MARIN

僕と彼女はどこへ行くにも一緒だった。
晴れの日はもちろん、雨の日だって一緒だった。
年越しは毎年彼女と初日の出を見に行った。
遊びに行くときも一緒だった。
大学1年生の時に出会って、5年間。僕らはとにかく一緒にいた。

僕と彼女は愛し合っていたのだ。
いや、「彼」だったかもしれない。

僕も彼女が出会ったのは大学1年生の冬だった。
彼女はマリンという名で、その華奢な黒い体に白い文字でMARINと彫ってある可愛い女だった。

彼女の値段は五万円だった。
一目見たときの愛くるしさや、ママチャリへの飽き。そしてお年玉を貰ったことによって大きくなった気が後押しし、僕はその場で衝動買いをした。

マリン。
そう、彼女は自転車だ。
だけれど僕の中では自転車なんて単純なものではなかった。
僕らは愛し合っていたのだ。

自転車を買うと同時に付属品も揃えた。
ヤンキーが彼女に鍵の形のネックレスを渡して「お前、俺のもんだから」と、言うように。僕は彼女に緑色の鍵を買った。
ヤンキーの鍵型のネックレスという愛情表現に対して、こっちは本物の鍵だ。奴らの独占欲なんて比ではない。「お前、俺のもんだから」
マリンは恥ずかしそうに少し笑っていた。
そして鍵と同じ色のドリンクホルダーも買った。
部活の先輩が「試合お疲れ、あと少しだったな」とポカリを差し出してくれるように。こっちは負けじとドリンクホルダーを買った。

それからというもの、本当にどこへ行くにも一緒だった。学校はもちろん、稽古場や劇場。映画館。ずっと一緒だった。
何度も彼女にまたがった。
時には彼女の体を隅々まで洗った。

そんな僕がおかしくなっていくのには時間はいらなかった。
それは大学2年のとき。
その日もマリンで大学へ行った。帰りには小雨が降っていた。そんなのお構いなしにマリンと帰宅した。
帰宅時に「お疲れさま、ありがとう」と声をかけて後輪をポンポンと触った。
そして家に入り、ご飯を食べてお風呂に入りすぐベッドに入った。
その時にふと「あ!前輪が嫉妬しちゃう!」と思い、急いで外に出てマリンの元へ駆け寄り「ごめんな、お前もお疲れさま。ありがとう」と前輪をポンポンとした。

怖い話ではない。愛の話だ。
前輪と後輪が別々の人格を持っているのか。とか。サドルやハンドルは嫉妬しないのか。とか。そもそも前輪が嫉妬するとは。とか。今思えば不思議なところはたくさんあるが、その時はとにかく前輪を嫉妬させたく無い気持ちでいっぱいだったのだ。

人の愛にケチをつけないでほしい。
とにかくそのくらいマリンを愛していた。

となると当然、会話もできるようになる。
もう一度言う、怖い話ではない。

その日は舞台の千秋楽だった。マリンで劇場へ向かい、打ち上げが終わり、マリンで帰ろうとしたら、マリンがパンクしているのである。
マリンにおいてのパンクとはヒールの靴が折れてしまうみたいなことなのだ。

僕は不思議とショックを受けなかった。それはマリンと居られる時間が伸びたから。
ひょっとしたらあのときマリンはわざとパンクしたのではないだろうか。
「今日、、門限やぶっちゃおうかな」のそれである。

深夜1時くらいだったと思う。そこから2時間弱、マリンと歩いてデートをすることになった。
僕は彼女をおんぶして(押して)夜の環七をひたすら歩いた。いろんな話をした。さっきまでやってた舞台のこと。僕の悩み、感謝。
一方的に僕はマリンに話をした。

1時間ほど歩いたところで海の話になった。
どういう経緯でなったかは覚えていない。
その時に僕は「マリンは海見たことないもんな。マリンなのにな。いつか見せてあげるからな。」と言った。多分言葉として口から出ていたと思う。
そしたらマリンが言ったのだ。
「え、私海見たことあるよ。あそこ行った時海通ったじゃん。その時に見せてくれたでしょ。」と。
僕はその時に気がついた。「ああ!そうか!あの時たしかに海通ったね!」

僕が忘れていた記憶を、マリンは覚えていたのだ。そしてそれを僕に教えてくれたのだ。
今までの一方的な会話ではなく。それは紛れもなく「会話」だった。
その奇跡の会話を皮切りに、僕とマリンはどんどん話せるようになっていった。

僕が貼ったステッカーがあんまり気に入ってないこと、あそこのコンビニの店員がかわいいこと、バナナをより長持ちさせる保存方法。
いろんなことを語り明かした。
本当にあった愛の話だ。

そして、大学を卒業してから1年後。
僕とマリンが出会って5年目。
別れは不意にやってきた。

僕はいつものようにバイト先へ向かった。
バイト先のコンビニの横にマリンを停め、鍵をかけた。鍵をかけたのだ。

そして朝5時。あと3時間でバイトが終わる。
ゴミを捨てに外に出た。マリンはいつものようにそこに居てくれた。

朝8時。
バイトが終わり外に出た。
そこにマリンの姿は無かった。
そう、マリンは盗まれたのだ。
盗難事件ではなく誘拐事件である。

急いで警察に連絡し、間も無く警察がやって来た。僕は事情を説明しその日は帰った。
すぐ帰って来てくれると思っていたが、1週間が経ち、1ヶ月、1年が経ってもマリンは帰ってこなかった。そして今もまだマリンは帰って来ていない。

マリンは今どこでなにをしているのだろうか。
あの時見た海をまだ覚えていてくれているだろうか。僕が忘れていたあの海。君だけが覚えていたあの海を。

そして僕は彼女を忘れようとした。
忘れるためにバイクの免許をとった。
まるで死んだフィアンセのことが忘れられないでいるカリフォルニアのハーレー乗りだ。
だけれど僕がとったのは小型限定125cc未満、しかもAT限定だ。ちょっとアクティブなおばあちゃんがよく乗っているタイプのやつだ。

僕はすぐに中古のバイクを手に入れ、街中を走った。マリンより格段に速い。
スピードは昔の女を忘れさせてくれる。
唸れタコメーター。轟けエンジン。
僕はこれからコイツと生きていく。
マリン、本当のお別れだ。今までありがとう。これからは彼女と旅をするよ。君のことはもう忘れるつもりだ。
紹介するよ、彼女の名は海。
umiだ。
嘘じゃなく、本当の話だ。
つまり未練の話だ。

上がMARINで下がumi。
もしumiが盗まれたら、僕は車のアクアを買うのだろうか。

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