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喋る猫の家

家の庭に冬がきた、と猫が言った。

祖母が死んでから誰も手をつけていない庭には、背の低い木が小さな赤い実を垂らしていたり、弱々しい雑草たちが点々と身を寄せ合って、土は茶色く栄養がなさそうにすかすかした色をしている。しかし一本だけ大きな木が細く立って、この家を見下ろしている。

庭に冬がきた、霜がおりたんだと、猫が言った。足が冷たくてかなわんのだ、と私の布団の中に潜り込んできて、お前も庭にいくといい、と、私の腹に顔をこすりつけて暖をとる。布団の中でもぞもぞと動きながらその体を撫でてやると、長い毛先がひんやりと冷たく、しかし指先を埋めると暖かい。三毛猫の茶色の毛をまぶたに浮かべながらそのまま撫でてやると、鼻からひゅうひゅうと息を漏らしながら眠ってしまった。年寄りの猫はいびきをかくし寝言もいう、人間の言葉も喋るし大変だった。

祖母が死んでから、この家には誰も住んでいなかった。河原のそばにある平屋の一軒家は、小さな庭をひとつもち、赤色をしていたはずの屋根がくすんで茶色に変色していた。縁側の窓は網戸がはがれて、板の間はぎしぎしと音をならし今にも穴があきそうだった。ただ朽ち果てるのを待つようにどこもかしこもいたんでいて、それでも小さな庭には弱弱しく何かが生えて、何かが枯れていた。母も父もどうしようかと考えあぐねていた。祖母になついていた近所の三毛猫が一匹で住んで闊歩しては、おしっこや糞でまみれて、母と父はさらにこの家にたいしてどうすればいいかわからなくなっていった。

仕事をやめようと二十八歳の誕生日に決めた私は、上京した東京の街ですっかり疲れ切っていた。仕事を辞めて、祖母の家に住むことに決めた。別段祖母に思い出があるわけでもなかったし、祖母と仲が良いわけではなかったが、東京で疲れ果てた私に、この朽ち果てそうな家はぴったりだと思った。この家を直しながら川や山を眺めてゆっくりしてやろうと思ったのだ。退職金や失業保険でしばらくお金に困ることはなさそうだったし、なにより家賃はかからない。修繕の為のやる気さえあればどうにかなる。父は自分がやらなくて済むのだと喜んで、何かあれば手伝うと言っていた。

早く行ってみろ冬の匂いがするぞ、と私の腹に顔をつけたまま猫が言った。夢の中に入り込みそうだった意識を爪でひっかかれて、浮上する。年寄りの猫はどうも眠りが浅いらしい。私が体をまた撫でようとすると、するりとかわして布団から出て行った。

「お前の婆さんは立派だった、早くに起きて庭を耕し、美味そうなにおいのする料理をこさえて、必ず一時間散歩をして読書をした。それがどうだ、お前はこの家を直してはいるが、それ以外どうだ。もう日も高くなる、起きたらどうだ」

猫の意外と低い声が私の鼓膜をゆすり、わかったわかったと繰り返しながら布団から起き上がる。部屋中の空気がどこか冷たく、ああ、冬の匂いがすると思った。この家に冬が来たのだ。起き上がり茶の間に続く畳をのそのそと這って、やって来た時から出してあるこたつに足をつっこみ、初めて電源をつけた。じじ、じ、と唸り声をあげている。

私が買ってきた猫用のクッションの上で、年寄り猫は寝転がり窓の外を眺めている。時計は十時をさしている。祖母はおそらく五時とか六時とかには起きていただろうから、あの猫からしたらわたしは惰眠をむさぼる女にしか見えないのだろう。悪態ばっかりつきやがって、と小さな声で言うと、聞こえているぞ、と返事をされる。

窓から見る空は曇っているが、太陽光がうっすらと差し込んで、冬の朝らしい色をしていた。小さいけれどなんの手入れもしていないこの庭がお気に入りで、眺めているとなんだか落ち着いた。暖かいこたつも手伝って、私の心は夢心地だった。

祖母が死ぬ二年か三年、それよりも前かもしれないが、いつの間にか祖母の隣にはこの猫がいた。死んでからも居着いて、仕方ないので母と父が実家に引き取ろうとやってくると、その気配を察知してかどこかへするりと逃げていき、捕まることがなかった。仕方がないのでそのままにすることにしたらしい。私がくるまでエサはどうしていたのか聞くと、そんなものどうにでもなる、と言っていた。

仕事を辞めて東京からこの祖母の家にやってきて一週間ほど、この猫は私の前に姿を現さなかった。父も母もこの家を放っていたし、元々野良猫だったと聞いていたからどこかへ消えたのかと思っていた。ある晩に玄関をかすかに叩く音がして、気のせいかとも思ったが開けてみると、普通の猫より大きな体をした三毛猫がきちんとおすわりをしていて、私はお前の婆さんに頼まれて死後この家を守ってきた、お前が新しいこの家の主人なら私をここの客人として迎え入れろ、と実に流暢な日本語で喋ったので、私はそのまま扉を閉めた。今でもこの時のことを引き合いに出される。あの対応は失礼だ、私がせっかくあそこまで丁寧に言ったというのに、お前の婆さんとは大違いだ、と。

猫は冬の弱々しい日差しのしたで体をだらしなくのばしている。縁側でゆっくりとタバコを吸う、というのがこの平屋に住んでからの楽しみにしていたのに、いつの間にか縁側は猫のテリトリーになっていた。猫はだいぶ年をとっているらしく、鼻の頭にはぼつぼつと小さなこぶがたくさんあって、右目はひっかかれた傷が痛々しく残っていて、目やにもよく出るようだった。目やにを拭いてやろうとすると当初猫は嫌がったが、拭く拭かないの押し問答を続けるうちに、そういう頑固なところは婆さんそっくりだ、としぶしぶふかせてくれるようになった。

畳の上に散らかった服の中から一番暖かそうなパーカーを羽織って、猫をまたいで縁側から庭におりた。サンダルは冷たく私の足を包んで痛いほどだ。

生命がかすかに、本当にかすかに息をしているような祖母の庭。白い結晶が隆起して、栄養のない土を持ち上げていて、冬の始まりを知らせている。ところどころにあるその結晶たちを踏むとサクサクと音がして、そばを流れる川の音と呼応しているようだ。歩いて五分の場所にある川は太く大きく、どうどうと音を鳴らして空気を揺らしている。顔をあげると太陽は隠れているが空は遠く、敷き詰められた雲は薄く伸びて、差し込む日差しで白黒の濃淡が綺麗に描かれている。

縁側の方をみると猫がまぶしそうに目を細めながら、綺麗な姿勢でこちらに顔を向けていた。長く生きている顔をしているな、と思う。おいでよ、と手招きをすると一瞬目を開いたが、またまぶしそうに眼を細める。足が冷たくてかなわん、と言っていたのを思い出した。私は年甲斐なく霜の降りた庭を嬉しく思いながら、飛び跳ねたりしながら踏んでいく。サクサクと音がなる。東京にはなかったかすかな生命を祖母の庭で感じることが、嬉しかった。

家に戻ると、猫が飯を早くよこせ、と言った。言われなくてもやるよ、とキャットフードをいれてやり、自分の朝ご飯にパンを一枚焼いて食べた。

「さっきは年甲斐もなくはしゃいでいたな、婆さんも霜が降りると喜んでいたものだ。はしゃぐお前を見て、なんだか懐かしい気持ちになってしまった」

キャットフードをカリカリと響かせ、食べながら言った。私はこたつで何もつけていないパンを頬張りながらふうん、と返事をする。

私の知らない祖母をこの猫はたくさん知っていた。私は祖母のことなんかあまり知らない。きっとこの猫の方が知っている。私の知らない祖母は猫の小さな頭の中で生きていて、私はそれを少しずつ教えてもらっている。

「なんでうちのばあちゃんに懐いたの」

「さあな」

「なんで喋れるの」

「さあな」

ふうん、とまた返事をして、パンを頬張る。猫の食事の音がカリカリと木造平屋の一軒家を小さく震わせて、耳をすませば遠くの方で川の音もする。変な家、と小さな声で漏らすと、婆さんに失礼な娘だ、と低い声で言われた。猫のくせに、と悪態をついてやると、聞こえてるぞ小娘が、とまた低い声で言われた。


#第1回note小説大賞 #小説



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