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「バリアフリー上映」を観たら目からウロコが落ちた話

今日はもうひとつ記事を。
表彰式の横で、実は「バリアフリー上映」の映画を観ていました。

気にはなりつつ観そびれていた作品だったのもありますが、「バリアフリー上映」とは何ぞや? というのが気になったのもあります。
今回は、映画の内容そっちのけで「バリアフリー上映」について語ってみようと思います。

「バリアフリー上映」とは?

視覚、聴覚に不自由がある方向けに、音声によるナレーション、字幕が加えられた映画作品です。
字幕はともかく、細かく入るナレーションが、通常上映される映画との決定的な違いになるかと思います。
目が見え、耳が聞こえる状態で鑑賞すると、かなり違和感があります。
が!
観ているうちにとある事に気付き、これは物書き諸氏に勧めるべきではないかと思い、記事にまとめてみます。

物書き視点で「バリアフリー上映」を観た結果

ここからは物書き視点で書きます。
迷える物書きとして、やはり一番の悩みどころは『地の文』でしょう。
会話文だけだと薄っぺらいし、かといって情景描写に凝ると重くなる……。
そのさじ加減は永遠の課題かと思います。

さて、執筆方法は色々かと思いますが……
私の執筆スタンスは、「頭の中に画像を作ってそれを文字に起こす」というものです。
これは、私が本を読む時にも、一度頭の中で映像にしないと理解できないところから来ているもので、正しい正しくないとかは分かりません。
とりあえず、私はこうだ、というのをご理解いただければ。

そして、「バリアフリー上映」のナレーションについて。
例えば、主人公一家の食事のシーン。
画面には、和風建築のお座敷でお膳を挟んで向き合う四人の男女。
そこに、
「朝、猪山家にて。高い脚付きのお膳を囲む直之、お常、おばばさま、そして正面に信之」
といった感じに説明が入ります。

ここで注目したいのが、「高い脚付きのお膳」という表現。
後々、この猪山家、財政難でそのうち「低い脚の粗末なお膳」に変わるのですが、「高い脚付きのお膳」とはただの見た目の表現だけでなく、「高級な食器を使った豪華な食事」を意味するものともなっています。

それを踏まえてナレーションを見直すと、どうでしょう。
ただの四人の食事風景が、ちょっと背伸びをした気取ったものに見えてきませんか?
そこから、見栄っ張りな性格やらお金に無頓着な生活感やらが滲み出してきます。

それを感じた時、「ふあああ!」となりました(語彙力)。

たった十秒足らずの解説に込められた意味の圧倒的質量!
それの連続なのです。
映画は解説のために中断する事なく進んでいくので、最低限の言葉の的確な状況説明が挟まれていきます。
その言葉選びの見事さ! 感服いたしてござる。

『地の文』とは、読者の脳内に作者の脳内を移設する作業

そして、私が「映像構築型」の執筆タイプなのに戻ります。
「バリアフリー上映」のナレーションが、目の不自由な方の脳内へ映像を届けるものであるのなら、「地の文」は、何も知らない読者の方へ作者の頭の中の情景を伝えるもの。
そう考えた時、「バリアフリー上映のナレーション説明こそ、理想の地の文ではないか?」と感じました。
無駄な描写を極限まで削ぎ落し、なおかつ誰にでも分かりやすい言葉で、物語の流れを邪魔する事なく状況を説明をする。
これぞ、私の求める地の文!

そう思ってから、ずっと、「このシーンはどんな言葉選びをするのだろう?」という事ばかり考えて観ていました。

「黒の裃」→葬式の場面である
「大きなお腹を触る」→妊娠している
「ニッコリと微笑む」→肯定の返事
(記憶だけで書いているので、違う部分はあるかもしれません)

そんな、「目から入る情報」で状況を解説していく工夫は、あくまで「映画」として、「映像を見る」体験にこだわった表現なのでしょう。
それを小説に応用すると、より臨場感のある表現ができるのではないか……と、すごく感動したんです!

是非是非、地の文にお悩みの方は、「バリアフリー上映」、一度ご覧になってください!
もちろん、本来、それを必要な方優先で、空きがあればですが。

今回は大変貴重な経験ができ幸運でした。
この「目からウロコ」体験を、今後の創作に生かしていきたいです。


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