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マリオパーティのカイジ感

ゆとりと言われる我々アラサー世代は、必ずどこかでマリオパーティをやったことがある年代である。どこで、だれとやったかは覚えていなくとも、絶対どこかではやっているし、少なくとも見てはいる世代である。

そして、マリオパーティと言えばミニゲームだ。我々世代は、マリオパーティのミニゲームでAボタンの場所を覚え、連打スキルを身につけていったと言っても過言ではない。回し過ぎて3Dスティックがバカになったり、連射機を持っている友人に理不尽さを感じたりしながら、我々は大人になっていったのである。

塔の上でボールに乗ったキャラクターを操作して友達を落としたり、大砲が撃ち込まれて不安定な小島から落ちないように逃げ回ったり、ピノキオがあげた色以外が水に沈むマスの上で走り回ったり、さまざまなミニゲームで我々は熱くなった。そして大人になった今、思う事はたったひとつ。


世界観がカイジすぎるのだ。


塔の上で、ボールに乗ったキャラクターを操作して落とし合うシチュエーションなど、カイジ以外で起きようが無いでは無いか。玉乗りをさせて、ぶつかり合って、下も見えない塔から落とし合う。カイジの鉄骨渡りが可愛く見えるくらい、鬼畜のデスゲームでは無いか。

大砲が撃ち込まれて不安定な小島から、落ちないように逃げ回ると言うのも、大砲を島に向かって打っている側の人間がいると考えると恐ろしい。死ぬ可能性すらある危険な大砲を、4人が横になれるぐらいのサイズの島に、容赦なく打ち込んでいる人間がいるのだ。ワルイージーなんかより、よっぽどのワルが乗り込んでいるに違いない。

何より恐ろしいのが、コレをパーティと呼んでいるところである。マリオ達が命をかけたこのゲームを、「ミニゲーム」と言って、その寄せ集めを「パーティ」と言っている人間がいる。カイジと同じ境遇のマリオ達を、パーティとして楽しむという、地獄の構図が完成してしまっているのである。


命をかけた競技を「ミニゲーム」と言われて、「パーティ」として子供達に楽しまれているマリオ。大人になった今、彼らには感服する限りだ。さらにはそれがシリーズ化され、10年以上デスゲームをしていると考えると、もはやマリオは心が壊れてしまっているのでは無いかと思うほどである。

コレから先もおそらくデスゲームを、させられ続けるであろうマリオ達に、我々は頭が上がらない。マリオ達を操作して、パーティとして楽しむ我々は、カイジで言う金持ち側の人間として、頼むしか無いのかもしれない。

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