族館で、行ってみるまですっかり忘れていたがおれが死のうと思ってたどり着いたその海だった。梅雨が終わって夏が始まるすこし前の風がさわやかなころで、季節は全然違うのに妙なゆううつが胃の辺りにどっかりとのしかかっていた。嫌な予感はあったが海側に行かなければ大丈夫だろうと思っておれたちは水族館へ入り、わざとゆっくり時間をかけて中を見て歩いた。大きな水族館の大きな水槽はたしかに立派で、浅瀬のきらきらかがやく光や深海を模した深紫の照明に照らされてあきちゃんはきれいだった。大丈夫、平気、とおれは自分に言い聞かせる。おれは今、幸福で、仕事も楽しいし、すてきな恋人もいるから、平気。水族館を出て夕食にいいくらいの時間だった。外では小雨がぱらぱら降っている。こめかみの辺りが痛む感じがした。このあたりはお店が少ないから、大きい駅まで出て行って夜を食べようと誘うと、彼女はすぐ同意してくれた。その前にあれ乗りたいな、と指差したのは大きい観覧車で、そのくらいならいいかと思って一緒に乗ることにした。日はすっかり落ちているので、待っている者も殆どおらずすぐに乗ることができた。ふわり、と浮き上がる感じがして、なかなか夜景は綺麗だ。晴れてたらよかったのにね。あきちゃんが言う。おれは頷く。そうだね。

「わたし、子供のころから素敵な彼氏ができたらこれに乗るのが夢やった」

 そういうあきちゃんの頬はすこし上気していて花のような色をしている。そうなの、とおれは返す。他はどんな夢があったの問えば彼女は語る。お花屋さんって言ってたけどね、実は外国に行くような仕事がしたいと思ってた。大人になったら、口紅を自分のために買おうと思ってて、十八歳の誕生日にちゃんと買った。うんうん、とおれは頷く。あとね、双子のお母さん。

「えっ、なんで」

「あの、実はわたしのお母さんは双子やねん。それでわたしの弟もいま二人とも東京に行ってるんやけど双子で。双子の家系ってあるんやって。弟とかお母さん見てたらね楽しそうで、わたしもたぶん双子産むってなんとなくそう思ってんねん」

 ぐら、と観覧車のかごが揺れた気がした。きらびやかな夜景の逆側は、黒い黒い海がぽっかり開いている。きみのつやつやの髪の向こうに真っ黒な海が。おれの顔色が変わったのをどう思ったのかはわからないが、彼女はおれにキスをした。唇が触れるだけの。なまぬるい、生きている人間のそれは、無性に気持ち悪かった。

 ごめん、とおれはなんとか言葉をひねり出す。風で揺れるから酔ったみたい。えっ黒ちゃん軟弱やなあと彼女はけらけら笑う。黒い、海が黒い、黒い。あと数分、地面が遠い。

 帰り道は散々だった。もともとちょっと風邪っぽくて、と言い訳をするおれを彼女はとても心配してくれ、帰りの駅のトイレでこらえきれず吐いたおれが出てくるまでのあいだにペットボトルの水を買ってきてくれさえした。そのときはもうおれは会社の近くにマンションを借りて一人暮らしをしていたのだが、そこまで送ってくれて、近所のコンビニでレトルトのおかゆなんかを買ってもう一度持ってきて、親が心配するから帰るけどもなにかあったらすぐ連絡してね、と言ってくれた。おれにはもったいないできた女の子だと申し訳なくなったが正直そのあいだずっと気持ちが悪かった。彼女が帰ってからずっと胃が空になるまでトイレでげえげえと吐き続けて買ってきてもらったものも手をつけることができなかった。こんな風になるなんて思っていなかった。結局普通の人間みたいなしあわせはおれには望めないんだ。次の日にはなんとか出勤をしたがものすごく調子が悪そうに見えたらしく、帰れと言われた。眠り続けて、水を飲んでは吐いて、このところ忙しかったからなあ、と逆に気を使ってもらう体たらくでなんとも申し訳なかった。

 有給がたまっていたので三日ほど休みをもらってなんとか復帰をすると、工場の中が変な雰囲気だった。おれが挨拶をすると、いつもの感じではなくなにかが変な、ぬめっとした反応が返ってきた。戸惑っていると奥から社長と専務が出てきて、おれを手招きする。通されたのは社長室というか、まあ事務所の一角なのだが仕切りがあり、ちょっといいソファが置かれている場所だった。おれはとりあえず休んでしまったことを詫び、仕事の遅れを取り戻す計画をすぐ立てる旨伝えた。彼らは黙っていて、おれはなぜかすこし苛立ちながら、話がないなら持ち場に戻らせてくれ、と言った。

「あのなァ、黒ちゃん。前テレビでたやろ」

 社長が重い口を開いた。はいとおれは答える。町工場が支える先端技術という話で、ビジネス番組のワンコーナーだった。

「あれ見はった人から連絡あってな……。黒田の身内や言わはる。名前違うけど、間違いないて。この名前で連絡くれはったけど、見覚えないか」

 差し出されたメモにはおれによくしてくれる職人さんの端正な字で、柘植晶、と書いてあった。おれはあまりのことに記憶喪失のことを忘れて、おれの、双子の兄弟の名前です、と言ってしまった。十年、もっと前に死んだ、おれの、双子です。そうか、と社長は頷きまた口を開いた。

「おまえ、いっぺん帰れ」

「そんな、おれ嫌です。ここで仕事をするのが好きです。ここがおれの家です。お願いします」

 頭をさげながら十年分の涙がぼろぼろ溢れた。おれのかわりに泣いてくれる掃除機はもうなかった。おれはおれの言葉でそれを言わなければ。おばさんがおれの頭を抱いてくれた。十年前よりちょっと小さくなったけど、やさしい、柔らかな感触。あんな人なんかよりおれのお母さんはこの人だと思う。日に当てた洗濯物のにおいがする。

「黒ちゃん、あんたね、言うてへんこといっぱいあるでしょ。つらいこと多かったでしょ。逃げるのもええねんで。なかったことにするのも。でもあんたがそれやとずうっと辛そう。な、できるんやったらいっぺん決着つけといで。工場は大丈夫。ちょっとくらいやったらベテランさんもまだ元気やし黒ちゃんのおかげで若い人も育ってはる。だからね、行っといで」

 べしょべしょと見苦しく泣き続けるおれに田所金属の名入りの薄っぺらいタオルをよこして社長が言ったことは大体まとめるとこうだった。結局おれの両親はあの後離婚して母親は島に帰ったとのことで、父はあの家にこそ住んでいなかったが売りに出すことはせず、そして数年前に亡くなったということだ。おれはいつかのうどんのことを思い出してぼんやりとそれを聞いていた。おれは失踪したということになっていて現状では権利もなにも発生はしないのだが、家の中のものの整理ができていないこと、そして晶が死んだ、いわば曰く付きの家であること、そしてこれが最大の理由だと思うのだが、古い建物が固まっていた地域なので来年にでもまとめて再開発、という話が出ているのでおれさえよければ一度帰ってきて荷物の整理というか、残すものや持ち出したいものの確認をして欲しい。そしてもう一件ついでがあって、その権利を持っている親戚というのが、今は両親と子供二人で暮らしているのだが、一人が怪我をしてしまって入院をすることになったので、十日間くらいもう一人の面倒もついでに見てくれると嬉しい、もちろんお礼は相応にする、という話で、メチャクチャだし十年会ってない記憶喪失の親戚にいきなり子守を頼むのはどうなんだ、と思って話を聞いていくとどうも晶の葬式で会った若い叔父らしく、まあそんなこともあるかあの人なら、と諦めがついた。電話ではその子供のほうがおれをテレビで見てこの人ならいい、と言ったという話だった。それも嘘か本当かはわからなかったが。

 そんなことで決着がつくのかはわからなかったが周りから固められておれは仕事を休んで東京に戻ることになった。身元不明の記憶喪失で十年すこしやってきた人間の降って沸いた帰省話にまわりの人たちは驚き、おれが盆明けちょっとしたら帰ってきますと喚きながら出かけるのを壮行会までやって見送ってくれた。

 あのとき鈍行を乗りついで一日かかった道のりは新幹線で二時間ちょっとだ。東京には仕事の出張の都合で何回か行っているのでとくに感慨もない。普通に新幹線の切符を買って、普通に山手線に乗り継ぎをした。だけども窓の外の風景をみて、そろそろと家が近づいてきているのだというのがわかると心がきしむ音が聞こえてくるようだった。十年経っても癒えない傷はあるんだとおれは思って、最寄り駅を降りた。景色は随分変っていて通りの形自体は一緒だけど看板なんかに見慣れたものはなにもなかった。おれは道を歩く。ゆるい上り坂が続いている。家までの帰り道。たしかに取り壊されている家や、明らかに人が住んでいない家が点在していて、この町の終わりを告げている。

 病気の子供と残った子供、まるでおれたちみたいだ。足が自然に止まる。曲がり角を曲がってすこし進んだところ。あきらかに古くなっている壁の色と、それでも記憶そのままの形。置かれたままの植木鉢。どちらが大きな花を咲かすか言い争った夏休みの朝顔。鍵の開く音が聞こえる。茶色い、古い引き戸が開く。にっこりと微笑んでいる。晶が。おれは幽霊を見た。細く伸びた形のいい手、白の半ズボンから覗く枝のような足、下より薄い生地のすこし大きな半そでシャツから覗く細い鎖骨。おれと同じふわふわの細い猫っ毛、おれの百倍美しい生物。幽霊はにっこりと微笑んだ。おれを招くように差し出す手のひら。軽く曲げられた指先の爪。あっけに取られていると奥から十年すこしの分老けた叔父が顔を出した、おお上がってくれ。久しぶりだなぁ、日君。

 幽霊は幽霊ではなかった。叔父の息子だと紹介されたかれは葉介という名で、たしかによく見れば別に似ていなかった。笑った目の形と口の上げ方が晶とは違うし、身長も多分おれよりすこし低い程度だ。十四歳だというが死んだときの晶と比べれば文庫本一冊分くらい違うかもしれない。

「実家に預けてもいいんだけど塾とかいろいろあって遅れちゃうって言われたらさあ、受験なんてまだ先なのに参っちゃうよ。おれもちょっとね、海外に長期出張とかあって、うん盆とか関係ないんだよね向こうは。言うほどバカンスって休まないしさ。嫁さんはもう一人のほう、あ、幹久っていうんだけどそっちにかかっちゃうことになったから、だから日君がいいって言ってくれてほんと助かるよ。仕事も休んでもらっちゃったしね、お礼するから。この家もほんとは日君のだしね。いやーテレビでみてびっくりしたよね。ずいぶんイケメンになっちゃってほんと最初気がつかなかったんだけど嫁さんがなんか見たことある顔ねえなんて言うからさ、気になって会社に直に問い合わせたら身寄りがわからないんですなんて言うからさあ、これおれ相当なミラクル引いちゃったよねえ、じゃあおれ仕事あるから帰るね。水も電気もガスも全部復旧してあるし、ある程度は兄さんが掃除してたみたいだしおれもちょっと掃除とかして布団とかはうちから持ってきたからね、気兼ねなく使って。まあ自分の家かあはははは」

 喋るだけ喋っておれのを昔の名前で呼び続けて叔父は去っていった。うるさいお父さんだね、と言うとかれははにかんだように笑った。笑うと本当に晶には似ていなくて、安心した。きみがおれを呼んだの、となんとなく尋ねてみるとそうだと言う。なぜ、と聞いてみても返事はなくただ笑っていた。ずいぶん大人びた笑い方だった。

 とりあえずおれのことは黒田ないしは春一と呼んでくれと強く言うと彼はうん、わかった、はるさん、とおれを呼んだ。正直今までなかった呼称なので戸惑ったが日と呼ばれるよりはもちろんいい。葉介君と呼ぶと、ようでいいよと言うのでおれたちは春と葉ということになった。

 葉君はこの家のことを知っているのと尋ねると、来るのは初めてだと言う。うちの持ち物になったら売っちゃおうねえというはなしはずっと聞いていたと悪びれなく言うので、心の中で叔父に舌打ちをしながら風を通すついでに全部屋探検だ、と言うと景気のいい掛け声が返ってきた。まず二階な、と言って両親の寝室になっていた部屋から空けると気持ちのいい風がふわりと吹いてきた。ずっと閉められていた雨戸はぎしぎしと言うが機能に問題はなさそうだ。戸袋になんとかしまうことができた。網戸もそんなにほこりはついていなかった。明るくなった部屋は戸惑うほど小さかった。子供のころに見ていた景色というのは結構サイズ感に狂いがあるな、と思った。押入れの中には収納袋に入れられた布団が二組あって、これが家から持ってきたというやつかと思う。部屋の中にはタンスがあったので見てみると概ね空だが、何枚かたとう紙にくるまれた着物や小箱が出てきた。母の持ち物だろうか。まあ後回しににして次に物置になっていた三畳間を空ける。ここはごちゃごちゃしていた。もともと物置だったからか狭い中に無理やり詰め込まれた棚の類に本だのかごだの謎の雑貨だのが入っていて、手間そうだ。全部捨ててもいいんじゃないのとも思うが。最後の部屋は正直空けたくなかったが仕方ない。葉もすっかり楽しそうにしているのでそれを奪うこともないと思ってドアを開けた。おれたちの子供部屋。めまいがするほどそのままだった。多分晶が死んで、おれが出て行ってからなにも手をつけずに置いてあったのだろう。二つの勉強机には中学三年生の教科書が揃えてそのまま入っていて、二段ベッドの上の段の布団さえ当時のままだ、子供が二人、今にも帰ってきそうだった。部屋の隅に置かれた漫画の雑誌の時が、十数年前で静かに止まっていた。葉が、ねえこれジャンプじゃんと楽しそうに手に取ったのを、思わずひったくってしまってから気まずくなってそっと差し出した。一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに、ねえすごいねこれ出たころぼくまだ三歳!と楽しそうに言う。うわっでもワンピースとか載ってる、ブリーチもある、すげえね、とニコニコしながら言った。子供っぽくも笑うんだと思ってから今度はそれがすこし晶に似ているように見えてしまった。

 二階を開けて回って次は一階、キッチン、居間は綺麗なままで掃除をしなくても使えそうだった。風呂もとくに問題はない。いざというときは近所の銭湯に行けばいい。ここも開けたくないなあと思っていた客間は葉が勝手に開けてしまった。なにもないね、とすこし退屈そうに言ったかれに客間だからね、と答える。

 物置と子供部屋以外はわりとがらんとしていて、長い間空き家になっていた家特有のほこりの匂いがした。整理をするという話だが両親のものはほとんど置いてないようだった。さしあたってはエアコンのフィルターか、どの部屋も十年以上前のものだから電気代を食いそうだ。スイッチは普通に入るみたいで、引き出すタイプのやつは思ったより汚れていなかったので掃除機で吸った。新しいもののようだったのでどうしたんだろうと思って見ていると、家から持ってきたものだと葉が言った。扇風機も持ってきた、あと冷蔵庫、と言われたのでさすがに冷蔵庫、と思ってびっくりして見ると嘘のように小さいそれが置かれていて、思わずビールいれるやつかと呟くと葉は正解と言って笑った。

 二階のエアコンはフィルターを完全に抜くタイプだったので、全部取り出してちいさな裏庭で洗った。日差しが強いから、夕方までには乾くだろう。ホースから出てきた水はきらきらして、おれがこの家で過ごしたどの夏よりもきれいに見えた。アイスが食べたい、と葉が言ったので夕飯まで我慢しろと言うと、勝手に持ってきたらしいペットボトルのジュースを飲み始めたので働くおれのほうが必要だろ、とぼやくと飲みさしのものが渡された。久しぶりに飲んだ果汁何パーセントだかのしゃばしゃばのオレンジジュースはたしかに夏の味がした。

 せっかくフィルターの掃除をしたというのに庭に水をまいたからかやけに涼しい夕べだった。猫の額ほどの庭でも効果はあるんだなあと、掃き出し窓のゆれるカーテンを見た。いつからぶら下がっているのかわからないカーテンだがとくに汚れている様子もない。なんとなく匂いを嗅いでみるとかび臭い。さすがに洗濯機はなかったのでスマートフォンで近所のコインランドリーを調べた。明日は家中のカーテンを洗ってやろうと思う。シャワーを浴びてきた葉が歩くたびに足の裏が濡れているのだろう安物のタイルのような柄のビニールが貼られた台所の床がぺたぺたと歩いた形に光る。

「足を拭きなさいよ、おまえ」

「だって足のマットないんだもん」

 タオルででもこうやって拭きなさい、と言うと春さんお母さんみたいなんて言われてしまった。足のマットね、と持ってきたノートからちぎった紙を小さい冷蔵庫の上に置く。

「春さんなにそれ」

「ここに買うもの書いておいたら忘れないでしょ、葉君もなんかいるもんあったら書いて」

「じゃあねえぼくハーゲンダッツ」

 ふふ、と笑いながら葉が言うのを、違う、ノートとか、消しゴムとか、そういうもの。勉強するために残ったんでしょう、と言うと思ったよりも素直にうん、と頷いて、でもそういうのはもう持ってるからね、大丈夫、と言った。

 そのままこの十日間の予定でも立てようと思って、葉にスケジュールを聞いてみてびっくりした。水曜日は休みで他は昼から夕方まで塾だと言う。金曜日は英語のレッスンがあるから帰りは十時くらい、といわれておれより勉強しているぞ、と言うとまたあのすこし大人びた笑顔ではにかんで見せた。じゃあ今日水曜だから休みなんだ、と言うとうんと頷くその動作は相応に子供っぽくて不思議な子だな、と思った。

 ご飯はあるから、といわれてとくになにも用意しなかったが、あの小さい冷蔵庫になにか入っているとは思えなかった。おまえもうシャワー浴びたけどどこかに食べに行くかと聞いたら、スマートフォンを突き出される。ちいさな画面にはいっぱいにチーズが蕩けるピザの写真が表示されていて、そういえば遠路はるばる来て昼に新幹線の中で弁当を食べただけだと思うと腹がバカみたいにぐう、と鳴った。葉はすこし笑って嫌いなものはあるの、と聞いてきた。ピザに乗るものならアスパラガスと言うと、わかったと返事をしてちまちまと手元のその端末を操作する。飲み物は、と聞かれてビール、とわりと元気よく言うと笑われてしまう。どっちが子供だか、わかったもんじゃない。ビールないよ、コーラでいいの、と尋ねられてピザにコーラなんかめちゃくちゃ久しぶりだと思って楽しくなった。

 シャワーを浴びて出てきて、予定の続きを立てた。見て回った部屋の感じから大体の片付けのやり方を考えて、ネットでこのあたりのゴミ収集の曜日を確認し、ゴミ袋、ぞうきん、バケツと書き出していく。まめだねえと笑われて、おまえも夏休みの宿題をちゃんとやらないと後で泣きを見るぞ、と脅かすともう大体すんだよ、と言って笑っていた。そうにっこりとされるとなんだか勝手がわからない。中学生ってもっと動物みたいな存在じゃなかったっけ、とおれは大阪の工場の周りを走り回っているガキどもの顔を思い浮かべる。

 そんなことをしているとピザが到着しておれはもう一段驚くことになった。中学生の注文ということで全部乗せみたいなやつか、肉そして肉みたいなやつが出てくるんじゃないかと思っていたら一枚は肉すら乗っていないバジルソースのやつ、もう一枚はベーコンなのはいいのだがブラックオリーブなんて乗っているおしゃれなやつが出てきた。はいこれ、とコーラを渡され、おまえの分ないの、と聞くとぼくはこれ、と冷蔵庫を開けてグリーンの瓶を取り出す。おまえそれなんかおしゃれな炭酸水やんか、と思わず言うと春さん芸人みたい、と言ってかれはけらけらと笑った。

 用意周到に見えたかれがうっかり歯ブラシを持ってくるのを忘れていたのに気付いたのは食後のことで、その日は二人とも疲れていたので買い物リストに歯ブラシ、と書いて寝た。

 工場に勤めるようになってから毎日気持ちよく働いて家に帰って寝て起きてということをしていたから習慣になっていていちおう休みだというのに相変わらず六時半前には目が覚める。夜が明けてしばらくするとさらに蝉が大音量で鳴くので眠っていられない。居間にしつらえられた古いテレビ、と言っても十年前のものなのですでに液晶のものをつける。ラジオ体操が始まる時間だ、工場でも朝礼のときにやっているのでこれをやらないと一日が始まった気がしない。テレビから聞こえてくる指示通りに身体を曲げたり伸ばしたりしていると葉が起きてきた。朝からばたばたうるさい、と言うので健康のほうが大事だと言い返すと、ちょっと嫌そうな顔をした。

「テレビで見たイメージとちがう」

「ああ、その放送おれ見てないわ、忙しくて。どんな感じだったの」

 コンビニで買ってきた三枚入りの食パンをこれも持ってきたというオーブントースターで焼いて朝食にした。ジャムやバターを忘れていた、と嘆く葉にそういうのも書いておいて、とペンを渡す。このちいさな冷蔵庫ではぜんぜん足りない気がする。

「なんか、静かで頭よさそうだった。幹に似てると思って」

「ミキって兄弟の名前だっけ」

「うん、お兄ちゃん」

 木の幹に、久しい、と続けて言うのが、ずいぶん口になじんだ感じがした。まあおれ頭いいなんて事はないよ、中卒だし。と言うとかれはぽかん、と目と口を丸く広げて、中卒って、高校行ってないの、と言った。そうだよ、と返すと、なにしてたの、引きこもりとかなどと不名誉なことを言うので、いや働いてたよ、と告げるとものすごくびっくりした様子で中学校を出て働くとかあるんだ、と言った。うん、昔は東京でもよくあったし、今も地方だとあるよ、と言うと、そうか、そういうの、ぼく知らないな、と俯いてしまう。

「別に知らなくてもいいよ」

「うん、でも、知らないのなんか、恥ずかしいと思った」

 そう下を向いたまま答えるのを可愛いと思って、頭をぐちゃぐちゃ撫でた、大人になってすこし硬くなったおれの髪の毛と違って、柔らかで細い髪はすぐに絡んで、その後とても叱られた。

 皿を洗おうとして洗剤とスポンジすら置かれていないことに気がついた。叔父もなかなか想像力と生活力のない男だなあと思ったが、葉はこれまた持ってきたらしいポットで湯を沸かしている。白いスリムなポットは五徳の上に置くにはバランスが悪い気がしたが、かれは器用にお湯を沸かし、持ってきたらしいコーヒーメーカーに、生成りの色をした紙のフィルターをきちんと折ってから入れ、冷蔵庫からちいさな銀色の包みを取り出し専用のものらしい白いプラスチックの匙でコーヒーの粉を入れ、ちょうど沸いた湯の入ったポットのもち手を小さい四角い布巾でくるんでから持ち上げて、コーヒーの上にくるっとお湯をかけまわした。しばらく待ってからさらに湯を注ぎ、粉からは茶色の泡がむくむくと湧きあがり、すっとしぼんでいったところにまたお湯をかけて、惚れ惚れするような手さばきだった。

「コーヒーを淹れるのはぼくの役目なんだよね」

 そう言って渡された黒いマグカップは中がきれいな緑色をしていて、注がれたコーヒーはつやつやとした深い茶色で薄い脂の皮膜がかかっているのが見えて、実際、生きていて飲んだコーヒーの中で一番旨かった。

「おまえさあ、なに、おぼっちゃんなの」

「いや、そんな違わないでしょ。ぼくたち、いとこだよ」

 たしかにそういわれてみるとそうなのだけど、そんな気がまったくしていなかったので指摘されて驚いた。そうだ。従弟なんだ、と。

 カーテンをはずすから手伝ってと言うと嫌がるそぶりもなく一緒にやってくれた。身長が近いのではずしたものを畳むのも楽だ。両端をそれぞれ持って、一人が真ん中を掴んでもう一人が畳む。一回折ってしまえばなんなく一人でも片付けることができた。束になったカーテンを持って、昼前におれたちは家を出た。調べておいたコインランドリーに向かいカーテンと昨日の洗濯物を一番大きな洗濯機に突っ込み、そのまま葉は塾へ。おれは買い物をしにスーパーに行った。無意識に昔よく行ったスーパーへの道を歩いていたのをそこがきれいな真新しいマンションになっていると気がついたときにようやく知って、そうか、十年経つとスーパーも無くなる、と思ってスマートフォンを取り出す。駅の近くの店はまだあるようだった。

 買い物を済ませて一度家に帰った。やっと皿を洗うことができる。買ってきたサンドイッチを行儀悪く立ったまま齧りつつその辺をうろうろする。そういえばキッチンには冷蔵庫が置きっぱなしで、おれたちが家にいたころに使っていたものだからもう壊れているのかとためしに電源をつないでみると、ぱっと明かりがついた。ほんのり冷たい空気が出ているようだ。ためしに皿洗いのあいだ閉めておいてみると若干冷えている。なんだ使えるじゃないかとおれは思って、もう一度出かけて今度は洗濯機から取り出したカーテンの類を乾燥機に突っ込んで、もう一度スーパーに行って食材を買い込んできた。

 戸棚にはなぜか鍋とフライパンと、朝に葉が使っていたポットといくつかの食器が入っていて、これも持ってきたものなんだろうかと思う。他になにかあるかと思って探すと、奥からもっと古い黒いフライパンが出てきて、おれは不意に殴られたような気持ちになった。これは鉄のフライパンで、これで料理をすると貧血によいとかで母が晶の病人食を作るのに使っていたやつだとおれは嵐のように思い出す。おれはいそいそとそれをしまいなおして、浅いところに入れてあったさっきのフライパンを取り出した。テフロン加工されたそれは小さくて、心許ないほど軽かった。

 時間を計ってカーテンの回収をして、それを今度は一人でつけていった。洗われたカーテンは洗剤の香りがして気持ちいい。ゆれるレースカーテン越しに光が差し込み、おれの記憶よりうんとものの少ない部屋は他人行儀な感じがしてなかなかよかった。最後に子供部屋に上がって、それを付け直した。学習机の奥、窓の向こうにはずいぶん高い建物が増えていて、むかしのままのはいくつかの建物と窓の形と、アルミの手すりの柵だけだった。机を指の腹で撫でると、積もったほこりがそこだけ取れて線が描けた。机に敷かれた透明なマットの下には、雑誌の切り抜きらしいスポーツ選手の写真が入っていて、そうだこっちは晶の机だったとおれは思い出す。

 おれの書いた計画表では子供部屋の片付けはまだ先で、そのまま部屋を出て、戸を閉めた。

 聞いていた通り夜に葉は帰ってきた。塾は電車で三十分くらい行ったところにあって、かれの家のあるマンションはその横の駅にあるそうだ。別にもう中学生なのだからそこにいてもよかったのでは、と言ったらぼくが春さんに会いたいと思ったから、と答えが返ってきた。おれはよくわからんな、と思いながら飯を作ってやった。同僚の中国人直伝のトマトの卵いためを食卓にのせると、葉は目を輝かせておいしいと食べた。

 そんな感じでおれたちは朝のうちに人手がいるようなことをして、昼からは葉は塾へ、おれは細かいものの片付けをした。三日目からは葉もあきらめたのか朝にばたばたされると起きる、と言っておれと一緒にラジオ体操をするようなった。その日は出掛けに今日は夜ご飯いらないよ、と言われてああ、英語のある日かと聞くとかれは頷く。ならおれは飯をどうしようかなあ、と作業をしているといつの間にか日もすっかり暮れていて、もう面倒くさいので弁当でも買うかと最寄のコンビニを調べて家を出てすこし歩くと、なんとなく見覚えのある景色で、そうだいつか公衆電話のために歩いた道だと思い出す。さすがにもうあの電話ボックスは跡形もなくなっていて、おれはから揚げ弁当を買った。コンビニを出てすこし歩いていると後ろから声をかけられる。あの、と言われて振り返ると見知らぬ身奇麗な男女が立っていた。なにか落としでもしただろうか、と立ち止まると、男のほうが口を開いた。

「やっぱりそうだ、柘植だろ、柘植晶。小学校で一緒だったナカザワタダシだよ。ほら、小五で引っ越した。おまえ、このへんにまだいたんだなあ。僕も最近仕事の都合でこっち住んでてさあ、会えて嬉しいよ、なあこっち僕のおくさん。ほら、挨拶して。おまえ変らないなあ、なんだ、かっこいいなあ相変わらず」

 一方的に喋り続ける男を遮って、違います、となんとか言った。おれの名前は黒田春一です。そう言いかけたときに男はすこし顔色を変えた。あの不可解なものを見るような、目。

「ああ、もしかして双子のほうだ。なんだっけ名前、ごめんごめん。こいつすごく似てる双子いてさ、性格とかぜんぜん違うんだけど。なあ晶は、まだこっちいるの」

「かれは死にました」

 おれはなんとかそれだけ言って、男を見た。言われた言葉の意味がよくわからない、と言った顔をして固まるのを、ちょっと、と女の人のほうが小突いてやっと正気に戻ったようだった。えっと、そのあの、ご愁傷様でした。わあ、久しぶりに言われたその台詞。一生分ではなかったのかあれは。

「いえもう十年以上も前のことですから」

「えっとちなみになんで」

「病気です」

 気まずい沈黙が数秒だけあって、ああ、と男が言った。いやなんか急に声かけちゃってすみませんでした、懐かしい顔見て、つい。徐々に声が小さくなっていく男が、なにかかわいそうでおれは笑いかけてやる。いいえ、お気になさらず。それでは、さようなら。言いながら、この笑い方が晶に似ていればいいなと思う。二人は会釈をして、横断歩道を渡って歩いていった。おれは疲れて、もう眠ってしまいたいと思った。なんとか歩みを進めれば足元の影が濃くなったり薄くなったりして、あの夜みたいだ、と思った。家にたどり着いて鍵を開けて、水を飲んで、居間の床に座ると思ったよりもずっと疲れていたことがわかった。

 やわらかいものの感じがした。なんだろうと思ったら寝るときに使っているタオルケットで、誰かがおれにそれをかけたみたいだった。 いつの間に眠っていたのか、誰かがいる。父さん、母さん、それとも晶かな、おれは重たい目をなんとか開けてそちらを見る。晶が笑っている。ああおまえ、やさしいよな、おれにも、いつも。意識がだんだんはっきりしてきて、かれは死にましたとおれ自身が言った語句の形が唇に舌に甦り、その夢とも言えないぼんやりしたところから目を覚ました。ああ、ごめんね、葉。寝てた。

「見たらわかるよ」

 そう言うかれの手元には氷の入ったコップがあって、電気の光がそれに透けてきらきら反射をしている。おれの額に底が触る、冷たい。おれはコースターじゃない。熱でもあるのかと思って。ないよ。夏風邪は馬鹿がひくんだ。かれのきれいな形の唇がガラスにそってまっすぐになる。おれはそれが好ましいと思った。綺麗だと。

 晶って誰、とかれが言った。そう呼んでしまったのかとおれは心の中で舌打ちをひとつする。おれのね、昔いた双子。死んじゃったんだ、十五歳で。葉の手が床に転がるおれの頭をなぞる。水気のある冷たい指先が額を伝う。気持ちがいい。そうか、それでわかったよ、春さん。なにがわかったの、おまえ。

「ぼく、片割れをなくした人に会ってみたかったんだ」

 そういえば叔父の息子は双子と言っていたな、とおれは思った。

 その日おれは久しぶりにあの玉砂利の浜の夢を見た。遠くで誰かが泳いでいた。それが晶なのか、葉なのかそれともかれの片割れなのかは、わからなかった。水は透き通っていて、おれの足の下に丸い、いろいろな大きさの石がたくさん転がっていた。おれはそのまま仰向けに倒れて、身体の下でぱしゃんと水音がするのを聞いた。太陽はどこにも見えないのに空は均一に青く、おれは目を閉じる。

 起きて、と足を持ち上げられて戸惑う。葉はおれの右足首を引っつかんでいる。おれはずいぶん腑に落ちないという顔でもしてたのか、人を起すときには上半身より下半身を揺らしたほうがいいってテレビでやっていたから、と言って笑う。ラジオ体操もう終わったよと言ってスマートフォンを見せられるとたしかに十時を過ぎていて、身を起こすが畳の上とはいえそのまま寝てしまったので身体が痛い。珍しいね、と言って葉が笑う。珍しいって言ったっておれとおまえは四日間しか一緒にいないぞ、まだ。おれのなにがわかるんだよ、そう言ってタオルケットを引っつかんでもう一度丸くなると、かれはそれを奪ってぼくが作った朝ごはんが食べれないって言うの、と芝居がかった口調で言った。

 台所のテーブルを見るとたしかにきれいなフレンチトーストが雑誌のなかから飛び出てきたみたいに並んでいて、なかなか起きないから勝手にやったよ、とかれが笑った。それはルックスは完璧なのに、食べるとなぜか甘みがまったくなくて、おれは思わず笑ってしまった。フレンチトーストってこんなんだっけ、と言うとむくれた葉は、はちみつかメープルシロップがあればよかったんです、と言い募る。仕方がないので冷蔵庫に入っていたバニラアイスを半分ずつ乗せて、いちごジャムも乗せて食べた。アイスを朝に食べるって贅沢だよねと、葉はすぐに機嫌を直した。

 もともと荷物の少ない部屋の整理はあらかた終わり、おれは二階の物置三畳間の片付けを始めた、物が多くて身動きが取れない部屋なので、荷物を向かいの親の寝室だった部屋にすこしずつ移動させて確認していく。わけのわからないものが大量に出てきた。由来不明のサイン本とか、見覚えのない帽子、張子の人形。極めつけはブリキ缶に大量に詰まった石。子供が描いたらしい絵なども出てきたが、分量がおれと晶で三倍くらい違うのは正直笑うしかない。たしかおれは途中で絵を描かなくなったしな、と納得する。蝉の声がする。型押しガラス越しの光がおれと晶の描いた絵に差している。あんなに上手ねえと言われていたかれの絵は、ただの子供が描いた絵だ。そんなことをしているとやっぱり時間は一瞬で過ぎるので、葉のただいまの声でおれはふと気がついた。ほどほどに遅い時間だ。二階からおりてごめん飯まだだわ、どっか食べに行こうかと聞くとかれはビニール袋を提げて笑った。迎え火を焚く日だよ、春さん。

 そのまま軒先でやってしまおうと言うので任せるとどこで調達してきたのか、ぺなぺなのアルミホイルの皿に本格的なオガラを折りちいさな井桁に組む。手つきが妙に慣れているので聞くと毎年おばあちゃん家でやってるからね、ということで、そういえば従弟なんだからこいつの行く寺もあの晶の骨がある寺なんだよな、となんとなく思った。百円ライターは最近チャイルドロックで硬い。それには手こずるらしくなかなか火がつかないので、ライターを借りてみる。煙草を吸うわけではないので、おれ自身も不慣れでたしかに難しい。チャイルドロック開けられない大人、と笑われてからやっと火がついた。ぽっと赤い炎がゆれ、オガラがよりいっそう白く見えた。迎え火というには夜遅すぎるような気もするが、このくらい暗いほうがきっと灯も目立つだろう。

「いつも実家に帰るんでしょ。今年はなんで残ったの。まだ中学二年だし、塾だって別にいいんじゃないの。夏休みの十日くらい」

 なんとなく手持ち無沙汰になって、かれの横顔を見ながら聞いた。瞳にちいさな炎が映ってゆれている。今のお勉強ってなかなか大変なの。みんな行ってるからね、塾。お盆も休まないしね。それに、やっぱり、今年は幹がいないから。そう言って端っこで燃え残っていたオガラを器用に掴んで、火の中に放り込んだ。

「幹がいないんじゃ、仕方ないんだよ。」

 風が通って涼しいということでおれたちは二階で寝ていたのだが、その部屋をうっかり荷物置き場にしてしまったので下に布団を運んで客間で寝ることになった。居間でいいだろと思っていたのに、葉がこっちのほうが涼しい、と言い出してそうなった。もし晶の夢でも見たらしゃれにならないと思ったが、前の日畳の上で直に寝ただるさが残っていたからか案外深く眠れたらしく、なんの夢も見なかった。

 翌日は普段どおりに目を覚まして、おれたちは相変わらずラジオ体操をした。朝飯のトーストはおれが焼き、葉がコーヒーを入れる。これだけは本当においしいと褒めると、 コーヒーを入れるのはぼくの役目なんだよね、と数日前と同じ笑い方をして言った。その役割、幹君にもあるの、と聞くと、いたずらっぽく笑ってコップを傾けながらかれは言う。

「コーヒーを飲むのが幹の役目なんだよ」

 伏せた目がちらりと光を反射して輝いた気がした。

 やっぱり二階のほうが涼しいよ、とかれが言うので早くそっちを片付けようとなった。明らかにいらないものをダンボールにまとめて、これは後ほど叔父が引き取りに来るということで居間に下ろした。本の類はビニール紐で括っていると、インターネットの古書店に売るからと言われた。葉がお店のアドレスまで控えていたので、叔父のそういう用意周到さには笑ってしまう。

 アルバムが出てきたので、そのまま捨てようとするとめざとく葉が見つけて、みたいみたいと騒ぎ出した。仕方ないので冊子ごと渡すと、うわっ春さんかわいい、これ双子のほう、めっちゃそっくり、と楽しそうだ。

 やさしそうな子だね、と晶が一人で写って笑っているものをみて、かれが言った。日付を見ると中学二年生の夏で、場所は母の実家の例の島だった。おれが行っていないときだ、と思ってその写真に見覚えがあることに気がついた。どこでか、としばらく考えて、葬儀のときの写真のもともとはこれか、と思い至る。はめ込みで服が学生服になっていたから気がつかなかったんだ。南の島の日の光を浴びて笑っている晶はとてもしあわせそうだった。ぼんやりとそれを見ていると葉の手が伸びてきて、それをアルバムの台紙からはずしてしまった、どうしたのと聞くとかれは笑って、フォトスタンド出てきたから入れてあげる。と言う。銀メッキがすこしくすんだ枠にはめられたかれは、変らずしあわせそうに笑っている。

 葉はとてもいい子だったので、一緒に暮らすのはなんの不満もなかった。ただ、やはりかれ自身は自分の親や兄弟と離れて過ごすのがさみしいらしく、夜など眠る前にぼんやりとスマートフォンを見ていることもあった。声をかけると、幹からライン、とか、お母さんから写メきた、などと言って、そのときばかりは年齢よりすこし下に見えるような顔で笑った。二人並べて布団を敷いていたので、闇の中、写真をぼんやり見ているかれの頬が、白い光で照らされているのは何度か見た。スマートフォンを両手で捧げ持っているその姿は祈るようだった。

 おれはおれの立場でなにかかれにしてやれる事はないかといろいろ考えていたが、心配ないとか、そういう台詞は言えば安っぽくなるのがわかっていたから、結局口にすることはできなかった。するとかれは見ているおれに気がついたのか、手をのばして、おれの額にかかった前髪を持ち上げて、変な顔、と言って笑った。心配してんだよ、とぽろりとこぼすとさらにかれは笑って、大丈夫だよ、幹、ただの骨折だもん、と言った。それを聞いたとき、おれはどうして葉の片割れも死にゆくような気持ちでずっといたのか、勝手な思い込みだったと気がついて顔から火が出そうになった。交通事故でね、タイミングが悪くて、リハビリがたいへんだからずっとお母さん、行ってるけど、がんばったら元通りになるって言うから、平気だよ。そう言って笑ってかれは目を閉じた。おれは、おれなんかよりこの子のほうがずっと大人だな、と思って恥ずかしくなった。

 結局片付かなかった二階の寝室を今日こそは終わらせると、朝食を食べながら葉は息巻いていた。おれは正直子供のころのどうでもいいものが大量に出てくるのに疲れはじめてきて、さらに子供部屋もあるという現実に面倒な気持ちになっていた。そんなおれを無視してかれは元気よく掃除を始めた。さすがにもうアルバムは出てこないし、怯えていた大きなケースの中身は父の古いスーツだったりして、それを羽織って自分の父、要するに叔父のどうでもいい物まねを始める葉にだいぶ笑わせられたりした。

 そろそろ昼の用意をして、葉も塾に行こうかというくらいの時間だった。どうしてもよくわからないものは諦めて箱の中に入れていると、透明な安っぽいちいさなプラスチックのケースに脱脂綿を入れたものが転がり出てきた。なにかと拾い上げて見ると、あっ、それ本物初めて見た、と葉が言う。知っているの、と問うと頷きながらプラスチックのケースを指でなぞり、これ、水晶なんだよ。と言う。見るとうすっぺらいガラスの破片のような、親指の爪のようなものが入っていて、一部が欠けたハートの形にも見えた。

 「これ、双子の水晶なの。ぼくもこういうのネットで見たことあるけど、現物は初めて見た。ジャパニーズツインって言うんだよ。」

 ケースを開けて、かれがそれを窓に向けて透かす。その横顔と、差し込む日の光に、おれの心臓が悲鳴を上げた。それは、おれが晶のお守り袋から取り出して、捨てたかけらと多分同じものだった。日本の双子、と名を持つその石は、ケースに残されたラベルを読むとたしかに日式双晶、とあって、その下に採取地らしいところがちいさな字で書き添えてあった。それは、あの玉砂利の浜を、砂嘴の島を持つふるさとで、母がなにを思ってお守り袋にそれを入れていたかわからないが、ずいぶんいまさら酷い仕打ちだと思った。

「ねえ、これもらっていいかな、幹にも見せてやりたいな」

 そうはずむ声で葉は言い、こちらを見る。固まってしまったおれに気がついたらしい。心配そうに覗き込むのが晶に似ていて、おれは似ていると思ってしまうおれ自身が嫌だった。

「いいよ、あげるよ」

 ねえところでおれもうちょっと片付けるからさ、よかったら今日、昼ごはん、外で食べて行ってほしいな、お金渡すからさ。なるべく明るくそう言った。これ以上酷い顔をかれに見せたくなかった。葉はなにかを察したのか、それともわからなかったのか、いいね、ちょっとマック食べたいと思ってたんだよね、じゃあシャワーだけ浴びて出かけるね、と言って階段をおりて行った。階下から、これほんとにもらうねえー、と能天気な声が聞こえてくる。

 そのままおれはへたり込んで、しばらくじっとしていたが、下でしていた物音が聞こえなくなって、ドアの閉まる音がしてしばらく経った後にふいにぽろっと涙が出てきた。右目と、左目から一滴ずつ、それは畳におちて、しみになった。

 あの母がなぜ、双の名のつくものを晶に渡していたのか、それはもう永遠にわからないし、わからなくてもいいことだ。ただ、晶が持っていたそれを、おれはおれ自身で捨ててしまった。おれは不意に、おれ自身は一体晶になにを渡せただろうか、と思った。産まれたときから奪われていると言って拗ねて挙句の果てに逃げ出して、おれのこの世でたった一人の双子の半身になにか、してやれていたのかと。おれはずいぶん長い時間そうして座っていたが、ただひとつのなにかにも思い当たることはできなかった。そのことがわかってから、おれは立ち上がって、片付けの続きを始めた。

 帰ってきた葉はきれいになった二階にだいぶ驚いたみたいで、さすがだね、ととくに根拠なくおれを褒めた。ありがとう、とおれは言った。飯もすぐできる、と言って作っておいたケチャップライスを温め、工場の近所の喫茶店直伝のオムライスを作ってやると、すごいすごいたまごがつやぴか、と喜んで食べた。

 翌日は残った子供部屋の片付けだった。とりあえずもう誰も寝ることはないだろうとベッドに置かれた布団を畳んだ。目に見える黴などは生えていなかったがそれでもちょっと変なにおいがしたので、紐でしばって一階におろした。二段ベッドはなんとか解体できそうだったので、葉がいるあいだにということで二人でできるところまでやった。作業をしながら他愛ない話を沢山した、学校で好きな教科、やっている部活のこと、塾でできた友達のこと、幹が元気になったら一緒に遊びに行きたいところ。今日なに食べたい、と聞くと一拍おいてからにっこり笑ってカレー、と言った。三畳間にあった工具箱が役に立って、かれが塾に行く前にベッドをおおむね分解することができた。昼からも、同じサイズの板や棒を括ったり、長すぎるものを小さなのこぎりで切ったりして、階段を往復してそれを運びきるともう夕方だった。いつかのような薄青が窓の外に広がっている。色だけは変らないんだな、と思ってカレーに足りないものを買うために家を出た。

 どんなカレーが好きかわからなかったので、大阪で食べ慣れていたビーフカレーを作ったら、家のカレーは基本チキンだからめずらしい、おいしい、とニコニコして食べてくれた。おれは葉のおいしそうな顔を見るのが好きだな、と思った。

 なんだかお兄ちゃんができたみたいで嬉しい、とかれは笑う。そう、とおれは言った。皿を洗ってしまうから持ってきて、と食後に声をかけると、はい、と明るい声で言って運んでくる。ちょうど振り返ったときにかれがそこにいたので息ぴったりだな、と思うと葉もそうだったらしくて春さんとは気が合うと言う。皿をすべて洗ってしまうと、お疲れ様でーす、お水だけど、と言ってかれがガラスのコップを差し出してくる。差し出されたのは左手で、既視感があった。たしか初めて会ったときにもかれの手は左が差し出されていた。おれは思わずコップを右手で受け取って、開いた左手を差し出した。葉はおなじように手のひらを上にして右手をあげ、中指の関節をこつんとおれにぶつけた。まるで鏡のように。目を一度固く瞑って開くと、かれは同じようにした。にっこり微笑んで見せると、同じようにした。そこまで来て、我慢できないといった様子で笑い出し、ねえなつかしいこれ鏡遊びでしょ、ぼくも幹とめっちゃ子供のころやってた、春さんもやってたの。といかにも楽しい、という様子で言った。おれはなにも言うことができなかった。右手から滑り落ちたガラスのコップが、分厚いものだから割れはしなかったけど転がって、氷が二つ床の上で滑った。春さん、と一転不安げにかれは言った。おれはたまらずかれのその薄い身体を抱きしめた。ぎゅうとまわした腕が、あまりにも細い肋骨に触れる。おれの不意の行動に葉は驚いたようだったが、何も言わず、腕をはねのけることもしなかった。必死にしがみ付いて、寄せた鼻先がちょうどこめかみの辺りにあたって、シャンプーと、微かに薄荷とオイルみたいなにおいがした。とても長い時間だか、わりと一瞬だか、おれはそうしていて、そして正気に戻って慌てて何度も謝った。葉はいいよ、気にしないで。と言ってくれるが、申し訳ないやら年下に見せる態度ではないと思うやらで落ち着かずに頭をさげ続けるおれを置いて、本当に気にしてないよと言うと、とっとと眠ってしまった。

 いつの間にか六日もたっていて、もうあと四日しか葉と一緒にいられないと思うとすこしさみしかった。次の日もかれは楽しそうで、子供部屋のちいさな押入れから出てきたものに目を輝かせていた。二段ベッドが邪魔になっていて半分しか開かなかった押入れはどうも緊急ではないものが沢山入っていたようで、それこそ晶が祖父母にもらった天体望遠鏡やら地球儀やら、古い飛行機の模型やらが出てきて、小学生のころのおれたちですらすこし微妙、と思っていたものが今のかれの目から見ると一周回って新しいらしく、地球儀を回しては知らない国がいっぱいある、名前が違う、国境も違うとはしゃぎ、模型についてはシブい、という評価を下していた。島の文房具屋で買われたらしい学用品にはリアルエイティーズじゃんヴィンテージじゃんと楽しそうに叫び、おじさんはもうついていけないです、という顔をするしかなかった。すごいすごいとスマートフォンで写真を撮るかれに欲しいならあげる、と言うと真剣に見繕い始めたので笑ってしまう。学校の友達、こういうの好きな子もいるからさあ、と下敷きで自分を扇ぎながら言った。

 じゃあこれは友達にあげる、といくつかものを取って、これは自分用にしようかな、と摘み上げたのは大きめのジャムかなにかだったらしいガラス瓶に差されたままの透明な万年筆だった。これは晶がむかしおばあちゃんにもらったやつ、と言うとそれぼくにもおばあちゃんかな、と言うので、ううん、もっと田舎の、南の島のおばあちゃん、と教えてやる。でも古いペンだからな、書けるかな。と言うとかれは万年筆の使い方をスマートフォンですぐ調べて、水で洗ったらいけるかも、と言った。ペンたてのほかのものは古いはさみや、ボールペンだったから捨ててしまって、ほこりまみれのその瓶をかれはくるくると洗った。新しい水を入れ、ねじを回すようにペンを分解して、そのまま水につけた。いつのものかわからない紺色が、一筋ふわりとガラスの中で踊った。

 翌日は水曜日で、おれたちがもう一週間も一緒にいるんだと思うと戸惑う。 朝、普段つけないテレビをかれが初めてつけたので、理由を尋ねると台風が近づいているから進路が気になって、という話だった。たしかにこのまま進むと明日このあたりを直撃するらしくこのおんぼろ家がそれに耐えられるのかおれはすこし怖くなった。とにかく戸締りをするしかないな、と真剣に考えていると葉がけらけらと笑って、春さんが東京にいないあいだこの家だって沢山台風が来たんだからいまさら飛びやしないよと言って、それを聞いてすこし気が楽になった。今おれが住んでいるところはあんまり台風が来ないんだよといって、工場のことを思い出す。来週にでも帰らなければいけないのが、楽しみなようであり、名残惜しくもありで不思議な気持ちだった。来る前はあんなに嫌だったのに。塾が休みの日だから、なにか食べたいものがあるかと問うとかれはすこし考えてギョーザ、と言った。今日は送り火の日だから、焚いてから一緒に食べに行こう、と昨日水に浸けていたペンを引き上げながら笑った。葉が食べるものを作ってやれないのはさみしいような気がしたが、たしか近所に旨い中華料理屋があったからそこに行けばいいかもしれない、晶も好きだったから、きっとかれも気に入るだろうと思った。

 子供部屋の片付けは順調で、押入れはほぼ空になり、机の中身も明日にはけりが付きそうだった。古い教科書も葉は面白かったみたいで、今と違うとしげしげとそれを見ていた。さすがに残す意味もないので、廃棄用のダンボールに詰めていく。

 日が暮れたころに、送り火を焚こうと言うのでそうした。夕日はおどろくほど赤く、軒先からはそれ自体が見えるわけではないが空の半分ぐらいが怖いほどあざやかな色に染まっていた。さみしい虫の声がして、ざあっと吹いた風はずいぶん冷たかった。なんの虫だろう、と言うと葉がひぐらしだろう、と続けるように答えた。

 焦げ跡のついたぺなぺなのアルミ皿に、オガラを積んで火をつける。あんなに苦労したのに、今回はすぐに火をつけてみせた。要領がいいんだな、とおれは思う。晶みたいだ、と思って、そんなことばかり思うおれ自身が見苦しいな、ともうひとつ思った。強い風に煽られて火はすぐに強く燃えて、消えた。後にはきれいに炭になったまっくろなオガラだけが残った。コップの水をかけて灰が散らないようにとかれはすぐそれを玄関の中に引き戻した。

 ギョーザ、おいしい店あるから、と言って葉を連れて外に出ようとすると、まさかと思うけどなくなってないよね、と疑わしそうな声音が帰ってきた。おれがなくなったスーパーを目指していた話をしたのを覚えていたらしい。ちょっと待ってと言い、その場で調べると確かに店は健在だったが、すこし遠いところに移転しているようだ。調べてよかったよ、とかれは言い結局なんだかんだでチェーン店のファミレス風の中華屋に行くことになった。例の電話ボックスを越えたちょっと先にその店はあって、白々とした店内におれと葉はぽつんと浮いているようだった。葉のリクエストで餃子だったのに、頼んだそれにかれはあまり箸をつけずに青菜炒めばかり食べていた。ほどほどに人がいるのに、静かな店だった。話の内容までは聞こえない程度のかすかなざわめきが、まるで寄せては返す波のようで、おれは大きなガラス窓に映った葉の姿を見ていた。外は真っ暗で、それはまるで鏡みたいだった。

 台風の予報は当たったらしく朝からすごい音をさせながら雨が降っていた。この雨は台風に伴った前線の影響で台風自体は昼過ぎです、これからどんどん雨が強くなりますとテレビは言った。ちゃんと早くに起きたのに、葉はコーヒーを入れなかったし、ラジオ体操もやらずにおれたちはニュースを見ていた。どこか遠くの町で浸水があったらしくて、ニュースは水浸しの町を映していた。泥水の川のようになった道を押し流される車の映像が、どこか嘘のように見えた。強くなる雨脚にしかたないと数日前に片付けた雨戸を引き出して閉め、家中が夜のように暗くなったところで、子供部屋にだけ明かりをつけて掃除の続きを始めた。細かいものと、ベッドの下にしまわれていた衣装ケースが残っていたので、まず机のほうから雑多な紙類などをダンボールに詰めていった。学校のお知らせや、古いノートや、テストの答案なんかが出てきて、今までの葉ならおれより賢いだのこれは勝っただの言いそうなものなのに、雨風の激しい音と古い蛍光灯のかすかにちらつく光がおれたちからそんなふざける気力を奪っていったようだった。いっぱいになったダンボールを二人で階下に運び、衣装ケースは中身だけざっとみてこのまま下に運ぼう、とおれが言うと、かれは頷いた。雨の日って頭が痛いよね、と言うので、奇遇だなあおれも具合がよくないんだ、と言いながら白色のプラスチックのそれを開けると、中に入っていたのは学生服だった。瞬間、ばちんという音が聞こえてあたりが真っ暗になった。

 停電か、とおれが言い、とりあえずブレーカーを見てくるとスマートフォンのLEDの明かりを頼りに葉が動こうとしたとき、足元に置きっぱなしの衣装ケースのふちを踏んだらしく服がばさっと散らかってそのまま転んだ。光源がシャツかなにかの下敷きになったらしく目を刺すちいさな点が朦朧として、すべてのものの輪郭がぼんやりとだけ見えるようになった。飛び散ったのは晶が着ていた服だった。灰色の半そでのシャツも、紺色のマフラーにも、学生服にも見覚えがあって、おれは泣き喚きたいような、心臓が突き刺されたような、そんな気分になった。晶の服の下敷きになって、身を起こしたかれは薄明かりのなか違う人間に見えた。晶。おれが思わず零すと、冷たい声音でかれは言った。

「ちがうよ、ぼくは、葉介だよ」

 あ、とおれの唇から震えと声とがない交ぜになった呻きが漏れて、暗い中に消えていった。ぼくは、違うよ、と駄目押しのようにかれは言った。ぼくはあなたの半分じゃないよ。日、とかれはおれを呼んだ。

 でもあなたはとってもかわいそうだから、ぼくの夏休みを一日だけあなたにあげる、と言われて、おれは思わずその足元に座り込んだ。寒くもないのに身体の芯から震えている。それでも手を伸ばすと、鏡遊びのときのように触れてくる気配があった。かれの指先はあまりにも冷たくて、氷に似ていた。

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これはフィクションです

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